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Author:ankosan
『あんこ』は目上の女性を親しみを込めて「おとらあんこ」など名前の下につけて呼びました。今では広く島の娘さんのこと、ちなみに私は男。   連絡メール

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あんこ人形誕生記
昭和初期、伊豆大島に生まれた農民美術「あんこ人形」、 島人に彫刻を指導した彫刻家木村五郎、60年彫り続けた職人の父、人形生誕から資料館を開くまでの回想と資料館の今と未来を記す
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むこさんの大波小波(完)
番外編をリンクしています

「あんこ人形誕生記」と同じ管理者が「伊豆大島農民美術資料館日記」を公開・更新しています。
浦島太郎のようです、資料館日記ではこの4ヶ月間画像の掲載をしていなかったのですが、この間になにやら制御がかかっているようですが、よく飲み込めません。
とりあえず、今回の画像を添付できれば「大波小波は一応の完結となるので」異質の話題となりますがこのブログに画像を急きょ貼り付けさせていただきます、よろしくお願いいたします。


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電動式ベッドから降り平行棒を使ってその先の車イス(行き過ぎないガードの役目も兼用)まで自力で来れます、車イスに坐ってから180度回転させると食卓前です

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台所からベッドは見えません、昼食の準備(食材のあたため)をしていても母がどこにいるのか、今どうなっているのか気になって仕方有りません、まず第一に信号です、背中がベッドから離れたらピッピとなる離床センサーをレンタルしました。(ベッドから出て畳に足がつくと鳴るタイプもありますが、それでは遅いと思ってこのタイプを選びました)

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ピッピと離床センサーが作動すると台所洗い場の前にあるベッドを映す監視カメラのモニターを見ます(センサーとは連動していません、台所にいる時だけつけています)、どこにいるのか一目で分かります、問題がなければ関与しなくて見守りでスルーです。

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ベッドの頭の先に廊下があって外に出るときには廊下に掛けてあるスロープ(段差30センチを2メートルのスロープ)でで庭に出ます
最初の頃は要領が分からずに庭から畑に向かって急こしらえのロープをコンパネで造りました

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傾斜がかなりあり距離も長いので、しばらくしてから「庭を右に曲がって道に出る最短コースのスロープ」を設置しました。

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外から戻ると廊下に直接車いすで乗り上げるので、泥がつかないようにマットなどをひきました。

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道路に車を停めれば外出も大丈夫です


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謹賀新年
謹賀新年
早いもので今年で資料館を開館させてから11年目を迎えます
資料館では彫刻家木村五郎の遺作をご遺族から寄贈いただき常設展示をしております
昭和10年製作の「牝牛」(木彫)です木村五郎遺作の「牛」

文字にまとめる作業は続く
 このあんこ人形誕生記は、実のところ平成12年にある県の自分史文学賞に応募した原稿(資料館を開館させるまでの回想まで)をベースに日々大幅に加除加筆して載せたい写真を撮り込んで記事にして来た。
 開館から現在までは新たに書き加えた、そしてようやく本当の「今」まで目出度く到達した時点で書き込みは止まってしまった。
 40年近くの回想は時系列で案外と順調に書き進めることができたが、いざ今日のこととなるとなかなか日々の変化や成果というものを項目毎に定期的に書のき続けるということは、木々の芽吹きの成長の過程はスローモーションビデオで見れるが、人間の目では見れないように、無理な気がしている。
 今は「あんこ人形作り」「椿材の木工品開発」「ソーメン絞りてぬぐいの復元」「大島を描いた画家や文人の資料調査」をテーマにして毎日を過ごしている。ある程度の成果が得られた時点で、各テーマ毎に時系列に整理して書き込みをして行こうと思う。木村五郎や農民美術に関する資料を見つけ出すことは難しく、余程のハプニングがないかぎり大きな進展は望めない現状にある。
 資料館の周辺の情報は、インターネットで発信しているのでご覧下さい。

