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『あんこ』は目上の女性を親しみを込めて「おとらあんこ」など名前の下につけて呼びました。今では広く島の娘さんのこと、ちなみに私は男。   連絡メール

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あんこ人形誕生記
昭和初期、伊豆大島に生まれた農民美術「あんこ人形」、 島人に彫刻を指導した彫刻家木村五郎、60年彫り続けた職人の父、人形生誕から資料館を開くまでの回想と資料館の今と未来を記す
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あんこ人形情報
大島あんこ人形の写真です 昭和初期から戦前くらいまでに作られた人形だと思われます。

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昭和6年あんこ人形が褒賞に
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大島の古いローカル新聞「島の新聞」(昭和6年5月6日号)の下段(PR欄)にこんなお知らせが載っています。もう10数年に記事を見ていましたが、何のことだかよく知らずにいました。
去年から今年にかけて上京の機会を利用して何度か国会図書館に通って調べてきました。
興味の対象は「伊豆大島を描いた文人墨客の作品」とあんこ人形を生み出した「農民美術運動」の資料探しです。
両方の興味に共通する話題ですが、ラッキーにも見つけることができました。

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全国農民芸術品展覧会入賞者一覧(第二回)の記事です。

金牌 大島風俗人形 

東京都 大島農美生産組合


銅賞まで数えると50団体以上は有りそうだ、そのトップに大島の風俗木彫人形の文字がありました。(画像は不鮮明ながらはっきりと読み取れます)
主催した富民協会とは、入賞した大島の風俗木彫の姿・形とは・・・簡単ではないが「みつけてくれ-」と資料が呼んでいるようで「図書館がよい」はやめられない。










「農美巡礼日記」新聞記事
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大正の中期に長野上田から全国に広まった「農民美術運動」を受け入れた地方の発展の具合を知りたいとずっと思ってきました。案外と活動の趣意書や計画書などは目にする機会がありましたが、受け入れた地方がどう進めたのか、どこまでの水準にたどり着いたのか、そしてどうして衰退してしまったのか、それらを知る資料はあまりありません。
農民美術運動の発祥の地である長野上田の山本鼎記念館に、長野県下の下伊那郡川路村の川路農民美術生産組合で伊那踊人形などを作られた中島繁さんが活字化された全国の農民美術資料を切り抜いた古いスクラップ(昭和6年頃か)があります。何度かの複写を経ているためか私の手元にあるこの資料は半分が判読不能な状態です。
しかしスクラップには各地の農民美術運動で作られた人形や歴史が丹念な取材を基に細かく記述されています。多分当時の新聞だろうと思われますが40数回に分けて連載されたようです。私は先日何とかこの資料掲載された新聞にめぐり合いたい、そう思って国会図書館でマイクロフィルムと戦ってきました、与えられた時間は4時間です、根気との戦い、時間との戦いです。結論から言えばまだ見つけることは出来ていません。
すでに存在は知っていた長野近隣の組合の現況を伝える昭和5年の「農美巡礼日記」11回の連載の記事を確認することができました。自営業なので週一回の休館日以外に休むことは出来ないので次回いつ行けるかわかりませんが、鮮明な資料(膨大)にめぐり合える日が来る事を楽しみに調査を続けたいと思っています。
中島氏のスクラップの記事の最後に・・まだご紹介すべくして、しなかったものが百余種もある 御神火で名高い大島には「大島人形」がある・・・と書かれている、私の父が60年彫り続けた木彫人形はこの【大島人形】なのだ。
農民美術運動と東北の郷土玩具  
「農民美術の運動」は大正の中期に長野上田から全国へ広がってゆきました。昭和2年2月に日本美術院の
彫刻家木村五郎は京都宇治で行われた「宇治茶摘人形農民美術講習会」ではじめて日本農民美術研究所嘱託員として派遣され彫刻の指導をしました。
 昭和2年秋、大島に住む親戚筋にあたる大橋清史氏に誘われて木村五郎は大島にやって来ました。木村五郎ははじめての大島で見た婦人風俗に興味を持って帰京、12月には長野県川路村の農民美術講習会に赴き、「伊那踊」の彫刻指導、昭和3年には秋田大湯で指導しました。彫刻家の誰もが試みる裸体や人物などの芸術作品を作る一方で各地に出向いて農民に教え、その土地土地で見た独特の風俗を自分の芸術作品に仕上げて作品を発表しました。
 大島では昭和4年1月、5月、昭和5年3月に農民美術講習会が木村五郎を講師に迎えておこなわれ、「薪をささぐ女」「水桶をささぐ女」などあんこ人形の彫刻技法が島人に伝授されました。受講者たちは生産組合を作り技術の向上をはかり、次第に観光客が増えつつあった大島の観光土産として「あんこ人形」は注目されるようになりました。
私の父はこの木彫の「あんこ人形」を昭和9年頃から60年彫り続けた職人です、私はあんこ人形が農民美術運動の一環から生まれたということを知ってから、全国規模で展開された「農民美術運動」の全体像を知りたいと思うようになり15年ほど前に熱心な農民美術研究家の山口先生と出会い、今日まで農民美術のいろはを教わってきました。
このたびの東日本大震災に会われた地方の方々をお見舞いすると同時に「東北の郷土玩具」と農民美術人形のつながりを山口先生(教員OB)はまとめられて、東北の美術館や図書館に送られました。




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   農民美術運動と東北の郷土玩具   丹野寅之助著「東北郷土玩具研究」の考察       山口畑一

