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『あんこ』は目上の女性を親しみを込めて「おとらあんこ」など名前の下につけて呼びました。今では広く島の娘さんのこと、ちなみに私は男。   連絡メール

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あんこ人形誕生記
昭和初期、伊豆大島に生まれた農民美術「あんこ人形」、 島人に彫刻を指導した彫刻家木村五郎、60年彫り続けた職人の父、人形生誕から資料館を開くまでの回想と資料館の今と未来を記す
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三蔵法師の「大島日記」
和田三造の作品展を去年開催した姫路市立美術館の研究紀要2009年第10号に和田三造の「大島日記」が全文掲載されました。
和田三造の初期の作品「南風」制作前に大島での滞在体験を三蔵法師という筆名で記しています。
雑誌「L.S」の創刊号と2号に掲載されました(1905年7月8日と8月26日号)、何とこの雑誌は2号で廃刊になっています、「大島日記」のために発刊されたような、グットタイミングでした。
日記には遭難のはなし、大島での画作生活の様子、どんな場所へ行ったかなど、細かく書かれています。長文ですが、この日記を「大島の風景」の和田三造の項に加えて資料に活用してゆきたいと思います。
 展覧会が行なわれている時に、何かの参考になればと思い、大島の資料を美術館へ送らせていただきました。その資料の一部について、和田三造の文献紹介の中で「大島と美術家たちの関わりについて詳しい藤井氏の記述によると」と【島の新聞】に掲載された大島でのエピソードを取り上げていただきました。、
 紀要で本文が確認できましたが、全体の雰囲気を知りたくなり、無理を承知で当時の雑誌のコピーがいただけないか、そうお願いしてみました。やはり現物をみるとどんなメンバーと交流があったのか、どんな事を書いていたのか良くわかりとても参考になりました、ありがとうございました。
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和田三造展図録
和田三造展ポスター

姫路市立美術館で9月12日から10月25日まで「和田三造展」が行なわれた、その展覧会図録をようやく入手することができた。大島に関連した作品は「南風」と「伊豆大島乳ケ崎沖より伊豆天城山及び富士を望む」の二点が出品されたことは知っていたが、図録を見て展覧会全体の構成を知ることができた。
参考資料の中に、1905(明治38)年に描かれた「乳搾り」「大島婦人」という写真図録が掲載されていた。
 また、三蔵法師の筆名で三造が「大島日記」を書いていたこともわかった、遭難して大島にたどり着くまでの記述がされていると思われる、この日記は近々目にすることが出来そうなので楽しみだ。 個人画家の展覧会をすれば、その画家のすべての文献資料のリストが図録の最後に添付されるので、現在の最大数のデーターを入手することができる。
 その意味からも、「伊豆大島を描いた画家」の展覧会をどこかの美術館が企画してくれないか、そうずっと願ってきた、実現すれば専門家の手による文献資料を居ながらにして入手することができるのだ。
 今回の和田三造展の図録を読んで、「大島の風景展」やってくれる美術館はなかろうか、またそう思ってしまった。
伊豆大島発「和田三造と大島」⑥
画家で小説家の有島生馬は大正8年に雑誌『改造』に発表した「大島の桃源郷」のなかで

・・大島の話は度々人から聞き、度々人の書いたもので見た。然し何といっても最初に然も最も深くそこの興味を私に印象させたのは和田君に外ならなかった。・・三造君は、巴里に来ても大島の美を説いた。・・
世界の都の巴里の街も、君にとってはびょうたる相模洋の椿の木陰の寂かさには及ぶべくもないように見えた。「早く日本に帰って大島へ行きたいな」とは度々君の巴里で漏らす嘆声であった。


 と書いている、「南風」が入賞した褒美の渡航先での出来事で、まちがいなく大島と相思相愛になった最初の画家だったと思わせるエピソードではないだろうか。

 哲学者の井上円了は明治42年に来島した時、大島の情景を「富士を見るなら大島に来れ三保や竜華寺の比ではない」「大島に風と牛糞なかりせば不寒不熱の極楽の里」と詠んでいる。
 伊豆大島に何故画家はやってきたのか、何を描いたのか、大島の風景が画家に何か影響を与えたのだろうか、多くの画家の作品を調べてゆくことで、大島がどんな島で何がある島なのか、おぼろげながら分かってくるだろうことを期待してこれからも「画家が描いた大島の風景」の調査を続けて行きたいと思っています。
 伊豆大島を作品を描いた画家と作品名、来島したことは確認できたが、まだ作品に行き着けない画家などのリスト をHPで公開しています、何かご存じの方がありましたらご一報いただければ幸いです。
 画家に限らず文人墨客の大島に関する資料の頒布は可能ですのでご照会ください。
「美の巨人たち 和田三造ー南風」放映を記念して手持ち資料をまとめてみました。
伊豆大島発「和田三造と大島」番外編
多くの画家が伊豆大島にやってきたが、特に大正期から昭和12年頃までが目立って多い。宣伝媒体のあまりなかった時代に画家たちはどうして大島の存在を知ったのだろうか。
幾つかあげられる、和田三造「南風」の入賞や美術学校教授の存在、美術雑誌のなかでの紹介、タヒチを描いたゴーギャンの作品の情報などなど。
私が思い当たるのは本土から見えた「伊豆大島の姿」も一因ではなかったか、ということだ。画家たちはきっと写生目的で近場の伊豆や房総半島に出かけているはずで、当時の移動は船が中心だったと思われる、東京湾内の汽船の発着所は大島便も着く霊岸島の桟橋だった。青木繁や森田恒友らが房総に出かけた時も船だったかも知れない、青木繁の海の作品には洋上の大島がはっきりと描かれている。中村彝は療養や油絵制作のために房総の白浜や布良に行っている、その時に大島の姿を見て後年大島にやってきたのかもしれない。
画家の曽宮一念は房総の野島崎から見た大島と三原山の噴煙をスケッチしているが、このようにぽっかりと浮んだように見える南の島に渡ってみたい、と思った人が多かったのではないだろうか、山本鼎や児玉希望、硲伊之助は伊豆から見える大島を描いている。