    伊豆大島木村五郎・農民美術資料館(ホームページ)
    伊豆大島木村五郎・農民美術資料館の日記(楽天ブログ)
        資料館のこと、毎日の暮らしのなかで感じた雑多なことなど

今年の夏で資料館は丸8年、9年目を迎えます。
大威張りできるだけの進歩はありませんが、資料館の姿は確実に年を重ね貫禄がでてきた、まわりの緑もずいぶん増えて大きくなってきた。

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 平成11年夏資料館オープン

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  平成19年4月28日の資料館



回想のおわりに
彫刻家の五郎さんが大島に来て島人にあんこ人形を教えていなければ、私の父は人形を作ることはなかった、そして私も3男から長男に繰り上がっていなければ、大島に住んでいなかったかも知れないし人形に興味を持つこともなかったかもしれない、大島で木村五郎に着目する人が誰もいなければこの資料館はきっとできなかっただろう。
父は、「頭上に水桶を乗せ毎朝毎夕涌き水を汲み運んだ女たちの姿が神々しく映った」そのあんこ姿をいつまでも伝え残すために60年あんこ人形を彫り続けた。「よく彫れた」と満足のゆく人形は中々出来なかったようだ。「神々しいあんこの姿」を一体でも多く作って多くの人の記憶に「あんこ」を留めさせたい、そして「今度こそ良い人形を」の思いも手伝って生涯で12万体の人形を彫らせたのだと思う。
 父が健在な時には、「父は人形を彫る天才だ、天才にはかなわない」と思っていた。しかし、人形を彫らなくなった父の仕事場には彫刻を研究したと思われるデッサンやヒントになるような文章の切り抜きがたくさん残されていた。「天才ではない、努力家なのだ」そう思った時、努力することならもしかしたら自分にも出来るかもしれない、そう思うようになったのはギャラリー大西で開催した「藤井重治仕事展」の頃と重なっていた。
私が選んだ道は正しかったのだろうか、無謀であることは判っていた、「離婚をされても仕方がない」と覚悟を決めて決断もしたが、女房は幸いなことにまだ私のそばにいる。安定した職と収入を手放し、資料館を退職金で建て、細々と糧を得ているが、女房と離れ離れになってしまうことがあった時に、この選択は間違っていたのだと思い知るのだと思う。
私は隠居家に残された父が彫った2000体のあんこ人形を資料館の工房に置いて目に留まった人に買ってもらいながら、自分で木彫人形の技術を習得して父の人形に近づいたり、自分なりの人形を試作したりしながら木を彫って行きたい。もはやどうやって彫ったらよいのか、口で教えてくれる人は誰もいない、父のノミの進め方を思い出し、五郎さんが書いた『木彫の技法』を手本として一体でも多く彫ってゆけば、今はまだ見えない原木の中に潜む「あんこさん」を彫り出すことができるようになるだろう。それができれば、五郎さんはまた大きな褒美をくれるかもしれない、農民美術の様々な格好をした木片人形も彫れるようになるに違いない。
私に無限の時間はないが、その日が一日も早く来ることを願いつつ、忘れ去ってしまってはいけない「大島の良き文化とあんこ風俗」を記憶に留める活動を続けて行きたい。