    この拙文を「東日本大震災」の被害に苦しまれる東北の皆様にお悔やみとお見舞い
    の心をこめて捧げます。
    東北は土人形・張子・こけし・凧・木彫等の郷土玩具の宝庫であります。そして沢
    山の湯宿がある山海の景勝地でもあります。著者丹野寅之助氏は十年間に渡り東北
    各地を行脚し東北の玩具を探求しました。皆様方も東北の旅で東北の「おもちゃ」
    をお求め下さる様切望致します。
  
      父母を津波に亡くす孤児(みなしご)の卒業証書泥にまみ塗れる 爽風


農民美術運動
 画家山本鼎が一九一九年に「日本農民美術建業の趣意書」を長野県神川村(現上田市)に配布し、農村青年の趣味の向上と副業に依る収益をはかることを目的として展開した運動である。一九二三年の農民美術研究所の設立、一九二五年以降の農商務省からの補助金の交付もあり、農民美術生産組合が全国的に組織され、日本各地に農民美術講習会が開催された。生産活動は多面に及んだが木片(こっぱ)人形がその代表的な製品となった。
一九三〇年代に政府の補助金削減による経済的行き詰まりや、戦争による青年労働力の喪失と相俟って一九三五年には農民美術研究所は閉鎖となった。
このように運動は短期間のものであったが山本鼎は日本で芸術をもってして農民生活の改善を唱え、その推進にもっとも成功した人物の一人として「民衆芸術論」の立場から光が当てられている。郷玩家有坂与太郎等の批判家も存在するが、鼎たちが興した生産組合の活動は今なお農美連合会として存続している。
          
まえがき 
農民美術に関わりのある「郷土玩具」について 日本郷土玩具の会高野荘三委員より多数の郷玩本の紹介を頂きましたが、その中の一冊、丹野寅之助著「東北郷土玩具研究」(仙台鉄道局・昭和十三年十一月発行)について考察した。この本は「人形文化資料展」の目録に示された郷玩文献十五件(うなゐの友等)の中に含まれている。尚日本旅行協会から昭和十二年一月に「東北の玩具」が発行されていますので注意を要します。

  次の二つの観点から考察しました。
(一) 農民美術運動から生み出された郷土玩具
(二) 農民美術運動に連動した郷土玩具
         
各論   

(一)農民美術運動から生み出された郷土玩具

①大湯彫(十和田)人形  秋田 大湯

(イ)著書には次の様に記述されている。

 昭和三年の夏八月私は十和田湖の帰りを温泉「大湯」に立ち寄り、俳人小魚を訪うた。
そのとき同氏は、村の青年達といっしょになって木彫人形の製作に餘念なかったが、指導してくれている若い男が大日本農民美術研究所の同人である木村五郎氏だといふことだった。其の時の作品は僅か二種に過ぎなかったと記憶してるが、そののち二種を加へて、牛追ふ人、農夫、雪の童女、雪の娘を完成した。小魚氏の紹介文は「十和田人形は我が国東北に於ける農民美術の第一声であります。そは周圍民俗の表象で隋て又湖山景勝のしたたりともいひましやう。創作者木村五郎先生風俗人形四種ボッチハ秋田の風、毛布、日ごも、腹当、共に湖山円周の、十和田の湖は万古の色をたたえてゐます。土俗所産者に此人形をお薦めいたします」と書いてある。素材は朴の木を用ゐ、木質をきづつけぬ彩料を使ったところに品位が窺はれる。
   
                         秋田県鹿角郡大湯町 製作者 秋田農民美術倶楽部



(ロ)記述内容の考察
 
丹野氏が浅井小魚を訪問したのは昭和三年八月五日の午後であることが小魚日記に書かれている。当日(午前省略)の記録は次の通りである。「旅館に行くと先生は本を読んでおられた。先生と話をしていたら仙台鉄道局の丹野寅之助と言う人の名刺が届いた。二階から降りて行くと東北玩具案内編集者と言う人物である。二階で木村先生と一緒に話をした。人形を見たいと言うので先生と一緒に講習会場である小学校え行った」とある。
 浅井氏は本名末吉、月太と号し改号して小魚。本業は鍛冶屋であるが郷土史家(大湯環状列石発見・十和田湖調査)、歴史資料収集家、俳句、俳画、短歌、漢詩、小説等に多彩な才能を発揮した文化人である。
 木村五郎は日本農民美術研究所から派遣された日本美術院同人の彫刻家で、京都宇治の茶摘人形、長野川路の伊那踊人形、伊豆大島のあんこ人形等の農美講習会の講師で秋田大湯では昭和三年と五年の二回の講習会の指導者である。三十七歳で夭折。
 作品はその時(八月)二種であったがその後二種加えられたと記述しているが昭和三年の講習で四種作成されている。人形の名称は経過的には色々と表現されているが木村五郎が松村秀太郎に宛た絵葉書と上田貞三の出展目録の呼称が正式である。即ち牛追い・農婦・雪の娘・雪の童女の所謂「大湯彫四体」である。
 大湯彫について小魚の紹介文が示されているがこれは人形に添えて箱に入れた解説書の文面で手摺木版和紙横十七糎縦十二糎の大きさで趣味深い。氏の記録した「人形制作控」に依って出展先、販売先、生産量(昭和三、四年が最高)等の詳細が解る。
 製作者を秋田農民美術倶楽部としているがこれは昭和三年六月十三日の大湯土俗生産組合自由研究所会場開きの話から丹野氏が適当に呼称したものと思われる。「大湯村土俗生産組合」から「大湯農美術生産組合」に変更になった以外の製作者名の存在はない。前者の組合長は浅井小魚、後者の組合長は千葉茂(歯科医)。副組合長の花海清人は優れた多くの木彫人形を作成している。また詩人・歌人でもある。