熱川から大島2
    伊豆熱川から見える伊豆大島(絵葉書にはー夢の国、歌の大島が指呼の中に とある)

布良からの大島画像
    房総から見える伊豆大島

曽宮一念大島噴火
     曽宮一念「大島噴火」


伊豆大島発「和田三造と大島」⑤
和田三造の「南風」がきっかけとなって伊豆大島が知られるようになり、多くの画家たちが「伊豆大島」を訪れるようになった。画学生からすでに名を知られた画家まで、洋画・日本画・工芸のジャンルを問わず来島して作品を残している。
 大島には一人で来たり友人と一緒に来てデッサンをしたり、療養に来たりと様々だが、時代が昭和に入ると伊東深水らの「郷土会」川瀬巴水・笠松紫浪・横尾芳月・山川秀峰・千島華洋・武藤嘉門・山田喜作・門井掬水や、西沢笛畝らの「離騒社」田中咄哉州・飛田周山・松本姿水。荻生天泉・太田三郎・瀬野覚蔵・石川宰三郎・金井紫雲ら、新制作協会設立に係わった猪熊弦一郎・栢森義・脇田和・中西利雄・三田康・田村一男・有岡一郎・笹森彪・下田範次・池島清ら10数名、漫画家前川千帆らの「大島漫画行」池田永一治・水島爾保布・池部鈞・服部亮英・細木原青起、中村善策・硲伊之助・田崎広助・松本弘二など、グループでの来島が目立つようになった。
 26人で大挙来島したグループに「春台会」がある、昭和6年に訪れて三原山に登ったり蒸し風呂に入ったりして島を満喫している様子が昭和6年『アトリエ6月号』「大島に遊ぶ」に描かれている、参加者は岡田三郎助、辻永、和田三造らだった。
 文中に和田三造の名が出てくる
 「・・・島の人家の灯がちらちらと見え出す時右手に見ていた灯台は左手に光芒を放っていた。程なく人家の灯の中に人の動きも見えるような場所に近づいて船は入港の汽笛をボーと長く島へこだまさせて停った。桟橋に動く提灯と人影の中から、渡船の発動機の音がポンポンとしだした。渡船を上ると、「千代や」という提灯が案内してくれる、暗い坂道を突当った宿がそれで、二階の定めの部屋に先づ落ちついた。一時騒々しかった桟橋も、もとの静寂に帰って、吾々を運んだ菊丸が素晴しく明るく浮んでいる。続いて、三十遅れて霊岸島を発した橘丸が錨を下す。これには遅刻組の和田三造氏や斎藤五百枝氏が乗って来る筈であった。番茶と牛乳煎餅で空腹を一時押えた一同は廊下に立ならんで皆海を眺めている。その内に和田三造氏が「やア」と元気よく現れる。午前四時である。
 ・・この千代屋は三十年前に和田三造氏が傑作「南風」を生んだ頃に、始めて今日の美術家と大島の親近さを開拓したその家なのである。下の茶の間にも和田さんの油絵があるし、吾々の部屋にも日本画で猿回しを描いた達筆の横額がかかっている。「昔この家へ来て和田三造さんを知っているかと聞かれて、知らないと言うと、お前はゑかきぢゃないと叱かられたもんだ」と誰やらがいうと御本尊の和田さんは一寸きまりの悪いような顔をしたように思った。」


 アトリエに紀行記が載った前後、新聞紙名不詳だが日刊新聞に「伊豆大島行」のタイトルで春台会大島旅行に参加した岡田三郎助・加藤静児・辻永・太田三郎・山崎坤象・松山省三・吉田久継・草光信成・中村研一・矢島甲子太郎ら11人の画家の作品が連載で紹介された。ほとんどの画家が島の風景や名物を描き留めているが、和田三造だけは「在来の民家の台所兼食堂兼応接間」という島のありきたりな日常を描いている。
 和田三造は昭和15年に「伊豆大島乳ケ崎から伊豆天城山及び富士山を望む」という風景画を発表している、「南風」を描いてからずっと大島に通っていたのだろう、富士山を望む作品以降の大島を描いた作品にまだ出会っていない。

  画像 003
     新聞切抜き 【伊豆大島行(1)から(11)】

  和田三造
     和田三造の 【伊豆大島行(6)「元村の民家」】



伊豆大島発「和田三造と大島」③
大島のローカル新聞に興味深い記事が載っている。和田三造と思われる青年が「渡辺市道」として紹介されている、「アカフン画伯(上)」の続編が掲載された形跡はない。誰が書いたものか、中身の信憑性は定かではないがすべてが作り話でもあるまい。