 回想の終りは昭和30年のお盆の記念写真、元町大火前の祖父の庭先、祖父母、父と母、兄2人と5才の私が写っている、祖母と母は木綿のてぬぐいをいつも被っていた、今資料館が建っている場所で撮影した思い出の写真。
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一区切りは10年
 「石の上にも3年」ということわざがあるが、「資料館の見通しはどうですか」と開館当初に聞かれた時に「石の上にも3年」と答えた記憶がある。
ただ座して3年居ればよいということではないし、今は開館から8年目に入っているが「一生懸命にやって何がしかの成果が出るまでにはまず10年」そういう気持になっている。
 彫刻家木村五郎の義妹の木村芳子おばさんは、「兄さんの資料館で苦労をかけるね」が口癖。私は一度諦めた人形作りと大島風俗風習の保存継承の場所を五郎さんと農民美術、忘れ去られようとしているものたちに支えてもらって作ることができた、感謝しなければならないのは私のほうです」と答えている。
 先行きが不透明な混迷の時代に入って、大島の観光客は激減して資料館へ来てくれるお客さんも思ったほどではなく、島の中の知名度もなかなか広がらず、思う程に必要とされている実感も薄く、覚悟していた以上の苦戦が続いているが、夢を叶えて8年目、失ったもの、見えなくなってしまったもの、見えてきたもの、私はひとり工房で毎日考え続けてきた。
 信州上田の農民美術の家の荒井宏一さんの悲報は初期の木片人形たちの解明と大島との繋がりを断ち切ってしまった。木村五郎研究会の会長であり、『シデ』編集長の大西さんは病に倒れ、入退院を繰り返し今も療養中だ、毎号が五郎さんの特集号であった『季刊誌シデ』は資料館開館記念の17号を最後に休刊となったままだ。碌山美術館の千田さんは碌山を去り美術史家として活動、今は日本美術院に所属した彫刻家たちの調査をされている。農民美術研究家のY先生は、もうそろそろ資料の整理に入るのかと思っていたら、新たな農民美術生産組合の木彫人形の調査に着手されている、この組合の人形彫刻指導には五郎さんがお世話になった松村秀太郎氏が何らかの形で関わっているらしい。盛んだった各地の農民美術運動の全貌がY先生の手で明らになることを心待ちにしているが、文字に残すための作業はまだまだ先になりそうな気配だ。

ホームページ作り
パソコンの操作は何も知らなかったが、資料館のホームページを作って公開したい、インターネットで木村五郎や農民美術の資料を検索してみたい、それが目的でパソコンを買った。
 平成11年12月にパソコンが届き、回線が繋がった。ガイドブックを読みながらの作業なので、何も知らないということがどれだけ時間を浪費させることか、痛いほど判った。予備知識は何もなくワープロ時代にローマ字で入力できることが唯一自分にできることだった。
何度辞めよう、諦めようと挫折しかけたホームページが12年3月に何とか完成した。(アドレスはhttp://www.island-net.or.jp/~ankosan/)
ホームページのタイトルは「伊豆大島 木村五郎・農民美術資料館」あんこ人形は木と水と潮風を運ぶ姿です 小さな資料館へようこそ と見出しをつけた。『木村五郎は昭和の初期に活躍した彫刻家。大島にやってきて、島人に「あんこ人形」彫刻の技法を伝授 その人形を六十年彫り続けた職人の技と意気込みを伝える藤井工房。南国情緒あふれる「大島の風景」を競って描いた芸術家のまなざし。「あんこ」は年上の女性に対して親しみを込めてよぶ時の呼称で「姉こ」が変化したもの、広くは「島の娘」のこと。みんな資料館の仲間たち』と説明を加えた。
トップページには丸いドームハウスの資料館の写真を載せ、2ページ目に木村五郎の略歴と功績、3ページに木村五郎の伊豆大島風俗・北国風俗などの作品写真、4ページで藤井工房の紹介、父のアンコ人形や私の豆あんこ人形、資料集の販売を載せた。5ページはあんこ人形彫刻教室、作業の様子とできあがった作品を写真で紹介、6ページには「画家が描く大島風景」の作家と作品の一覧表を入れた。
 インターネットで「木村五郎」と入力すると大島の資料館が出てきた。日本で唯一の木村五郎と農民美術の資料館だから当然だが、木村五郎や農民美術の存在を知らなければ見てはもらうことはできない。木村五郎の作品を収蔵する美術館は無いようだし、農民美術という文字を使っているのは長野県上田あたりだけのようだった。農民美術研究資料は3点ほど見つけただけ、探し方が悪いのか、広く浅い情報しか見つけられず、思ったほどの成果はまだない。
木村五郎の名前は知らなくても観光で大島に来たお客さんに立寄ってもらえるように、大島観光協会のページにも自分が作ったホームページをリンクさせてもらった。
 最初は6ページ(6項目)でスタートしたホームページから7年経った。今のサイトマップを見ると30項目以上に増えている。日々の雑多なことを書き込むブログー伊豆大島木村五郎・農民美術資料館の日記(アドレスhttp://plaza.rakuten.co.jp/ankosan26/)は平成16年5月から続けている。大島の資料館の存在を知ってもらいたい、そう願って更新を続けている。