② 凹平(へこへい)人形  福島 廣田

(イ)著書には次の様に記述されている。
 
 凹平といふのは作者のペンネームで、奈良一刀彫の刀法に恒友、芋銭、三郎氏等の絵画的風趣をとりいれた  木彫人形、よく会津地方の風俗を発揮してゐる。名称も地方の方言そのままを用ゐ、アネサ(姉さん)雪靴、角巻、コメラ(子供)の種類があり、会津諸温泉の浴客のため思出の記念になる土産物をと思ったのが制作の動機ですーと作者の話だった。
     
                               福島県河沼郡日橋村 製作者 伴野凹平


(ロ)記述内容の考察

 凹平名には意味はないとした記録(有坂与太郎・郷土玩具号)もある。
 廣田は出生地の大字名であり後に東山温泉に移住している。彼は奈良の本島良宗氏に就き一刀彫の刀法を修め大正十五年末より作り初めた。彩色には日本画の絵具を用いているが小川芋銭、酒井三郎、森田恒友等日本画壇の有名作家を参考に絵画的風趣をとり入れている等彼の美意識の深さが窺える。作品の名称にも地方の方言をそのまま用い、アネサ(姉さん)コメラ(子供)スカリ(藁鞄〈かばん〉写真にある背負い)等とし、雪靴、角巻、白虎隊、登山人形、達磨、彼岸獅子等郷土色豊かなものを数種作成した。
 特に彼岸獅子の彩色、筆致は絵画的で素晴らしい出来栄えである。
 私の所蔵作品の「アネサ」は桐箱入りで凹平人形とアネサの二枚の木版刷の貼票がある。人形台座には凹平の焼押印があり、意匠は鍬を担いだ農婦像で彩色は五色、寸法は台座とも五糎、材料はモウダ(柳の使用例あり)。価格は五十銭で五割の利益が見込まれていた。
 販売先は物産館、飯盛山、猪苗代湖、会津諸温泉で修学旅行団体の土産には無くてはならないものの一つであった。秩父宮勢津子妃殿下、東久邇宮妃殿下、徳川喜久子姫、各宮様から御買上げの光栄に浴している。
 著書では会津諸温泉の浴客のため思出の記念になる土産物をと思ったのが製作の動機であると作者の弁を記述しているが農民美術運動と結びついた覚悟のものであることが昭和四年の報知新聞に記された次の作者自身の告白で明らかである。「会津風土風俗を美術化したもので、農民美術として将来農閑期利用の副業として誰でもやれるよう、ごく簡単な製作法で面白味を出すように考案した」
とある。凹平についての詳細は会津新聞社の「会津」第四年五号の田代杢平氏の紹介を参照されたい。


(二)農民美術運動に連動した郷土玩具
  
①竹駒木馬(木の下駒) 宮城 岩沼

(イ)著書には次の様に記述(文末のみ)されている。

然し年を経るに従って竹駒木馬の昔の俤が次第に消え、現代化するを遺憾とし、昭和二年原始的一体に基き形状彩色とも其の儘に作りあげたのが此の玩具である。

                                製作者 岩沼小学校内・岩沼町青年団



(ロ)記述内容の考察

 農民美術運動に参加した組織体は様々でその一つとして青年団がある。第二回青年創作副業品展覧会は聯合青年団の主催で日本青年館で開催された。この目録には下谷、本郷をはじめ全国で十八の地域の青年団が参加している。目録には名取郡岩沼町字南館七七の勝又頼治氏が一点三十五銭で木馬を二十個出品している記録がある。
 青年団は戦前小卒の一定地域に住む勤労青年に依って組織された自治団体であるが、青年は青年学校に入り、軍事、普通、産業の教育を受けた。副業についての職業教育も行われた。団の本部は小学校や寺院に設置された。
 「木の下駒」の場合は伝統的郷玩の再興運動を通して自力更生の精神を養うという副業活動として行われたものであり、当時の村起し運動の機知と情熱を感じとることができる。

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左 木の下駒(竹駒木馬復元) 製作者・宮城県岩沼町青年団  右 第2回青年創作副業品展覧会出品目録


②農美運動に連動するその他の玩具
 
 別の機会に取り上げここではその対象となるものを列挙するだけに止める。

      岩手  盛岡 桐人形     花巻 鹿踊(ししおどり)
      山形  米沢 笹野彫(再興) 鶴岡 木の実人形
      青森  弘前 松笠人形
      秋田  角館 桜人形
         
むすび
 丹野氏は昭和三年四月に「東北土俗玩具案内」を発行しその十年後に本書を発行している。この時期は農美運動の最盛期でもあることからして氏は農美に深い関心を持っていたとは見てとれない。その根據は大湯人形にも凹平人形にも農美の視点からの探究が無い。また特に後年秋田を代表する版画家に大成した勝平得之は大湯農美の講習生で木村五郎の指導を受け勝平木彫と迄評価された秋田風俗人形の作家である。巻末記に得之の名を揚げ行動を共にして居ながら農美に全く触れていないのは誠に心残りである。然し十年間に渡り東北各地を行脚してこの本を発行した業績は高く評価されるべきであり東北への愛郷心の深さが窺える。銘すべき哉。
 私は二回大湯に赴き創型会木彫家福本晴男、書家の浅井汸二、花海旅館の花海邦子、大湯郷土研究会長の斉藤長八、秋田の得之ご系譜の勝平新一、大島農美資料館長藤井虎雄各氏より多大な御教示とご協力を頂き大湯農美の調査に取り組むことが出来ました。
また京都在住の郷玩研究家廣田長三郎氏より勝平得之の秋田風俗木彫二体をはじめ数多くの農美木彫風俗人形の御恵贈に与かりました。
関係の皆様に心より感謝申しあげます。

