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『あんこ』は目上の女性を親しみを込めて「おとらあんこ」など名前の下につけて呼びました。今では広く島の娘さんのこと、ちなみに私は男。   連絡メール

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あんこ人形誕生記
昭和初期、伊豆大島に生まれた農民美術「あんこ人形」、 島人に彫刻を指導した彫刻家木村五郎、60年彫り続けた職人の父、人形生誕から資料館を開くまでの回想と資料館の今と未来を記す
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五郎さんの菩提寺へ
 何をするにしても「木村五郎のしっかりした資料を探し出すこと」、それが木村五郎研究会の大きな目標だった。当時私は大島で地方公務員として働いていた、時々休みをもらって調査に出掛けて職場を留守にしたので、どんな事を調べているのか、知ってもらいたくて資料を見てもらったりした。
 行かねばならない場所は、農民美術発祥の地である長野の上田、弟子入りを志願した彫刻家が暮す新潟三条、先輩彫刻家の生家がある富山福光そして都内の美術館や資料収集の研究所などだった。すべてがはじめての取材だったので、今から思えばもっとこうすれば、あれも見ておけば、そう反省する事もあるが、あの時はあれで精一杯だった。
 これまで初対面の場所にどれだけの照会書を書き送ったことか、まったく何の反応もない所、何もなくても「期待してますから、とか、何か見つかれば送ります」と返事をくれる人、「自分は知らないが、あそこならどうか」そう教えてくれた人もいた。
 資料の調査は順調だったが、五郎さんのご家族の消息の手がかりはなく、僅かなヒントは、昭和12年に出版された木村五郎作品集(遺作集)の年譜に「小石川大泉寺に葬る、戒名は教法院聞譽即悟信士」という記述だった。
 せっぱ詰ってお寺さんへ資料を添えて長い手紙を出した。その下書きはもう残ってはいないが、「こういう著名な彫刻家がそちらに埋葬されているらしいが、お墓の面倒を見ている人を教えてもらえないだろうか」と、ご住職は彫刻家のことは何もご存じではなかったが、故人顕彰の目的を理解していただき、ようやく縁者の方の連絡先を知ったのは平成10年の夏の終りだった。それから一番縁の深い木村五郎の義妹(五郎の弟の嫁)にあたる木村芳子(当時85才)さんを紹介していただいた。
 はじめて小金井市のご自宅に伺ったのが10月、その時に同席していただいた方が五郎さんの甥っ子の鈴木明さん(露語翻訳家)だった。明さんはその後、ウクライナのダビッド・ブルリュークの大島滞在中の紀行記「大島」や小笠原に渡ったブルリュークやチェコのフィアラが書いた紀行記を翻訳され自費出版されている。
 芳子叔母さんは結婚後しばらく五郎さんとも一緒に暮していたので、「兄さん、兄さん」と呼んでいろんな思い出話をしてくれた、親戚筋が所蔵している五郎作品を借りてきて見せてもくれた。木村の本家は今も江東区新木場にある、「建熊」という建具職人の工房で芳子叔母さんの息子さんが家業を引継いで居る、最近は大相撲の行司軍配を作れる最後の職人としてマスコミに登場している。その実家にわざわざ行かれてタンスの奥から昔見た記憶のある五郎さん本人が貼った貴重なアルバムを2冊探し出してきてくれた。資料館の開館の時にはご家族8人でお祝いに駆けつけてくれた。行ったり来たりでもう10回以上お会いして、お寿司とお酒をご馳走になり五郎さんの思い出を語ってもらった。
はじめてお会いしてからもう9年、足が痛いという以外は声にも張りがあってずっとお元気だった。資料館の10周年の区切りにはまた大島に来ていただきたいと願ってきたが、残念ながら3ヶ月あまりの闘病生活の末に平成19年9月1日94才で永眠されてしまった。
 入院されたと聞き7月初旬にお見舞いに行ったのだが、難しい病気だと聞かされた。「涼しくなったらまたお家でお寿司をご馳走してくださいね」そう言って別れてきた。
 五郎さん手掛かりとなった縁者を紹介してくれた木村家菩提寺の「大泉寺」で9月3日、お世話になった芳子叔母さんの告別式が行われた。記録ずくめの今年の猛暑がお寺にも残っていた、斎場から戻った夕方のお寺はセミ時雨に被われていた、芳子叔母さんは7人の子供とその家族、玄孫までいれると100人を越す大家族に恵まれ、幸せな晩年を過されていた。
 五郎さんは昭和10年8月1日に急逝、告別式は8月3日だった、奥さんはいたが子供には恵まれなかった。彫刻の師匠格の石井鶴三や日本美術院同人の宮本重良、喜多武四郎らにこのお寺で見送られたのだろう、そんな事を思いながら、「おばさん 五郎さんに会ったら大島の資料館のこと話してくださいね」と焼香してきた。
 集められた五郎さんの資料を本にすることは何とか出来たかも知れないが、芳子おばさんに出会っていなかったら資料館を作り上げることは出来なかったに違いない、叔母さんは大島に木村五郎資料館が出来たことをとても喜んでくれた。
 今は休刊になっているが、季刊誌として19号まで発行された大島の文化通信『シデ』(平成9年8月第6号)まだ本格的な調査に至らない時期だったが、『シデ』大西編集長は編集後記にこう書いている。
「・・・『木村五郎のすべて』の発行の準備は遅々としてはいるが着実に進んでいる。今は、関係の資料を網羅するだけでは面白くないので、ドキュメンタリーというかノンフィクションのようなものにしようかどうか悩んでいる。ただそれには、この夭折の彫刻家の資料は少なすぎる。『青春の悩みありて越後路を旅する』だけとってみても謎なのだ。・・・
・・・その実体に少しでも迫りたい思いで、彼が眠る墓地を尋ねてみたが答えは何もなかった。・・・これも何かの縁と、私は辺りをきれいに掃き、墓石を洗い、線香と花を手向け、手を合わせた。帰りがけに足下へ栗の実がひとつ落ちてきた。まだ充分には実にいっていない若い青い栗の実だった。その栗の実を拾って私はもう一度さっきの墓にもどって、それを供えた。まだ充分に実らないまま落ちてきた栗の実と若すぎた五郎の死が、私の目の中でオーバーラップしていた。・・・」
 
 芳子おばさんの戒名は秋月寿芳大姉、いづれ五郎さんと同じお墓に納骨されるだろう。
  
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  昭和10年木村五郎の葬儀(大泉寺にて) 彫刻作品が数点飾られた

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