《島と恋―アカフン画伯(上)》 「島の新聞」昭和10年11月10日号に掲載

ホレ、みろよ、またアカフンが泳いでいるよ・・・」「ほんとだ、よっぽど海が好きだとみえる毎日水泳だ ねえこたあないね」
真夏の陽が、ギラギラ紺碧の海面に光っている、その海を真下に見下せる岩の上に起ったアンコ二人が、海面を指して話している。なるほど見ると、髪の毛を海草のようにもじゃもじゃにした真黒な男が愉快でたまらないように、白い波しぶきをあげながら、泳ぎまわっている。
「アカフンさアーン」巌頭のアンコが呼ぶと、「オーイ・・」と太い声で答えて、ブルブルツと水をきってあがってきた。逞しい裸体に赤い褌一本をしめた精悍な面魂しいの青年である。
日露の風雲漸く急を告げつつあった明治三十七年の夏の事である。「アカフン」と呼ばれる青年はそのころ珍しい美術学校の生徒で、陸軍大将の息子の友達と二人で、夏休みを利用しこの島にスケッチがてらの遊びにきていたのだ。
この青年こそいま我が洋画だんの第一人者として推しも推されもしない帝展審査員Y氏であるが、ここには仮に渡辺市道氏と呼ばせてもらう。
老画伯若き日のホロ苦い恋愛史の一ページを、彩管ならぬ拙ないペンに託して描き出そうというのである。
「内地の人」殊に若い学生は珍らしかった。画学生渡辺君とその友達太田君は、俄然村中の人気者となっていた。「オイ太田、来てみて意外いい感じぢゃないか大島というと大変な離れ島みたいに思っていたがなかなか捨て難い味がある、アンコは美人だし,景色は芸術的だし・・」「ウン、俺も気に入ったよ、この分なら夏休み中いてもいいなア・・」
二人もはじめての大島がすっかり気に入ってしまった、千代屋に泊まっていて、朝早くから絵具で汚ごれた洋服の肩に絵具箱をかけてカンヴァスをもって、スケッチに出かけた、帰って来ると赤褌をしめて浜に出て,泳ぎ廻っていた。
「折角やってきたんだから、なにか想い出になるようなロマンスをつくろうぢゃないか」「ロマンス?柄にもないことだが,つくれるものなら、つくるのもよかろう」こんな冗談をいっていたのだがその冗談が現実となって現われる日が来た。
そのころ元村一といわれる美人は、藤の湯のそばの平井油店の一人娘おやすさんだった、幼い時に両親を失って、お婆さんの手一つで育てられた可憐な娘だった。
海岸にある元村唯一つの井戸から、水を汲んで、その桶を頭に乗せて藤の湯に運ぶのだ、この近所の娘たちの毎日の仕事だったからこの井戸が娘たちの話題を生む井戸ともなっていた。
「あのアカフンがなア―・・・」「アカフンがどうかしたんかい・・・」「ウンとても面白いんだよ、おやすさんにおぼしめしがあるんだとサ、選りに選って村一番の美人にあの黒坊が惚れたんだから面白いぢゃないか」
「ハハハ・・・」娘たちが賑やかに笑った時だった。「なんだなんだ、なにかおかしいことがあるのかい?」ぬーッと入ってきたのは、いま話題の主人公渡辺君だった。「いい話してたんだよ、アカフンさんが恋をしてるッて話・・」「なに俺が恋をしてるッ ウハハ・・」眼を丸くしてひょうきんに笑っってみせたが、その眼の底にはなにか真実のものがあった。
「よし、そんないい話があるんなら、みんなにおごってやろう」そういったと思うと駆け出してキンツバを買ってきた、思わぬ御馳走に、娘たちはキャッキャッとはしゃいでいた。
それから間もなく、千代屋の二階で、おやすさんをモデルに、渡辺君は大作をものしはじめたのである。


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伊豆大島発「和田三造と大島」②
 和田三造は明治37年の白馬会展覧会に9点の作品を出品している。毎日新聞の白馬会展覧会評欄で「為朝百合」「槿(もくげ)の花」「霊岸島」「雨の波」「暮れの務め」「三原山の絵」といったタイトルの作品が論評されている。
 「暮れの務め」について、【褐色のまだらの牛のそばで男が座って乳を搾り、女は桶を頭に載せて過ぎようとしている】、そんな光景だと書かれているので大島が題材の作品だ。
 霊岸島は当時大島行きの船舶の発着場所の地名で、現在の中央区新川にあった東海汽船の桟橋付近の風景を描いたものだと思われる。
 「大島婦人の肖像」の下絵と思われるような和田三造が板に描いた婦人の姿像が「島の新聞昭和12年2月14日号」にカットとして【和田三造筆島娘】として掲載された、千代屋にあったものとおもわれるが、今この作品の所在は調査中だ。 
 白馬会10周年展覧会(明治38年)には「伊豆大島風景」を出品している、残念ながら白馬会に出品した作品図録はまだ1点も確認することができていない。
 「南風」と同じ頃に「大島を望む」という船上からみた大島の姿を板に描いている、両作品とも近代美術館が所蔵している。
 和田家でしばらく暮したという工芸家の山形駒太郎は、【アトリエで『三原山・五十号』や大島のアンコの像数点を見た、大島元町(旧元村)の旅館千代屋には、先生の小品が数点ありましたが、先頃の大火でうしなわれたのでしょう。惜しいことです。】と回想している。
 和田三造が定宿としていた元村の千代屋にはサイン入りの絵があったが昭和40年の大火で焼失してしまった。また、元村吉谷神社例大祭に掲げる「三原大明神」の大きな幟旗の文字を和田三造が頼まれ書いているが、これも大火で無くなってしまった。旅館「千代屋」の主人が仲介して書いたもらったもので、旅館近くの「浜宮様」に掲げられていたと聞いた。村人にとって大切なお祭のシンボルであるお旗の文字を揮毫してもらいたいと思わせたことは、三造が地元にすっかり溶け込み、歓迎もされ、信頼もされた証ではないだろうか。

和田三造千代や
和田三造が泊まった頃の「千代屋」 眼下に前浜(船着き場)が見える高台にあった

和田三造島娘
S,WADA(島娘と読めるか)のサインが入った板画

あんこ油売り明治45年
絵葉書で年代特定することは難しいが「大島風俗 油売」(明治45年)と書いてある、水桶と椿油缶を頭に乗せて運ぶご婦人の普段着姿

先駆者藤井シゲ○
大島の「島の新聞」昭和9年に物故の記事が掲載されているのでそのまま転記する。

《藤井重丸君逝く 大島風俗木彫人形創始者》 島の新聞 昭和9年266号

 大島風俗木彫人形創始者としてその天才的風格をうたはるる岡田村九番地藤井重丸君(三十一)は病遂にいえず十六日朝その仮の住居において石幾組其他近隣の人達の手厚い看護の下に不帰の客となった。
同君は福島県会津の産、幼にして父母に離れ不遇の運命の中にも芸術的天分強くようや大く中学三年の頃より益々そのひらめきにして自らも画家として立つべく決心一夏休暇を利用して大島に遊びこの土地の人情厚く住み良きを知りて再び渡島、岡田村柴潔、新角、川島市右衛門、白井蔵太郎、本社潮路故白井吉三郎等諸氏の同情によりて草庵をかまへ一路画道に精進するかたはら木彫りをはじめ生活をたつるに至ったものである。
尚君が手によりて創案されしものには、木の実人形、木版画絵ハガキ、挽物彫刻、風俗版画タオル並にハンカチ等枚挙にいとまなくいずれも大島土産として遊覧客をして喜ばしむるものが多かった。然れども同君も亦芸術家多分の通有性にもれず常に物質的には恵まれず一昨年十一月大風害にその仮寓を吹きさらはるるに及んで一時帰郷再び病を得てここを安住の地と決める頃には文字通り懐中無一物にて又しも同村有志の同情によって居を結んだ如き有様であった。
今回臨終に際しては特に石幾組の親切は肉親以上にして村内の評判である。