       付記

一、この資料に掲出の郷土玩具「木の下駒」「鹿踊」「笹野彫」以外は廃絶品となって居ます。
二、見学は次の場所でできます。

① 秋田市立赤れんが館・勝平得之記念館 〒010―0921 秋田市大町3の3の21
  ℡018―864―6851

② 木村五郎・農民美術資料館(藤井工房)木曜定休 〒100―0101 東京都大島町元町2の1の5
  ℡04992―2―1628

③ 宿 花海館  花海清人木彫作品・詩歌集(長谷川清一・大湯こけし)
  〒018―5421 秋田県鹿角市十和田大湯温泉上ノ湯34―1
  ℡0186―37―2―3221

三、木の下駒(竹駒木馬)作者不明・調査中 問い合せ先 岩沼市役所観光課
  〒989―2480 岩沼市桜1―6―20 ℡0223―22―1111 

  鹿踊 製作者 後藤登美雄 〒024―0076 北上市鳩岡町2―34
  ℡0197―77―3294

  笹野民芸館(笹野彫)製作者 笹野彫協同組合〒992―1445 米沢市笹野本町5208―2
  ℡023―38―4288

筆者  山口畑一 郷土玩具の会会員 〒339―0022 ℡048―798―0849 
  埼玉県さいたま市岩槻区高曽根1000
         ※ 資料として掲載した写真の人形は筆者所蔵のものです
                                   (平23・4・11記)




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日本郷土玩具の会第30号(平成23年8月1日号)に写真構成は若干異なりますが、上記本文が掲載されました。

参考  山口畑一(筆者)所蔵の人形(掲載した写真)の作品名と製作者名

     大湯彫 農夫  雪の娘  雪の童女  浅井小魚作 
     大湯彫 牛追い  瀬川善治作 
     大湯彫 秋田犬  浅井小魚作 

     勝平彫 雪の子(2体) 勝平得之作 京都 郷玩研究家広田長三郎氏恵贈品 
     勝平彫 馬方 秋田犬  勝平得之作 

     凹平人形 アネサ(姉)会津ヘコ平人形土産 伴野凹平作
     凹平人形 スカリ(正面像)スカリ(背面像 藁鞄) 伴野凹平作 
     凹平人形 白虎隊 彼岸獅子 伴野凹平作 
     勝平得之 版画 表紙絵

農民美術の資料
活字の中に「農民美術」という文字を見つけた本は
   柳宗悦著 「民芸と農民美術」
   八雲町郷土資料館「八雲の木彫熊」
   宮川泰夫著「農民美術運動と民芸運動」
   北田耕也著 「感情と教育 教育に希望を索めて」の山本鼎の項

もう80年も前に盛り上がった出来事だから、新しい切り口のものにはなかなか巡り会えない。

農民美術指南の恩人
資料館の正式呼称は「木村五郎・大島農民美術資料館」だ。
 「農民美術人形」について現存の人形を示して運動の歴史から現在までの顛末を指南してくれたのは教員OBのYさんだった。
 これまで記録上ではずっとYさんとしてきたが、ご本人の了解を得てご本名でご登場いただけることになった。
 埼玉県さいたま市岩槻区にお住まいの山口畑一氏(昭和2年生れ)は埼玉県立高等学校長で勇退されたが、もう長く郷土玩具人形・農民美術人形を調査・収集しておられる。
 はじめてお会いしたのは平成9年1月に行われた「大島町私蔵文化財展」の会場であった。山口先生は日本各地で作られた農民美術人形の研究を続ける中で、農民美術運動の現地講習会に積極的に講師として参加していた「彫刻家木村五郎」に着目し講習会を行った4地区のうち長野川路、秋田大湯の現地調査を既に済ませ、伊豆大島と京都宇治がこれからの調査対象の土地になっていた。大島で「木村五郎のことが話題になった頃」と山口先生との出会いが妙に一致している。
 「大島町私蔵文化財展」には木村五郎が指導した「あんこ人形」などの人形や資料が展示された、私の父は直接木村五郎氏に手ほどきを受けた訳ではなかったが、近年まで60年間人形を彫り続けた職人だった。
 父はその時は体調を崩しており山口先生と直接会って話しはできなかったが、自宅に残っている古い人形と10数年前にテレビで紹介された時のビデオを見ていただいた。夜は民宿で懇親会があって島の有志たちに「木村五郎と川路農民美術について」語っていただいた。
 農民美術運動は、画家で版画家の山本鼎が渡仏の帰路モスクワで見た農民が作った手工芸品をヒントに、大正7年「冬の農閑期を利用した農民が生み出す工芸品作り」を提唱して長野県上田から始まった。上田に日本農民美術研究所が設立され、農民への講習会は全国へ広がり、その地方の名物や風俗が作品となった。
 趣味と実益を兼ねた産業の成立を目指し、最盛期には全国で80数カ所の農民美術生産組合が組織され製作がおこなわれたが、戦争や経済不況のために運動は急速に沈静化し、設立から15年で日本農民美術研究所は解散することになった。
この運動に賛同した倉田白羊・吉田白嶺・山崎省三・平塚運一・足立源一郎・恩地孝四郎など多くの画家や彫刻家たちが講習会に係わって、受講生の技術の向上に力を貸していた。
 「農民美術の世界」、父の人形がすべてだったこの頃には、私にとってはずっと遠い存在だった。
 それから今日まで手紙のやりとりをして、見つけ出した資料の交換や農民美術人形の写真などを数多くみせてもらった。今はほとんど忘れられ埋もれたままになってしまっている人形を発掘、その数は千にも及ぶ、当資料館では山口先生からお借りした日本全国の農民美術作品など300数十点を展示している。
 2007年7月に掲載された新聞記事のインタビューの中で山口先生は「戦前の農民の貧しさ、苦しさが身にしみていることから、農民美術運動に共感しました。とかく低く見られ、見落されがちな民衆の芸術に目を向けてもらいたい。80年間、取り組む人のいなかった地方農民美術運動の全ぼうを明らかにするのが目標です」と語っている。
 山口先生は幾つかの病を得て、前のような精力的な調査活動は控えておられるが、運動の全ぼうに迫る本の執筆に取り掛かられる日は近いと思っている、「先生早く着手しないと間に合いませんよ」と伝えているのだが、まだ手つかずの現地調査地域も残っているようで、当分は併用のスタンスなのだと思われる。
 私の一番の関心事は「私の亡父が60年彫り続けた大島のあんこ人形は日本農民美術研究所の講習会が大島で行われ島人に伝授された人形だということ、その講習会の講師が日本美術院の同人の彫刻家木村五郎であった」ということだが、農民美術運動の全ぼうが活字化されることは大きな意義があるとずっと思ってきたので、いざという時に山口先生に協力できる態勢を整え、資料をまとめておきたいと思っている。大島で行なわれた講習会の受講者でご存命の方はおられないが、講習会の概要はほぼ把握できているのではないか、と自分では思っている。