原木を刻む
父が60年彫り続けた「一刀彫あんこ人形」を作りたいと思い何とかやってみた。高さ16センチの水桶を頭に乗せたあんこ人形、高さ10センチの簡単なあんこ、高さ13センチの腕を前で組むあんこ、三体すべて桜の木で作ってみた。形は何とか真似が出来てもノミの切れ味はなく、人に見せるにはお粗末な人形だった。ノミの研ぎ方も知らない、見よう見真似では鋭い切れにはならない。
大きな人形は姿形をまねるだけで精一杯、あと百も作ればもっと見えてくるものがあるのだろう、父には原木の中に人形の姿がはっきりと見えていたに違いない、飽きもせず父は毎日原木を刻んでいた。
大きさが3センチくらい、小さなオリジナルの椿の枝の人形も作ってみた。携帯電話用のストラップや根付風アクセサリーにして、「豆あんこ人形」と名付けて販売をはじめた。
「大島椿まつり」のイベントがはじまり、テレビで大島が紹介されることになった。大島公園で生中継されるので私は父のあんこ人形と私が作った第一作目の人形を持って行った。木村五郎との由縁や農民美術の説明をする時間はもらえず、父が作った人形であること、私が跡継ぎを目指していること、それだけで終わり、30秒にも満たない初出演だった。父が元気な時分には大島の紹介といえば「父の人形」が出た。テレビ、旅行雑誌など多くの取材に父は応えていたが、放送された番組は自分の思いが伝わるような構成になっていなかったのだろう、父の落胆した溜息を幾度も聞いた。中には良心的な映像と解説がされた番組もあり、普段は余りしゃべらない父がどう思って人形を作っているのか、別人のように生き生きと語っていた。
父の落胆ぶりや私がテレビ嫌いであることを知っていた女房は「すすんでテレビに出ること」が不思議だったようだ。私もテレビは本意ではなかったが、資料館が全国へ知れるチャンスならば喜んで出ようと思うようにしていた。しかし公営放送なので資料館のポスターも写せない、話す時間も少ない、二時間も拘束された末の番組出演だった。父が作ったあんこ人形が映ったのは僅かの時間だったが、長野と新潟から「テレビで見た」と人形の注文が来た、電波の威力はすごいものだと感心もした。
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   自作のあんこ人形と豆あんこストラップ
第5章 資料館で暮らして
 平成11年8月29日から資料館と藤井工房は開館を続けた。
 すべてが初めての経験、気持に余裕が無く木彫チャレンジは後回し、まず五郎さんの調査でお世話になった方々に開館の報告とお礼、「木村五郎資料集」の発送をしばらく続けた。
 10月に人形の材料を山で切った、椿の枝を刻んで作る「丸彫あんこ人形」だ、うまく彫れるようになったら「あんこ人形彫刻体験教室」を開きたいが、どこまで出来たら教えられるのだろうか。
 大西編集長の『シデ11月号』に、原稿を載せてもらった。
『資料館の南の窓から温かい光りが差し込むようになりました。テーブルを照らし本棚や人形を照らして太陽は今日も海へと沈んでゆきます。これから寿命のある限り木村五郎と木彫人形とあんこ姿を伝え残し、物を生み出す場所を目指します。この目標を見失うことなく、資料館を開いて行くことがお世話になりましたみなさんへのお礼になることだと思っています。「あなたの夢にみんなが協力してくれているのだから、うまくできなくても、まず木彫を始めてください」、「何だか勇気が出た」、「落ち着いた館内とおいしいコーヒー、また来たい」と自営業初心者を励ましてくれました。
やっと簡単な丸彫人形を彫り始めました。コーヒーだけ飲んでゆく人、黙って入ってきて一通り見て黙って出て行く人と様々です。島の常連客もできました。自分では「仕事にできる」と信じて始めましたが、大方は「道楽だな」と見ているようです。どう思われても構いませんが、「道楽ではできない仕事」を目指し、この選択が正しかったかどうか、自問自答をしながら毎日をこのドームハウスで人形たちと暮らしていきます』そう近況を伝えた。