まだ観光地として無名だっ大島がだんだん知られるようになる大正の終わりから大島のお土産として「木版画絵葉書」、挽物彫刻、人形などを独自に作り続けた藤井重丸は岡田の人々に支えられて昭和9年に短い生涯を終えた。
重丸の作った「アンコ人形」は木村五郎が指導に来るまで島で彫られていた原型で型紙など作らずに直接彫って仕上げたと思われる。
人形にも絵葉書にも『シゲ○』のサインがしてある、昭和5.6年は大島に居たと思われるが農民美術講習会に関わった形跡はない。絵葉書は当時の作家とは題材も雰囲気も異なってみえる、移り住んだ画家の着眼と感性のようなものか。その後大島で絵葉書制作をはじめた人たちの版画を見ると重丸の画風が大きな影響を与えたことがよくわかる。シゲ○のルーツをたどる手掛かりは見つけられない。

    画像 006

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水汲みの島娘
 島のご婦人から貴重な写真をコピーさせていただいた。
時代の確定はできないが、昭和初期から戦前くらいまでの「伊豆大島風俗」、川のない大島では飲料水の調達が一番の重労働だった。
 各集落には幾つかの「湧水」があったが、そこへ水汲みに通う姿が【神々しく】映ったものだ、生前にそう回顧した父は60年ものあいだ「水汲みの姿を人形にした」、私は神々しい姿の実際を知らないが、いろいろな資料からその姿を想像してきた。
 今回いただいた写真はその一端をうかがえるように思う。家に水を運ぶ労働の時間は各々まちまちだったに違いない。こうして大勢が一緒に列をなして水汲む姿は当時村に2軒有った「お風呂や」の水ではないだろうか、水桶はまだ黒く濡れている。
 父の初期の「あんこ(島娘)人形」を同じように並べて撮ってみた。

           7人水汲み
画像 310

資料館のポスター
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 表題の「あんこ人形誕生記」から離れつつある回想記だったが、ようやく昨日で回想から現在へ戻ってくることが出来た、これからも軌道修正をしながら資料館がかかわる木村五郎やあんこ人形、農民美術、大島を描いた芸術家、大島の風俗風習のことなど動きのあったものを漫然とではなくある程度まとめて書き記してゆきたいと思っている。
 このポスターは資料館開館に合わせて考えたものだ、「あなたの施設はどんなものですか」と聞かれた時にこのポスターで伝えられれば、そう思って配置したもの、これからもこの時のイメージを大事にしながらやってゆきたい。

大島ゆかりの画家⑤
平成16年には昭和10年代の大島を描きとめた版画家永田米太郎氏の作品展を開催することができた。当時岡田にあった大島観光ホテルに転勤となって4年間大島で暮らして見聞きした経験を後日版画にし、文章を残した。
版画家永田米太郎「伊豆大島の風景・風俗木版画展」(平成16年2月7日から3月28日)のパンフレットでこう紹介した。

昭和9年から4年間大島に暮らし、雄大な自然や人情に触れてすっかり大島に魅せられた永田米太郎は、南の島の暮しぶりに興味を持ち、仕事が終ると電灯もない夜道をひとり岡田の白井潮路氏を訪ね、島に伝わるよもやまの話を熱心に聞き取りした。島を離れてから平塚運一氏に版画を学び、昭和30年に一気に大島を題材とした作品を彫り上げ、今では貴重な民俗資料となっている冊子「大島」を発行した。大島のよき風俗風習をまとめたこの小冊子を読むと大島の姿が次々と作品になってゆく過程がよくわかります。「大島を彫るために版画をはじめたのではないか」と思わせる作品48点を展示(頒布)いたします。
版画家を目指した永田米太郎を彼の妻はピアノの教師をして支えました。子供たちは枕元でサクサクと版木を彫る音を聞きながら眠ったことを覚えているそうです。版画展の初日には永田米太郎長男ご夫妻のミニコンサートが行なわれます。永田健一さんは元日本フィルハーモニーのクラリネット奏者、奥様の永田砂知子さんは打楽器奏者(今回はキーボード伴奏)です。木のドームでクラリネットの音色をお楽しみください。

初日のミニコンサートには80人を越える人たちが集まってくれた。「波浮の港」など優しい調べがドーム型の会場に心地よく響いた。折角の機会だから前もって楽譜を送らせてもらい中出良一氏の「さくら貝」も演奏していただいた。今も東京で行なわれた永田ご夫妻のライブアルバムのCDを館内のバックミュージックとして流している。
永田米太郎に大島で話を聞かせた白井潮路氏(当時文化財専門委員)は版画と文章が入った冊子「大島」発刊にあたり次のように書いている。
「・・・もし永田氏の作品に佳きものがあるなら、それは版画における「民俗学的取材」に目を向けなければならない。そしてそれは彼の真実と自然への愛の探究であろう。もちろん版画家先進の方々にいわせれば彼の作品は幼稚で初歩的な域を出ていないが、三原の噴火、山鳩、島の婦人の髪型、その他島の自然に民俗に彼が求めて止まなかった心が蔵されているのである。それを見落としては『伊豆大島の風物』の趣興は半減する。ずぶの素人の作品ながらその心のあり方は見直されてよい」 (昭和56年9月26日付図書新聞)