 山口先生の新聞記事

 


宇治人形作品展のカタログ
知られざる茶の木人形の世界「宇治人形」の出品カタログを送っていただいた。何かの都合でカタログが遅くなると聞いていたが、作品展に行けなかったのでどんな作品が展示されたものか、知りたいと思っ待っていた。
興味の中心は「彫刻家木村五郎が農民美術講習会の講師として昭和2年に宇治に出向いて技術を伝授した」ということで、その時の人形が残っていないか、その人形と長い歴史を持つ宇治人形との関係について、ということだ。
堅い根付人形は5センチくらいと小さい、古くはお茶を買ってくれたお礼の品ともしたようだ、大島の椿の木も堅いがお茶の木はもっと硬いのだろう、写真を見ただけだが黒光りしている。
明治の終りに一度宇治人形の技術は一度途絶えてしまうが、模刻から徐々に後継を目指す人も現れて来た時代の流れの中で昭和2年に日本農民美術研究所嘱託として木村五郎が「宇治茶摘人形」他の木彫人形を講習会で指導した。3週間の講習でどれだけの成果が得られたものか、最初は30名いたが最後まで続いたのは13名だったとカタログに書かれている。
もともと「宇治人形」が作られていた宇治町で講習会が行われたことは「宇治人形の再興」という望みもあったのだろうか、京都府が講習会を誘致している。
私が資料として持っている新聞切抜き(掲載紙不詳)には「・・・茶樹の老木は新樹に植え替えることkになっているので、掘り起こして捨てられたものを利用して宇治町では維新前から茶摘女姿の人形を売っていた。・・・茶の木だけに優雅味もあり風流な客には喜ばれるが、値が高いのでどうも一般向けしない・・・そこで日本農民美術研究所の指導をうけて「茶摘人形」を売り出した。用材は朴の木で郷土味豊かなものだ。一個1円50銭で売っている」と書かれている。
講習会場の写真を良く見ると「茶摘人形」のほかに「鵜飼人形」や違った形の人形も写っているから何種類か試作したものと思われる。
伊豆大島が「あんこ人形」であったように宇治では郷土の風俗風習の「茶摘人形」が木村五郎の意匠により作り続けられた。
図録は花園大学歴史博物館が発行したものです、展覧会には182点の作品や資料が展示されました、2枚目の作品写真は講習を受けた桂楽峯(甚一)氏の作品です。
 伊豆大島木村五郎・農民美術資料館は講習会の写真と資料を少し提供しましたが、こんなに沢山の宇治人形と講習会で学んだ茶摘人形が残っていたという事実に驚き、こうして図録を見ながらこの意義ある企画に少しお役に立てたかもしれない、そう思っている。
 個人的にいただいたお手紙に「宇治人形の魅力を紹介するという目的は達せされたのではないか・・しかしこの研究が終った訳ではなく、もう一度宇治の地で宇治人形が復活できるよう活動できたら、と考えています」と書いていただいた。伝統の宇治人形と木村五郎が指導した農民美術茶摘人形は形状は違うが先人たちの財産を引継いで行って貰いたいものだ。

宇治人形展カタログの表紙

木村五郎意匠の朴の木の人形ほか


上田の「郷土玩具展」にあんこ人形出品
農民美術つながりでは、平成15年7月、主催者から依頼されて長野県上田創造館で行なわれる「郷土玩具展」に大島農民美術あんこ人形と木村五郎の資料を出品した。資料館のパンフレットと一緒に小さなチラシを置いてもらった。

