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『あんこ』は目上の女性を親しみを込めて「おとらあんこ」など名前の下につけて呼びました。今では広く島の娘さんのこと、ちなみに私は男。   連絡メール

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あんこ人形誕生記
昭和初期、伊豆大島に生まれた農民美術「あんこ人形」、 島人に彫刻を指導した彫刻家木村五郎、60年彫り続けた職人の父、人形生誕から資料館を開くまでの回想と資料館の今と未来を記す
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伊豆大島発「和田三造と大島」②
 和田三造は明治37年の白馬会展覧会に9点の作品を出品している。毎日新聞の白馬会展覧会評欄で「為朝百合」「槿(もくげ)の花」「霊岸島」「雨の波」「暮れの務め」「三原山の絵」といったタイトルの作品が論評されている。
 「暮れの務め」について、【褐色のまだらの牛のそばで男が座って乳を搾り、女は桶を頭に載せて過ぎようとしている】、そんな光景だと書かれているので大島が題材の作品だ。
 霊岸島は当時大島行きの船舶の発着場所の地名で、現在の中央区新川にあった東海汽船の桟橋付近の風景を描いたものだと思われる。
 「大島婦人の肖像」の下絵と思われるような和田三造が板に描いた婦人の姿像が「島の新聞昭和12年2月14日号」にカットとして【和田三造筆島娘】として掲載された、千代屋にあったものとおもわれるが、今この作品の所在は調査中だ。 
 白馬会10周年展覧会(明治38年)には「伊豆大島風景」を出品している、残念ながら白馬会に出品した作品図録はまだ1点も確認することができていない。
 「南風」と同じ頃に「大島を望む」という船上からみた大島の姿を板に描いている、両作品とも近代美術館が所蔵している。
 和田家でしばらく暮したという工芸家の山形駒太郎は、【アトリエで『三原山・五十号』や大島のアンコの像数点を見た、大島元町(旧元村)の旅館千代屋には、先生の小品が数点ありましたが、先頃の大火でうしなわれたのでしょう。惜しいことです。】と回想している。
 和田三造が定宿としていた元村の千代屋にはサイン入りの絵があったが昭和40年の大火で焼失してしまった。また、元村吉谷神社例大祭に掲げる「三原大明神」の大きな幟旗の文字を和田三造が頼まれ書いているが、これも大火で無くなってしまった。旅館「千代屋」の主人が仲介して書いたもらったもので、旅館近くの「浜宮様」に掲げられていたと聞いた。村人にとって大切なお祭のシンボルであるお旗の文字を揮毫してもらいたいと思わせたことは、三造が地元にすっかり溶け込み、歓迎もされ、信頼もされた証ではないだろうか。

和田三造千代や
和田三造が泊まった頃の「千代屋」 眼下に前浜(船着き場)が見える高台にあった

和田三造島娘
S,WADA(島娘と読めるか)のサインが入った板画

あんこ油売り明治45年
絵葉書で年代特定することは難しいが「大島風俗 油売」(明治45年)と書いてある、水桶と椿油缶を頭に乗せて運ぶご婦人の普段着姿
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この記事に対するコメント

千代屋の板前さんは漫画家のつげ義春の実父だったそうですね。
千代屋の床下にいたちが住み着いていたと自伝に書いてありました。
【2010/12/16 01:00】 URL | ラマセンのトシ #8N5yjtow [ 編集]

回想記に
断片的回想記につげ義春氏は「4才の頃に大島に来た」そう書いていますね。
私の知り合い(大島在住)がつげ氏に手紙を書いたら「大島の記憶はほとんどないが、郷里がないのは寂しいもので訪ねてみたい気持ちは抱いております・・」そう返信をいただいたそうです。
【2010/12/25 11:03】 URL | ankosan #- [ 編集]


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