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 永田米太郎婦人風俗作品     「大島」の1ページ

大島ゆかりの画家⑤
大島で出会った画家宮本三郎に導かれて一生の仕事を得た画家中出那智子は平成18年に目出度く画業50年を迎えた。毎年意欲的に作品を発表してきた、特に新宿伊勢丹で毎年開催される油絵展は19回目を数えているが、この事は「画家の実力が評価されている証し」だと私は受けとめている。
 大島で『ふるさとを描くー中出那智子油絵展』開催からもう3年が経っていた、新宿伊勢丹の作品展が終ったら「画業50周年記念作品展」として出品作を大島へ巡回してもらえるよう、いい機会だから初期から50年を振り返れるような作品資料の展示が出来ないだろか、そうお願いした。
 平成18年11月11日から12月23日まで「50年の月日を経て いま大島で」という副題で伊勢丹に飾ったマルタ島に取材旅行した作品や新作の「大島のあんこ」「三原山」、陶画などの作品を展示することができた、正直なところ初回ほどの反響はなかったが、大島で画業50年の記念展ができた意味は大きかったと思っている。
 私が「大島を描いた画家」の一人として巡り合えてから中出那智子氏は「大島を描いた作品の絵葉書」を作り、亡き夫のレコードのCD化に取り組み、ジャケットをデザインした。
CDには佐藤春夫や北原白秋、西條八十、中原中也などの詩に中出良一が作曲した楽曲など29曲が収録されている。
中出那智子は「中出良一は作曲家としての自分の進むべき道を求めてブラジルに行きましたが、ある時ブラジル人に「君はどれだけいてもブラジル人にはなれないよ」と言われ、思い当たる所があって14年間のブラジル生活に別れを告げ、日本への帰国を決心しました。「中出良一帰国記念作品発表会」が金沢観光会館で開催され代表作「さくら貝」と室生犀星の「ふるさとは」が一番感動を呼び、客席のあちこちでハンカチで涙を拭く姿が見られました。つまるところ、それは、中出良一の作品が純粋に日本人の澄んだ心を持ち、その心の中を見つめる詩人の魂が宿るからです。
ブラジル移民90周年の折に、サンパウロ演奏会でも、移民の皆さまは日本への郷愁に胸のはりさける想いで「さくら貝」を聞いたと伝えられています。」
とジャケットに書いた。
 資料館のHP公開用に一時は父長島定一が詠んだ幾つかの俳句の思い出とその光景をスケッチした「一口エッセイ」を送ってくれたが、今はご本人が16才の時に作った俳句を紹介してくれている。もう画家は74才になられる、はじめてお会いした3年前から比べれば存在感やエネルギーはこちらが慣れてきたせいか少し薄れたような気もするが、この人こそ息絶えるまで絵筆を持っているのだろうと思う。
 3年前、『ふるさとを描く』作品展協力のお礼に「好きな作品を君にあげる」と言われて、私は鮮やかな色彩で描かれた一番大きな20号のあんこ姿の「山路」をいただきたいと伝えたら、「この作品を選んでくれてよかった」と喜んで置いて行ってくれた、喫茶室の壁に今この作品が掛かっている、この作品を見るたびに『ふるさとを描く』作品展のことを思い出し、今もアトリエで製作に励んでいるであろう画家の姿が浮かぶ。
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  中出那智子「山路」2003年作 大島の資料館所蔵
大島ゆかりの画家④
 音楽の講師として来島していた中出良一氏は芸大声楽科出身の作曲家、中出那智子さんと知り合って結婚した。大島元町の弘法浜を散歩している時に曲想が浮かんだ「さくら貝」は中出良一氏の代表曲になっている、弘法浜は子供の頃の遊び場だったが、黒い砂が白く見える程にさくら貝が打ち上げられていたのをよく覚えている。
 芸大の同級生だった声楽(ソプラノ)の加藤恭二子氏はリサイタルで度々中出良一の作品を取り上げていた。大島で初めて行なわれる中出那智子作品展を記念して会期中の3月30日に加藤恭二子と藤の会(総勢47人来島)主催による「さくら貝ふれあいコンサート」が大島で開催され、最後に中出良一氏の作詞作曲の「さくら貝」が合唱された。

さくら貝
    赤いちっちゃな さくら貝 遠くはるばる きたのでしょう   
    波に揺られて 風に揺られて ついた浜辺は 砂ばかり  
    赤いちっちゃな さくら貝 だれをたずねて きたのでしょう   
    母さんこいし 父さんこいし 呼んでみたけど 風ばかり   
    赤いちっちゃな さくら貝 ひとりさびしく きたのでしょう   
    月影追って 星影追って ついた浜辺は 砂ばかり
 

           20070206111232.jpg
CDジャケットは中出那智子の描画(さくら貝はHPで聞く事ができます)
大島ゆかりの画家③
 作品展は盛会だった、大島の油絵展の資料は資料館のホームページで見てもらうようにした、文章を書くことも好きで得意な那智子さんは「あとりえ便り」と「一口エッセイ」を今も時々届けてくれている。

藤井工房との出会い (平成15年8月9日付那智子の一口エッセイ)
 『出会いと言えば色々あったけど、去年大島での兄弟会の折、島の観光パンフレットを見て藤井工房なるものを知った。船が出るまでに少し時間があったので、藤井工房に寄ることになり、兄弟ゾロゾロお店の中に入って行った。外観はミドリの丸屋根で、入り口も外国の昔の建物のように少しあがって入って行く形式でなかなかシャレているが、島の人から言わせると、それが入りにくい原因らしいが、中にいる藤井虎雄さんがとても気さくで、純真な人柄と知れば、いつも寄る人はたまらない魅力を感じている筈だ。この藤井さんが私に「ここで展覧会をやってください」と、一番簡潔にして真実ある言葉を吐き出して言って下さった時はビックリした。その時から正真二人は大島という郷里を仲介にして、またお互いに父親を尊敬しているという共通点のために生涯を通じての信頼し合い協力し合える同志のような存在となった。もともと自由が好きで、少しでも束縛があると息苦しくなる性質の私だが、ここに来て寄る年波と自分の画の道の協力者欲しさに、ついつい甘えや寄りかかりが出来てしまって、申し訳ないことばかりだが、今年の1月から4月上旬にかけてのふるさと個展開催のロングラン中に思ったことは、驚くばかりの藤井工房の力が発揮されて何と20枚もの絵が売れ、絵を描いて生活している私にとって、恐ろしい不況から思いがけず脱出出来た。
 工房の中で見た色々の心暖まる彼の作品の展示やホッとする飲みものなど、大島にとってなくてはならない観光の大切なスポットになって来ている。大島に行く人は必ずここに寄って大島に関する芸術家たちの足跡を感じて下されと思う。私が立ち寄った折、アンコ人形の素彫りを教わりたい若者たちが何人かテーブルに寄って眼を輝かせて彫っている光景を垣間見たが、世の中色々あるけどホッとする空間がここに展開されていることを想い、これは私のよろこび、藤井さんのよろこびでもあり、大島の先人たちのよろこびであることに間違いない。支庁に勤めていた彼がある日ふと自分の生き方の選択肢として、この工房建設を思い立ち、退職してそれを実践した行動の美学こそ素晴らしいと思う。家族に支えられて彼はひたすら島の民芸や
美術にかかわる調査や資料を集め、ただの一日も無駄にせず自分を捧げている。彼はパソコンを酷使してたった一人で店番から資料作りまでやっている、私とは全く思いは一つでも性格は正反対で、見ていれば見ている程感心する。おそらくこれで一番相棒としてバランスがとれているのだろう。そんな訳で、私の資料もいずれ藤井さんに送ることになると思う。多くの人々の多くのご支援をどうぞ宜しくお願い致します。』