伊豆大島農民美術「あんこ人形」
 『大島は東京から洋上120キロも離れた小さな島です。昭和3年頃から「常春の島」として注目され観光客が大勢訪れるようになり、お土産として「あんこ人形」は珍重されました。
 この人形は、長野上田から山本鼎らが全国へ広めた「農民美術運動」の大島講習会で生れたものです。当時島の林業は盛んで、都会に燃料にする薪や木工品の材料を移出していたので彫刻の木材は豊富にあったのです。
 大島の講習会で講師を務めたのは日本美術院で石井鶴三らと真摯な彫刻研鑚をしていた木村五郎です。長野伊那(伊那踊り)、秋田大湯(雪ん子)、京都宇治(茶摘人形)の講習会で木彫技術を伝授、大島では昭和4年から3回の講習が行なわれ、15人近くの島人が彫刻にチャレンジしています。木村五郎はすっかり大島が気に入り島の婦人像を郷土風俗木彫作品に仕上げて展覧会で発表、小品ながら作品は異彩を放ちました。また、木彫の技法などの入門書も執筆、地方産業振興に大きな貢献をしました。
 あんこ人形の彫刻技法を伝授された島人たちは競って人形を作りました。しかし残念ながら全国規模の農民美術運動は17年間ほどで下火となってしまいました、大島では今日まで細々ながら製作が続けられています。今回展示している人形は60年彫り続けた職人のあんこ人形です。木村五郎のサンプルを手本に改良を重ね独自の人形にたどりついたものです。「いぬぎり材」は彩色していますが、重量感のある「桜材」は無垢のまま経年とともに色つやが増してきます。
 私は木村五郎の技と農民美術の意義と島人の意気込みを後世に伝えること、木彫職人であった父藤井重治の意志を継いであんこ彫刻修業をしながら資料館を開いています。
 農民美術発祥の地である上田の郷土玩具展に参加することで「木村五郎と大島の農民美術」に興味を持っていただければ幸いです。』

 農民美術の本家本元である上田で「農民美術あんこ人形」を出品できたことは大きな意味があったと思っている。現地調査の際に顔見知りとなった現地の方から「まず上田が動かねば」といった賀状をいただく事がある、「一日も早く」と願うばかりだ。

「農民美術」再見は上田から
 平成12年5月のある日、何の前触れもなく一枚のファックス「上田アライ工芸店主荒井宏一さん急逝の訃報」が送られて来た。何の予兆もなくあっという間に一人で旅立ってしまわれたそうだ。上田と大島が急接近を始めたばかりなのに、もっと多くのことを教えてもらいたかったし、一緒に出来ることがいっぱいあると思っていたのでとても残念な知らせだった。
 6月、上京の折りに上田まで足を延ばして焼香をしてきた。未熟なあんこ人形を一つ仏壇に供えさせてもらった。「へたくそだなー」というお元気だった頃の独特の口調が聞こえたようだった。「工房の後継者はいないけど、農民美術の家は続けて行きたい」と奥さんが話してくれた。
せっかくの機会なので、農民美術の生みの親である山本鼎の記念館で前澤学芸員に会って、所蔵資料を少し見せてもらった。
 農民美術発祥八十周年記念誌(長野県農民美術連合会発行)に前澤さんが書かれた「農民美術(運動)の可能性」が載っていた。
 『今日まで様々な研究者によって、大屋の日本農民美術研究所を中心に、農民美術運動の調査研究が行なわれてきました。しかし、その全体像についてはまだまだ不明瞭な事が多く、特に全国で展開された講習会や全国の農民美術生産組合などについてはほとんど調査が進んでいないのが現状です。農民美術発祥八十年という輝かしい伝統を持ちながら、山本鼎と農民美術運動についてしっかりとした研究論を提示できないのは、とても残念なことではないでしょうか。
そんな中、私が農民美術に関する新しいテーマとして着目すべき点が三つほどあります。
先にも述べたように、まず第一に、全国における農民美術運動の広がりとその展開についてです。長野県下はもとより、東北から九州まで全国各地で行われた土産品製作講習会、そして全国で組織された農民美術生産組合の調査です。これは特に真っ先に行う必要があろうかと思われます。
第二に、注目すべきは農民美術の初期の代表的木彫品、木片人形の存在です。調査によると、長野県下に止まらず全国各地の農美生産組合で生産販売されています。郷土色豊かで、今現在も一部に熱烈なファンのいる木片人形ですが、種類と分布についてはまだ明らかにされておらず、その分布と種類を調査することは、山本鼎記念館にとっても、とても重要な事のようです。
というもの、農民美術の調査で山本鼎記念館を訪れる方の中には、木片人形を研究している方が随分多くいらっしゃるからです。例えば木片人形を日本の郷土玩具という観点からとらえ、農民美術運動が土産人形に与えた影響などを研究している方、また木片人形を立体彫刻という観点でとらえ研究している方もいます。初期の農民美術において、なんと木片人形の存在感が大きいことでしょう。その研究の必要性を改めて認識しました。
そして第三に、運動体としての農民美術についてです。
農民美術運動とは山本鼎の行った美術教育の一つです。今でいう社会教育の先駆けだったと言えるでしょう。すばらしい美術家ではなく農村で暮らす民の手仕事から生み出された物(木彫、織物、染色などに宿る美。「美を生み出すのは特別な人ではなく、あなたであり私である。その一人一人の人間が尊いのである。」山本鼎はそう伝えたかったのではないでしょうか。また、こども達にも「一人一人の感じた心を大切に絵を自由に描きなさい」と言い、農民美術よりも先に児童自由画教育運動も展開しているのです。そんな鼎の想いに賛同した金井正さん、山越脩蔵さんは農民美術運動に宿る教育思想をよく理解していたのでしょう。
 このように民衆の生活(つまり手仕事)と芸術運動が結び付いて起きた芸術工藝運動は世界にいくつもあります。例えば十九世紀末のイギリスでウィリアム・モリスが起こしたアーツ&クラフト運動。また、ドイツではカンディンスキーやクレーなどが主体となりバウハウスを設立します。その設立は、奇しくも一九一九年(大正八年)山本鼎がこの上田の地で農民美術運動を起こした年です。日本の中でも、柳宗悦の民芸運動があります。また、もう少し拡大解釈すると、宮沢賢治が「農民藝術運動」の中で論じる「生活と芸術」や武者小路実篤の新しき村などがあげられます。これらの運動はそれぞれに時代も異なり、運動体の形態や内容も異なります。
ですから、単純にそれらに共通性を見いだしたり、関連性を集約することは難しく、それには一つ一つの運動について丁寧に考察する必要があるとは思います。しかし、それら個々の運動の根底にある″思い〟を見失ってはならないでしょう。それこそが、山本鼎が農民美術運動の中で成し遂げようとした民衆芸術による豊かな人間形成だったのではないでしょうか。
最後になりましたが、これから農民美術を様々な角度から考察してゆくためにも、きちんと認識しておかなくてはならないことがあります。それは農民美術の展開を調査研究していくのは、資料(もちろん生きた言葉も含めて)が一番多く集まっているここ上田の地が行うべき仕事であるということです。そのためには、農民美術連合会の諸先生方にはご協力いただかなくてはならない面も多々あろうかと存じます。そのことをあわせてお願いして、農民美術発祥八十周年のお祝いの言葉に変えさせていただければと存じます。』
 