新しい年を迎えて
 謹賀新年
平成18年8月から書いて来た回想記ブログは平成11年8月28日資料館の開館まできた。最初は開館まできたら終りにしようと思っていたが、開いて終りではなくてこれからどう展開できているのか、本来の目的に近づいて行けているのか、その検証を兼ねて現在(今)に追いつくまで回想記を書き続けようと思う。
 これまでは時系列できたが、これからはひとり或はひとつのテーマ毎に明日から書いてみようと思っている。
 彫刻家木村五郎や伊豆大島あんこ人形、農民美術、大島の風景を描いた画家などに興味のある方が眼にしてくれたら、そう願っている。

大島に資料館開く
平成11年8月28日、資料館開館の日を迎えた。記念講演をしていただく碌山美術館の千田さんには早朝に到着する船に乗ってもらった、午前中は五郎作品の展示を見ていただき、作品を見てもらい良い場所に修正してもらった。
 残暑が厳しい大島に五郎さんの身内の方を8名お迎えすることができた。何度も手直しをお願いした資料集の印刷製本所の並木さんも来てくれた。
 木村五郎の経歴や資料館のこと、記念講演のPRを兼ねたチラシを作って新聞折り込みをした、さて何人集まってくれることになるのか。親戚や知人には葉書で建物のお披露目の案内を出した。

『準備を続けてきました「木村五郎・大島農民美術資料館」が開館の運びとなりました。あんこ人形が縁結びとなった大島の農民美術活動と木村五郎の魅力と業績を展示いたします。大島独特の風俗である「あんこ姿」を後世に伝えること、そして父親御神火堂藤井重治の木彫人生60年の精神を受け継ぎ「あんこ人形」の復活を目指すつもりです。大島にとって、そして自分にとって欠かせない場所となれるようにがんばります。皆様のご支援をお願いいたします。』