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 椿実のかごを抱えた『あんこ姿」の那智子さん
後に白く写る「大島みやげ」の小さな店が父の最初の店舗

大島ゆかりの画家②
 芸術家を父に持つ中出那智子さんは12才から絵日記を描いていた。
 画家中出那智子誕生の出会いを紹介した「太陽と大地、そして少女の感性」(中日ニュース記事)がある。
『23才の時、二人の男性に出会った。「どちらか一人でも欠けていたら、私は画家にはなれなかった」それほどに運命的な出会いだった。
 一人目は、スケッチのために伊豆大島を訪れていた宮本三郎画伯。「これは一生に三度あるというチャンスの一つなんだ」と感じた那智子さんは、小学生のときに描いた絵日記を見てもらうことにした。見せるものはそれしかなかったのだ。宮本画伯はその絵日記を食い入るように見つめ、油絵を描いて二紀展に出品するように言い残して島を去った。
しかし、油絵など描いたこともなかったし、島に絵具もない。そこへ現われた旅人が、後に夫となる音楽家・中出良一さん。「僕が東京で絵具を買って来てあげよう」――そうして良一さんに見守られながらはじめて描いた油絵は、初出品で入選を果すことになる。
 その後、自由の天地を求める夫とともにブラジルへ渡り、生活のために日曜市で絵を売る体験もした。「初めて絵を売ったお金で魚を一皿買った。それがプロの第一歩でした。」豊かで情熱的な色彩の画家中出那智子は、ブラジルの太陽と大地によって育てられたのである。
 帰国後、夫の故郷である石川片山津に落ち着いたが、その夫は急逝。ー(中略)ー
 最近はとても気持ちよく絵を描いている様子、「自分にしか描けないものを描いていきたい。私の絵は、ぐいぐい元気に、自由な色で描くのがいいみたい」
23才の時のきらめく心をそのまま持ち続けている、少女のような人である』
 初対面だった資料館に見えたあの日、「いつかここで作品展をやらせてもらいたい」そう私はお願いした。那智子さんの瞼に焼き付いている「昭和の大島風景」が再現され、いつかその作品を資料館で見てもらえるようにしたい、その欲求が体の中を駆け巡った。
資料館で出会ってから画家と一対一の交流がはじまった。手紙のやりとりで段々と中出那智子の絵の世界がわかってきた。ブラジルやイタリアの強烈な赤や青の色彩に特徴があり、最近は海外の作品が多くあまり古里を描いてはいない感じだった。私はしばらくして「大島の資料館で大島を描いた作品展をやらせてもらいたい」と大島を描いた作品という条件をつけてお願いしてみた。幸いなことに作品展は出会ってから1年半後に実現した。
 「ふるさとを描くー中出那智子油絵展」は平成15年1月25日から4月5日まで当館で行なわれた。大島を描いた35点の作品の展示と頒布、長島定一氏の木彫「南国」と小さな油絵1点と資料を公開した。大島に現存する初期の作品(個人所蔵)を数点お借りして一緒に展示させてもらった。
 油絵展のポスターは代表作「島娘」(昭和43年製作20号)で作った。この作品は所蔵者のご好意で大島の作品展から引き続き今日まで資料館に飾らせてもらっている。
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               「嫁入り」1961年作(大島町所蔵)
大島ゆかりの画家①
 平成14年、大島出身の洋画家中出那智子さんが資料館に寄ってくれた。普段は石川県に住まわれ今も絵を描き、個展を毎年開いている現役の画家さんだ。私は小学6年生くらいの頃に船着場近くで椿の実に絵を彫り込んだアクセサリーを籠に入れて売っている姿を覚えていた、島の「あんこさん」のかっこうをして桟橋の船のタラップ傍で彫る姿は島らしいサービスだと思ってみた記憶がある。初めて言葉を交わした、資料館を気に入ってもらい、大島の風景や風俗を描いた絵葉書や椿のアクセサリーなどを販売させてもらえることになった。
中出那智子さんの父上である長島定一さんは日本美術院で勉強して彫刻を院展に出品したこと、肺の病気を患って転地療養で来島、住みついて旅館を始めたこと、大島の観光みやげである「椿の実彫刻の開祖」として実を磨くことから研究され、ご自身も細工をされたことなどをお聞きした。
 私は昭和初期の大島の風景やあんこ姿は見ていないが、中出さんははっきりと記憶されており、資料館に有る古い島の資料を懐かしそうに見る姿から黎明期の大島の風景や風俗を大事にしてゆきたいと望む私と同じ思いが感じられ、多くを語ることなく直ぐに意気投合した。
 しばらくして絵葉書や椿の実細工や著作本などが送られてきた。手紙には長島定一氏が院展に「南国」という作品を出品したのは昭和初期ではないか、その作品は今も大島にある、と書かれてあった。
『大島の人物風土記』(昭和32年発行)には「長島定一は東京神田生まれ、家業の刃物鍛冶を手伝う、美術への志望高まり、文展吉田芳明の門に入り、牙彫、木彫を学ぶ、太平洋画会研究所、日本美術院研究所で研鑚に努め、日本彫工会、院展試作展に出品、賞を受ける。病再発して志望を断ち、大島に移住、昭和三十年、郷土民芸に専念」と紹介されていた。
 木村五郎の資料を見たら、何と日本美術院第12回試作展(昭和2年2月)の出品目録に長島定一「南国」の名前があった、この作品展には木村五郎も作品を出品していた。当時院展試作展には会員の推薦があれば出品ができたようだ、同じ研究所で勉強した訳だから二人は言葉を交わしたかも知れないが、大島が共通の話題とはならなかったろう、五郎さんが大島にはじめて来たのはこの年の10月だから。根をつめる彫刻は諦めてしばらく油絵をやっていたという、大島に渡って来て療養しながら旅館「南島館」を始めたが、多くの芸術家が泊まっても自分が彫刻家を目指していたこと、美術の話はまったくしなかったそうだ。教会のクリスマスの寸劇の舞台作りをしたり、会報誌にカットを提供したり、俳句を詠んだりしたそうだから島の暮らしも根っこは文化人だったということになるだろう。牙彫の技術を学んでいたので椿の実に彫刻する発想も浮かんだに違いない。小さな実に細かな線を彫りこんで表現した「十二支」は誰も真似できない芸術的な作品、資料館では十二支を展示している。
 今も椿実の工芸品が作られているが、その基礎は長島定一氏が築き上げたものだ。
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 長島定一の椿実細工