 農民美術発祥八十周年を迎えた地元上田のこの決意が文字だけで終わることなく、記念館や連合会の理解と協力を得て一日も早く動き出すことを期待しています、大島で手伝えることがあったらやりますから、と伝えて戻ってきた。

農民美術の交流②
 平成12年に刊行された『大島町史通史編』文化活動の項で藤井重丸は取り上げられ、「現在彼の作品は一切残っていない。他界するとともに彼の仕事も彼自身の存在も忘れられ、昭和初期の彫刻家木村五郎の指導によって、大島農民美術組合が結成され木彫り風俗人形の製作は本格化するのである。」と書かれている。
しばらくして長野から「人形が歴史的に貴重なものだと聞いて一つ資料館に寄贈することにしました、飾ってください」という手紙と一緒に桶をささぐ人形が大島に送られてきた。シゲ〇の生涯と島の暮らし、どんな思いを込めて彫った人形なのか、そしてどう風に旅をして長野まで渡ったものなのか、人形が話したがっているように見えてきた。直接目測で彫ったものか、原木を四角に木取って型紙から原型を写して作ったものかどうかの分類が簡単に出来そうだ。岡田村に住んでいた藤井重丸が元村で行なわれた農民美術講習会に通ったという記録は見つけられない、参加者はすべて元村に住む人たちだった。
 追悼文には版画も彫ったと書かれているが、シゲ〇が作った2種類の版画絵葉書を資料館で展示している。
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長野からいただいたシゲ〇のサインが入ったあんこ人形と版画絵葉書
農民美術の交流①
 「農民美術の木片人形」を6年前から調査されているという長野の人と情報交換が始まった。名前と住所しか知らない、手紙だけのやりとりだった。この人も大島の農民美術について、上田の山本鼎記念館から本多さんが提供した資料を入手していた。
私が持っている資料で彼が必要なものはコピーして提供した。大島のあんこ人形も何点か所蔵しているそうなので写真を貰えるようにお願いしたら、8体のあんこ人形の写真を送ってくれた。骨董市で手に入れたそうで、そのうちの2体は父が作ったもので彩色のあんこ人形とイヌギリの丸彫(白木)は昭和30年代頃の人形のようだった。はじめて見る形の2体には作者の銘が筆字で「シゲ〇」と入っていた。
シゲ〇と同一人物と思われる人物の訃報記事が「島の新聞」の昭和9年6月第266号」に載っている。
『大島風俗木彫人形創始者藤井重丸君逝く君は不遇な天才』 
 大島風俗木彫人形創始者としてその天才的風格をうたわれる岡田村九番地藤井重丸君(三十一)は、病ついにいえず十六日朝その仮の住居において石磯組其他近隣の人達の手厚い看護の下に不帰の客となった。
同君は福島県会津の産、幼にして父母に離れ不遇の運命の中にも芸術的天分強く、ようやく中学三年の頃より益々そのひらめき顕著にして自らも画家として立つべく決心、一夏休暇を利用して大島に遊び、この土地の人情厚く住み良きを知りて再び渡島。岡田村柴潔、新角、川島市右衛門、白井蔵太郎、本社潮路故白井吉三郎等諸氏の同情によりて草庵をかまえ、一路画道に精進するかたわら木彫りをはじめ生活をたつるに至ったものである。尚君が手によりて創案されしものには、木の実人形、木版画絵ハガキ、挽物彫刻、風俗版画タオル並びにハンカチ等枚挙にいとまがなく、いずれも大島土産として遊覧客をして喜ばしむるものが多かった。然れども同君もまた芸術家多分の通有性にもれず常に物質的には恵まれず、一昨年十一月大風害にその仮寓を吹きさらわるに及んで一時帰郷再び病を得てここを安住の地と決める頃には文字通り懐中無一物にて、またしも同村有志の同情によって居を結んだ如き有様であった。今回臨終に際しては特に石磯組の親切は肉親以上にして村内の評判である。』