 開館初日のセレモニーには80人が集まってくれた、用意した椅子は満席になった。
先ず木村五郎研究会大西会長に資料館建設までの経過を報告していただいた、Y先生、千田さん、木村さん、親戚や近所の方の顔がすぐそばに見えた、自分の感情を入れて喋ってしまうと涙が出てきそうで、何度も声を詰まらせてしまい、私はしどろもどろになってしまっていた。女房から「しっかり」と言われてもダメだった。しかし素人の資料館、こんな小さな集まりに相応しい、そう居直って自然に任せた。
 碌山美術館の学芸員の千田さん(現在は日本近代彫刻史研究家)に資料館の開館記念講演をしていただいた。これまでに何度も耳にしてきた落ち着きのある学者肌の声、きっと講演の経験を積まれておられるのだろう。普段と同じ口調で、「重い水桶を頭に乗せてデコボコ道を歩く姿(姿勢)は人体の中心・軸と深い関わりがあり、彫刻研究のテーマがあんこ姿にあったのではないか」と話された、五郎さんの作品の紹介や資料館の可能性などについて話していただいた。
 東京からのお客様を紹介し、Y先生と鈴木明さんに祝辞をいただいた。Y先生は、「話し始めると際限がなくなってしまうので、予め原稿を書いておこうと思う」と言われて昨晩に用意されていたが、読み進むうちに感極まってしまわれ、しばしの沈黙となってしまった。私にはY先生の心情がよくわかった。私は資料集も資料館建設も終始何とかなるさ、と軽く考えてやっていたが、そんな私を見て先生は心を砕かれていたに違いない、あっちこっちと寄り道する私を正しい道へと導いてもくれた。一から農民美術の講義を受けた生徒が無事に学校を卒業して、新しい道に進み始めることになった教え子を思い、また、Y先生が足を棒にして探し出した人形たちがこの資料館の二階で常設公開されること、農民美術に寄せる熱い思いが一気に胸に込み上げてきたのだ、すぐに冷静さを取り戻された。
 最後に木村五郎の遺影に「木村五郎資料集」の献本と献花をした。資料集は2日前に印刷所から送られてきていた。木村五郎生誕百周年という記念の年に、分身となる資料集と資料館が誕生した。
 式典が無事おわり館内の展示をみなさんに見ていただいた。作品を見る人、椅子に坐って冷たいお茶を飲む人、このひとときは私にとって心地よい爽やかな時間だった。
 綱渡りの工程を承知の上で早くから8月28日開館を決めたもうひとつの理由は、何とか夏休み中にオープンさせたいと思っていたからだ。女房は小学校の教員、この資料館はすべて私一人でやる覚悟でいたが、せめて開館日の前後数日だけでも一緒にここで過ごしてもらいたい、私が残りの半生を暮らすことになる資料館で再出発を見届けてもらいたかった。高校2年の長男は資料館棟上げから工務店のアルバイト員として働かせてもらって現場にいた。東京で働いている22才になる娘は休みを取って来てくれた。子どもたちは冷たい飲み物の準備と接待役をやってくれた、私の家族は4人、みんなドームへ集まった。
 記念写真は1枚だけあった、五郎さんの義妹の木村芳子さんとご家族、五郎さんの従弟になる鈴木明さん、千田さん、Y先生、建具屋の直さん、女房と娘と私が写っている。
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資料館のパンフレット
資料館と工房のパンフレット(三つ折り、見開き)を作った。船着場や観光施設に置いてもらったり全国の美術館や愛好者用のPRに使うつもりでいた。ひとつ屋根の下にいろいろ寄り添う訳だが、パンフレットにはこう書いた。

木村五郎資料館ー木村五郎は昭和初期に日本美術院同人として石井鶴三らの指導を受け彫塑の制作に励んだ若き彫刻家です。少女像や動物、地方独特の風俗姿など150点余りの作品を残して、昭和10年37才で急逝しました。
郷土風俗木彫は当時の日本美術院展出品作の中で異彩を放つものでした。芸術作品の創作だけに止まらず、木彫入門書や彫刻批評を執筆、精力的に農民美術指導をおこない、彫刻の普及とその水準の向上に力を尽くしました。彫塑作品18点と書簡などの資料を展示しています。
大島を愛した夭折の彫刻家は長い間忘れられた存在でした。木村五郎研究会では作品や資料の掘り起こしをおこない、木村五郎資料集2巻「童心の彫刻家」「作品とおもかげ」を発刊、大野隆徳掴んで販売中です。
彼が駆け抜けた時代と童心の彫刻家の感性に触れてください。

大島農民美術資料館ー大島には明治後期から昭和初期にかけて、画家の和田三造、中村彝(つね)、伊東深水や巌谷小波や宮沢賢治等多くの文化人が訪れ紀行文や作品を残しています。大島の風景や人情は芸術家の生き方や作風までも明るくしたようです。当時の大島では青年達が同人誌に集い詩歌や随筆などを書き綴ったり、木彫や版画を作っていました。
大島での農民美術活動は彫刻家木村五郎を指導者に迎え、昭和4年から3回にわたり10数名の青年が参加して講習会が開催され、「あんこ木彫人形」を作りました。朝夕に貴重な水を汲み運ぶ女と薪をささぐ女の2体が人形となりました。この伝統の継承者として御神火堂藤井重治は60年間人形を彫り続けました。
島人の素朴なあんこ人形と現代までの木工品、全国の農民美術作品など350点を展示しています。

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ドームに入ると
資料館に入ってみる。外で見るよりずっと広く開放的で明るい。
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  1階吹きぬけ  木村五郎パネルと喫茶テーブル  
    