大島を描いた画家たち⑦
 彫刻家で洋画家の保田龍門は大正3年から5年にかけて大島に来て作品を描いている。龍門は昭和初期に日本美術院彫刻部に所属していたので彫刻家木村五郎の先輩にあたる人物だった。保田龍門の作品を所蔵する美術館に五郎さんのことを照会したら「木村五郎が活躍する時代より少し前の彫刻家で、早くに出身の関西に戻られたので、あまり交流はなかったようだ」とお手紙をいただいた。龍門の縁故者の連絡先を教えていただき、手紙を書いてみた。大磯に住むご家族の保田春彦氏は彫刻家で当時武蔵野美大の先生をされていた。
 五郎さんに直接関係する資料はなかったが、保田龍門が「大島」を描いた原画が数点あること、絵のコピーが必要なら美術館に紹介状を書くから、と言っていただき、美術館と親しく繋がることになった。
 保田春彦先生は昭和30年代に伊豆七島の新島中学校の先生で赴任された経験があり、「船が欠航して大島に滞在したこともあった、ヨーロッパから日本に出した手紙より新島から東京に出した手紙のほうが着くまでに時間がかかった思い出がある」と手紙に書き添えていただいた。美術館から大島を描いた作品7点の図録を提供していただいた。美術館にはお礼を兼ねて最新の「大島を訪れた画家たち」の資料リストをお送りした。この美術館の方も数年前から郷土の画家や和田三造や中村彝など著名な画家が描いた「大島作品」に注目していたこと、一度大島まで調査に来たことがあった、そういう話も伺った。はじめて聞く名前の画家の「大島の風景」の資料もいただくことができた。
 龍門は初年は大島元村に泊ったが、3回目には差木地村に宿を変えて作品を描いた、島の北部に位置する泉津村や岡田村を描いた作品はあまり多くない、波浮の港や差木地村を好んで描いたのは冬でも暖かい場所だったからか、村が素朴だったのか、中村彝は大島差木地村で保田龍門と出会い親しくなり後日「保田龍門像」を描いた、と言われている。
 大島の木村五郎研究会は美術には素人の集まりなので、雑誌の目次目録から「伊豆大島」「波浮港」「三原山」や「あんこ(島娘)」などの活字から拾い出し、または展覧会の図録を片っ端からめくり見たような風景を探す、というやたらと時間がかかる方法で作品を探し出してきた。来島した画家30人のデーターから出発した「大島を描いた画家」の掘り起こしは順調に進み、有名無名な画家たち160名、作品図録300点を収集することができた。どの分野と限らず日本画・洋画・版画・手工芸など様々な手法の芸術家が大島を訪れて作品にしている。
 資料館のホームページで画家たちと作品のリストを公開しているので、熱心な画家のご家族や研究者から作品の照会の連絡をもらうことも増えてきている。農民美術の資料と同様に情報の共有化の姿勢でいるので、請われれば手持の資料は提供したいと思ってやっている、相手方から「貴重な資料をいただく」ということもあり、今後も少しずつリストは増え続けることになるだろう。
 画家の作品図録はファイルに整理して資料館で常時公開をしている。最近は詩歌人や俳人、小説家など文人たちの作品調査も進み同じように作品をコピーして年代別にファイルして利用してもらっている。画家たちの作品と文人墨客の大島紀行記は大島の文化を知る貴重な資料だ。
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  保田龍門の大島作品
大島を描いた画家たち⑥
 異色な画家の来島では「未来派の父を自称したロシアのダビッド・ブルリューク」があげられる。大正10年ロシア革命の時にウラジオストックから日本へ、東京に来て1ヶ月後に大島に来ている。
 大島を描いた作品があるらしいということ、10日余りの大島滞在を書いた紀行記のこと、数年前にウクライナから「大島の作品」について、大島まで調査に来ていたことが分った。ロシア人が関心を示した風景や風俗が何であったのか、何とか絵と紀行記を見たいものだと想ってみても何の手がかりもなく数年が過ぎた。木
木村五郎が縁でお付き合いをいただいている鈴木明さん(五郎さんの甥っ子)はロシア語の翻訳者。「ロシアの画家が大島に来ている」と大分前に話したことがあったが、ブルリュークの絵画が都内の画廊にあること、紀行文はロシアの美術館に収蔵されていること、近年日本で展覧会がおこなわれたこと、画家の吉報は鈴木明さんから大島にもたらされた。明さんの知人がペテルブルグに住んでいるので紀行記の原書のコピーが入手できるかもしれない、という話しに進展した。
 鈴木明さんは平成11年に紀行記「大島」を翻訳、その後ブルリュークの著書「富士登山」「海の物語」「小笠原紀行」を訳して自費出版された。現地に足を運び取材して自ら執筆された「ブルリュークの頃の大島」(平成17年)、18年には「ブルリューク、フィアラの頃の小笠原」を出版された。普段は工業技術関係の翻訳をされている明さんだが、分野が異なる古い時代の画家の文章を精力的に翻訳された、大正時代の前衛美術に影響を与えたロシアの大物画家の資料は研究者の間で高い評価を受け、ご本人もブルリュークから離れ難く、題材は大島から外れるが「ブルリュークの日記類」「フィアラが書いた小笠原紀行記」などのロシア語資料ストックがあるので5冊くらい自費出版を続ける予定だそうだ。大島取材の際には、宿泊した可能性があると思われる旅館「三原館」で「大きなロシア人が泊ったことがあった、と祖父から聞いている」という証言を聞き出している。
