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『あんこ』は目上の女性を親しみを込めて「おとらあんこ」など名前の下につけて呼びました。今では広く島の娘さんのこと、ちなみに私は男。   連絡メール

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あんこ人形誕生記
昭和初期、伊豆大島に生まれた農民美術「あんこ人形」、 島人に彫刻を指導した彫刻家木村五郎、60年彫り続けた職人の父、人形生誕から資料館を開くまでの回想と資料館の今と未来を記す
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伊豆大島発「和田三造と大島」①
 東京から洋上遥か120キロに浮ぶ伊豆大島はこれまでに様々な分野の芸術家を迎えてきた。特に明治の後期から昭和の初期にかけて画家たちは「大成したければ大島を描け」を合言葉として競ってやってきた。
 なぜ画家は大島にやって来たのか、そしてどんな風景を描いたのか、大島が画家に何かを与えることができたのだろうか。
 「伊豆大島」を描いてその存在を世に知らしめた最初の画家として 和田三造「南風」 【美の巨人たち 一枚の絵】 があげられる。
 東京美術学校で油絵を学んでいた明治35年(19才)に八丈島を目指して伊豆の伊東から郵便船に乗り込み、大島に辿り着くことになった劇的なエピソードを和田三造は語っている。

《「晩帰」「南風」の頃》和田三造著 美術雑誌「アトリエ」(昭和3年8月号)から抜粋

・・・『南風』を描いたのが二十三の時だ。これを描こうとするまでにはロマンスがある。其の時分僕は伊豆の大島などの存在を知らず、東京湾の向こうは漠然として唯歌などで八丈島という名を聞いて其処へ行きたいと思っていた。
或月明の晩に伊豆の伊東から八丈島通いの郵便船に乗った。小さな船で気持ちよく海面を滑っていたが、夜半から俄かに暴風雨になって、全く文字通り木の葉のように翻弄され始めた。僕は海の荒れる様を此の時つくづく見た。風雨は刻々其の勢いを増して帆柱は折れ、帆は風に奪われて、船は唯波涛の怒りに任せるほか無くなった。
・・・其のうちに老船長は『少しでも船の荷を軽くして船を助けたいから済まんことだが皆さんの荷物を捨てて貰い度い』という。・・・僕は小さな風呂敷包み行李を持っていたので、船酔いの苦しい中で行李を引き出して捨てようとした。すると老船長は「書生さんはまあお待ちなさい。貴方はまだ未来のある人だ、万一貴方の荷物を捨てる時は此の船も郵便物と一緒に沈む時だ、万一助かった時に貴方が仕事ができない。さあお待ちなさい」と止めてくれた。
僕は此の時まったく感激した。風雨は過ぎても山なす波涛は止まず、或る時は苦しい頭をあげると大島が烈日に照らされて大きく見えた。それもいつのまにか遠く波の間にわからなくなった。
こうして漂流すること三日間、ようやく大島に辿り着く事が出来た。海岸では郵便船が着かないので大勢海岸に集まって騒いでいた、其処へ漂流の間に濡れ汚れた着物に蓬のように乱れた長髪という装いで上陸したので島の人は皆びっくりしてしまった。
・・・八丈島へ行く積りが存在も知らない大島へ漂流したわけだ。画家が大島へ渡ったのは僕が皮切りで、其の後大島は東京の美術家の写生地になった。此の時で郵便船の老船長は責任の重い此の仕事はとても老人には続けられないと辞してしまった。此の船長に対する感謝と記念の為に『南風』を描く気になって、其の為に郵便船に乗って何度か、此の間を往復して構想を練った。・・・
 

 和田三造を一躍有名にした「南風」は19才の美大生が死と直面したこのような体験がきっかけとなったのだ。何度も大島にやってきて絵を描きこみ、23才の時に記念すべき第1回文展(明治40年)で最高賞を受けた、作品には漁船に乗った四人の姿が描かれている。四人の人物像については和田三造が学生の時に習った柔道の先生や三造の分身ではないかという説がある。
 「漁師だった父から絵描きの和田三造を何度も船に乗せて釣りに出たと聞いた、帽子を被って座っている青年は父の若い時の顔に似ている」という話を大分前に島の古老から聞いたことがある、描かれている風景は野増という村の南の千波崎沖で大島をバックにして雲が北に流されている南風(みなみかぜ)の日の風景だろうという。
 大島の形は三原山を真ん中にしてなだらかな稜線が特徴でこの当時噴煙を上げていたとしても穏やかな島の印象を与えていたはずだ、「南風」に描かれた大島は左半分が隠れてしまっているが三角おむすび型に近く「隣の利島ではないか」そう思わせる形をしている。しかし、よく見ると絵の右側の稜線が長く平らな岬のように描かれている、波浮港の北側にあるトオシキ岬だと思われる、そうすると船の居る場所は元町と波浮港の中間にある好漁場の千波崎の沖合ということになりそうだ。

画像 002
「南風」に描かれた右端に坐っている青年像

古い福蔵
和田三造を漁船によく乗せたという福蔵丸の船長、晩年の写真だが、明治40年なら32才だった。



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