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  木村五郎作品         作品展示ケース
資料館の完成
屋根が張られ足場が外れてようやく資料館が完成した。
本当は林の中にあれば緑に溶け込んでよい雰囲気を出す建物だが、元町市街地のど真ん中で違和感がある場所ではあるがすっきりと出来あがった。路線バスが通る都道に面し、結構目立つと思う。外から見てとても二階があるとは誰も思うまい、そしてこのドーム型の建物に一体何があるのか、本名は「木村五郎・大島農民美術資料館」、木村五郎って農民美術って何だ、藤井工房って何やってんだ、喫茶店か、そんな好奇心で入って来て欲しいものだ。10年もすれば緑が増えて落ちついた建物になっているに違いない。
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あんこ姿この一枚
私は東京で働いていた昭和49年の朝日新聞の『ノミ先細る農民芸術「後継者ついに絶える」』という新聞の記事をみた。それまで子供ながらに「家業へのこだわり」もあり、若かったこともあり家業への関心はほとんどなかった、と思う。それでも後継者絶える、その文字はずっと目に焼き付いていた。昭和56年に東京から大島に戻ってきた、平凡な生活を送りながらも「あんこ姿」や「島の風俗風習」には興味を持っていた。父は「島の働き者の水汲み姿が実に神々しかった」とよく話してくれた。私が育った頃にはその姿はもう見ることはできなかったが、水汲みの雰囲気を知りたい欲求とあんこ人形はいつも自分の近くにあった。
父と母とも元気で港の売店に通っていた昭和50年代の終り頃、自分なりの「あんこ姿のイメージを追い求めて」人形を持って山や海に出かけ写真を撮った。「家路を急ぐ水汲みの島娘」一日に何回も飲料水を村の井戸に汲みに行く訳だが、最後の水汲みの頃はもう夕方か。浜の井戸から桶に水を入れ坂道を急ぐ島娘の雰囲気を父の「あんこ人形」を山中の傾斜に置いて撮った。この時は夢中になっていて気がつかなかったが、西日が右後方から木々を透かして入って夕方の雰囲気がうまく出せたと思う。
「あんこ人形」を大事に思っていたという形に残る証しはほとんどないが、今振り返ってみればこの写真は熱い思いが撮らせた「たった一枚の傑作」だったように思える。
撮影に使った人形は40センチの大きさ、パネルは縦を150センチの大きさに引き伸ばしてドームに飾ることにした。
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木村五郎・大島の足跡
大島に「木村五郎・大島農民美術資料館を作ろう」と決意した時に、大島に現存する作品や資料を展示させてもらえるように所有者の藤井さん(大橋清史氏の娘さんご夫妻)に手紙を書いて送ったが、直ぐに手紙の返事は貰えなかった。しかし、平成11年新春にいただいた年賀状の文面から「承知しました」そういう返事が来たものと勝手に受け取った。
『あけまして おめでとうございます
西風の吹かない静かな元日で何よりでした。
虎雄さんの熱心な資料さがし、百年前の五郎さんもどんなにか喜んで居られることでございましょう。
私がやっと物心ついた小学校一、二年の頃、世田谷のお宅や、父の実家(水天宮)の近く深川のお宅に連れていってもらったこと、忘れかけて居たのに皆様のおかげで又なつかしく想い出す事が出来、ほんとうにうれしい事でございます。
一緒に年をとってしまいましたが、近くで重治の小父さん、おげんの小母さんと呼んで十代の頃はとても可愛がって頂いた事も忘れられない想い出となって居ります。これからも何かにつけて御世話になる事が多いと思います よろしくお願い致します

文中の「重治の小父さん、おげんの小母さん」は私の父と母親のことだ。

小さなこだわり
建物はようやく屋根が閉まり部屋の作業に入った。順調なのか遅いのか、素人目には判らない。現場に毎日顔を出して、出来つつあるドームの中の空間、区切った部屋の寸法、展示スペースの奥行きを考えて設置するケースや喫茶テーブル、照明器具の選定作業を続けた。
建物の中は明るくする、基礎が高いので玄関の階段とは別に段差解消のスロープを付ける、トイレの便座を暖房型にする、そして自分が入ってみたい、ゆっくり坐ってみたい、と思う快適な空間を作り出すことにこだわってやった。
展示作品のうち、木村五郎の木彫作品は乾燥や湿気などによる痛みを防ぐためにアクリルの陳列ケースに入れることにした。「作品の大きさとケースとのバランス、大きすぎても小さ過ぎても作品が生きてこない、空間が大事だ」と教えてもらった。作品を載せる個別の作品台は全部で8つになる。