 ソ連からロシアに変り「ブルリュークの再評価」の動きもあるようだ、2002年には「極東ロシアのモダニズムーロシア・アヴァンギャルドと出会った日本」というタイトルの展覧会が町田市立国際版画美術館など数館で開かれ、ブルリューク作品「大島元村(東京世田谷画廊所蔵)」が展示され明さんの自費出版「大島」は売店に置かれた。ロシアの前衛美術をはじめて日本で公開した画家だが、大島で描いた作品は温かみのある普通の風景画に見える。
 鈴木明さんは自費出版本の頒布窓口を大島の資料館にしてくれた、木村五郎が縁で出会ってからもう10年近くが経つ、ブルリュークの「大島」翻訳から思わぬ展開となっているが、大島の資料館を支援してくれる強い味方だ。
資料館では世田谷画廊からご好意でいただいた額に入れて「大島元村(複製画)」を飾っている。
 外国人画家ではニエダシコフスキー(ジェレニウスキー)やシェルバコフ(シチェルバコフ)やポール・ジャクレーらが大島を描いている。
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   「大島元村」    ブルリューク著「大島」訳者鈴木明自費出版 
大島を描いた画家たち⑤
「大島12景」ほか多くの大島作品を残すことになる弱冠15才の伊東深水は大正2年に作品の画題を求め海を渡って来た、18才の時大島を描いた「乳しぼる家」が院展に入選した。紀行文も書いている、現在までに確認できた作品やスケッチは27点でダントツの多さだ。
 昭和12年には鏑木清方門下の「郷土会」メンバーを連れて写生旅行に来た。この時の作品は9月に日本橋白木屋「島巡遊絵画展覧会」で発表された。出品者と作品のタイトルは川瀬巴水「べんてん堂」・笠松紫浪「燈台」「御神火」・横尾芳月「島の朝」「島の夕」・山川秀峰「紅椿」」「乙女」・千島華洋「大島浅香」・武藤嘉門「椿道」・山田喜作「秋の海」・門井掬水「椿の島」、魅力的な画題が並んでいるがまだ作品図録にはたどりつけない。川瀬巴水の日記を見ると、この時に東京の波止場まで小早川清が見送りに来ているが後日来島したようだ、断定はまだ出来ないが「清」のサインが入ったちょっと妖しげな島の娘と島の唄が書き込まれた観光絵葉書が手元にある、小早川が描いたものではないか、そう思って見ている。
 猪熊弦一郎・栢森義・脇田和・中西利雄・三田康・内田巌・田村一男・有岡一郎・笹鹿彪らは昭和11年2月に下田範次郎と池島清の案内で訪れ、6月には新宿伊勢丹で「島の洋画展覧会」を開き、7月に新制作派協会を結成した。新しい会派を作ろうと発奮した時期の画家たちはどんな大島の絵を描いたのだろう、まだ作品を見たことはない。
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  唄入り絵葉書「清」の印あり 
大島を描いた画家たち④
 大正期から昭和10年代までに多くの文人墨客、特に個性的な画家が大島を訪れている。小さい島なので同じ時に同じ宿に泊っていたり道ですれちがったり、スケッチをしている姿を目にしただろうことは容易に想像できる、当時は画学生であったり無名の画家だったりしてお互いの存在を意識しなくても囲炉裏端で酒を飲み交わしたり、作品を批評しあったり、気が合えば競って絵を描いたかもしれない。
 すでにその時代から長い年月が経ってしまっているので、その出会いをひとつの文章の中から見つけることは指南の技ではあるが、木村五郎研究会は長い間いろいろな分野の資料を集めてきたので少しづつだが当時の様子が分るようになってきた。「大島風景」を描いた中村彝(つね)が4ヶ月大島に滞在した時、まだ18才だった東郷青児も大島に居り、すでに画壇で名の知られた中村彝と近しくして浜辺を歩いたりしたことをある文人が書いていることを木村五郎研究会の時得会員は見つけ出した。村のあちこちで海に向って夕日を、山を見上げて稜線を、水汲みの娘たちをスケッチする画家たちの姿を見た、という島の古老の話も聞いたことがある、もっと多くの作品を見ることが出来れば当時の大島の風景が浮かび上がるに違いない。
 坂本繁ニ郎と森田恒友は一緒に来た、村山槐多は山崎省三を追って、3年住みついて暮らした不染鉄、長逗留し多くの作品を残し、遺作集に掲載された作品100点のうち大島を描いた作品が半分だった洋画家池島清(慶春)、放浪の途中でたどりついた上野山清貢は病気療養中の文人素木しづと巡り合い結婚した、しづは二人の出会いを「蒸風呂」「白霧のなかへ」「美しき牢獄」「こころ」という作品に残した。
 昭和5年6月には漫画家の前川千帆・水島爾保布・池部鈞・服部亮英・細木原青起・池田永一治が来島、船の出発から大島上陸、三原登山、波浮港から帰京までの出来事を文章と挿絵で表わし、サンデー毎日に「大島漫画行」として掲載された。東京湾汽船(現在の東海汽船)はこの6人の作品を15ページの小冊子にまとめ、9月に観光客向けのガイドブックとして1冊20銭で販売をはじめた。
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6人の漫画家による小冊子(池部鈞の表紙画)


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