資料館の平面図
 直径9メートルのドームハウスをどう使うか、ログハウスの仲間だが2階が半分吹きぬけなので開放的で明るい室内になると思って配置の案を作ってみた。棚の出っ張り引っ込みや細かな細工は建ち上がって来た現物を見て決めることにした。
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建物現る
 敷地が整地され、基礎が打たれて丸い骨組が立ち上がってきた。一体この場所に何ができるのだろう、そんな目で見ている視線を感じる。工務店と相談してどんな建物なのか、全体のイメージを新聞折り込みチラシにして施工の工務店のPRも兼ねて配った。立て看板も作った。
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開館は平成11年8月28日に
木村五郎資料集の構成検討が4月から始まった。『シデ』の大西編集長と時得先生が切り開いてきた「木村五郎への関心」は、いつの間にかあらゆる面で私が一人先走りしてすっかり熱くなっていた、資料館を作ろうと決めたのだからそれは当然のことでもあった。
先発の二人は純粋な木村五郎研究書を目指しているのだろうと思ったが、これから作る資料館と連動するような資料集にしたい、芸術家木村五郎の美術界の功績に止まらず、大島を愛した五郎さん、人形彫刻を伝授した五郎さん、農民美術とあんこ人形について大島から情報を発信する、そんな構成を望んで私は大雑把な提案してみた。 二人は特に異論はなく、ないというより、「おまえが思うような本にするしかないだろう」と諦めてくれているようでさえあった。
 まだ建築に着工もせず、どんなことが待ちうけているのか判らないのに、資料館の開館日は8月28日と決めた。早々と日程を確定させた理由のひとつは、開館の記念講演を碌山美術館の千田敬一さん(現日本近代彫刻史研究家)にお願いしたかったので、早いうちに予定に入れてもらうためだった。
 日本美術院の彫刻研究の第一人者である千田さんには日本美術院彫刻部同人だった木村五郎のことでこの数年すっかりお世話になった。公的な美術館の学芸員として「協力できることとできないこと」がきっとあったのだろうが、「素人が取り組もうとする資料館」へアドバイスをしてくれた、私には充分過ぎる助言者だった。「木村五郎の作品と人柄、大島との繋がりについて語っていただきたい」と開館日の講演のお願いをして快諾していただいた。

建物の中の配置は
 建物の大きさを決め、立体図を作り、同じ縮尺で陳列台や棚やテーブルをボール紙で組み立て配置をあれこれ考えた。私はY先生に教えてもらった骨董市に2度出かけた。アンコ人形や農民美術人形の発掘が目的だったが、年代物の戸棚も欲しかったので平和島の骨董市に行ってみた。販売コーナーは古い棚を使いたかった、可動式にして何かの催しの時には動かすことができるよう、固定しないつもりでいた。骨董市には戸棚が二つ陳列してあり、ひとつは細長い低めのガラス戸棚、もうひとつは二段に重ねて使っている食器戸棚だった。細長い戸棚はちょうど腰の高さなのでこの上に販売するものが置ける。そして二段重ねの食器棚を一段ずつ並べて細長く使うようにすると三つの棚は高さが偶然にも同じになったので、いろんな使い道が出来ると思いこの棚を買うことにした。
 父が最初に店舗をはじめた登山口の店からずっと使って来た引出しが十六個ついた収納棚は、閉店の時に処分せず自宅へ持ってきていたものだ。捨てずに持ち帰って来ていたが、まさかまた出番が来るとは思っていなかった、棚は60年使い込まれて骨董品に負けない貫禄があった。
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 油が染みこんだ父の棚


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