課題の一石を待ち望む
 Y先生が足を棒にして探し出された233点の農民美術人形は題材別に並べて展示した。今回は農民美術の全般を見てもらえるように、各地の代表的な作品を選んでいただいたが、Y先生は「何年かして作品を入れ替えることもできるから」そう言ってくれた。
Y先生は陳列するだけに留まらず、一体ずつ写真に撮られてファイルされ、製作した当時の農民美術組合の名前、作者がわかる作品には名前を記した一覧表まで準備してくれてあった。一番驚いたのは、大島のあんこ人形を40数点所蔵されていたことだった。大島で作ったものだが、私が島のあちこちから借り集めた「地元の資料館」の展示予定の人形よりも遥かに充実した人形たちだった。Y先生には父が暮らした隠居家に4日間泊まって開館までの準備を手伝っていただいた。
コレクションの解説文を二人で考えて決めた。

「農民美術木片(こっぱ)人形―Yコレクション」(資料館の紹介文は経歴を含めて本名で掲示)
 Y氏は愛好家が組織している日本郷土玩具の会・全国郷土玩具友の会・郷土玩具文化研究会・日本雪だるまの会に所属されています。平成初年頃から農民美術の木片人形を郷土玩具として捉え、収集と調査に取り組まれて来ました。当館に展示されている233点の作品はこの間に集められたものですが、農民美術発祥80周年の今日においてはコレクションもなかなか容易なものではありません。
 Y氏は日本美術院同人木村五郎が農民美術指導者として活躍されたことを知り、木村五郎の指導地の秋田大湯長野川路、京都宇治、伊豆大島等の現地調査を数次にわたって行なってこられました。
木村五郎の指導を受けた秋田大湯の浅井小魚や勝平得之の大湯人形、長野川路の中島繁男や古川舎人の伊那踊人形、京都宇治の桂甚一の茶摘人形、大島農民美術工人のあんこ人形や駱駝乗人形等はこうした取り組みの過程から所産です。農民美術では各地方の歴史、奇談、人物、名所旧跡、民謡、習俗を題材とした郷土色豊かな人形を作りました。
 長野の山本鼎記念館等公私の施設でも木片人形が展示されていますが、山本鼎の意匠による出雲人形、千葉県勝浦の井桁重太郎の大漁踊人形、長野川路の旧制一高生のデカンショ踊人形、会津の伴野凹平の白虎隊、茨城の新治人形、千葉の興津人形、草津の湯もみ人形、富山の雪国風俗人形、諏訪の大和作内のスケート人形、御殿場の富士見人形、岐阜白川の深山人形、千葉鴨川の肥村信一の旅人、埼玉吉見の篠田五郎の野帰り、鹿児島の薩摩人形、北海道のアイヌ風俗など、当館ならではの珍品を展示しております。
 Y氏は山本鼎の親農精神に傾倒され、木村五郎や勝平得之に代表される郷土玩具を愛した農民美術作者達の用と美の統一を目指した真摯な姿に共感を深められ「民衆の芸術」としての農民美術運動の究明に熱い思いを寄せられています。そして現在「日本農民美術運動史」の考察を進めております。
 愛すべき木片人形の御高覧を通して、氏の情熱に触れていただけましたら主催者として幸甚の至りに存じます。

 「あるく・みる・きく」を実践して収集された膨大な資料を一日も早くまとめられ、研究書が出版され、各地の農民美術組合員の取り組みが明らかとなり、当時の農民美術運動の見直しがなされ、日本の郷土玩具界に課題の一石が投じられることを私は切に待ち望んでいる。私で手伝えることは何でもするつもりだ。
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   Y先生のコレクション    大島のあんこ人形(資料館とY先生の収集作品)

心情を歌に
私は多くのことをY先生から学んだ。そして終始変わらぬ同志として、私も考えつくあらゆる手段で農民美術と木村五郎の資料収集を続け、掘り起こした資料はすべてY先生に送ってきた。資料を共有することでお互いのレベルアップが出来たと信じて疑わないし、貴重な資料を先行の冊子に提供していただいたお礼も少しできたのではないか、そうも思っている。
Y先生はいつも返信の封書に手紙の内容に沿った歌を、ある時は先生の心情を詠んで送ってくれた。

  平成10年  天龍峡大湯大島白川と農美巡礼一歳終わる
         わが内に静かに燃ゆる炎あり農美そしりし者と斗う
         ひたむきに求むるものの何もなく酔生夢死も人の一生
  平成11年  一歳を農美農美で明け暮て木彫人形探すよろこび
         意気込めて初の便りは大島え先ずは農美を満載にして
         東郷の杜の市にて得之作スキー人形得難きを得る
         ここかしこ尋ね歩くも答無し農美はどこも霞の奥に
         雨垂れの岩をも穿つ熱をもて五郎究める君ぞ天晴
         僅少のわが人生なれば全開に心の中を君に伝えむ
         土の神祭りて農美館建つ五郎と父と終の住み処と
         わくわくとする胸おさえ宇治に飛ぶ茶どころ茶摘人形を見に
         親しきの中にも礼のあるという掟を破る手紙を書きぬ
         虎雄とはよくも名付けし重治翁虎穴入りて虎とりし子に
         五郎さんあなたの本にのせますよ宇治の農美の茶摘人形
         民衆の芸術というものなべて何故長くなおざりにさる

余計な葛藤を
Y先生は「農民美術運動史」といった研究書の執筆を視野に入れてずっと活動をしてこられた。Y先生は「念には念をいれろ、簡単に結論を出すな、現地へ行け」をモットウに、「生涯を通じてぎりぎり運動史がまとまるかどうか」という遅々とした歩みを重ねながら、たった一人で過ぎ去ってしまった長い時間との闘いに挑み続けられていた。
 大島の木村五郎研究会は後発ながら会員の結束力と速攻力を武器に資料をまとめることができ、Y先生より先んじて冊子を出すことになった。
 私は相互協力を誓いあった同志のY先生に、これまでに収集できた「木村五郎と農民美術の資料」の提供をお願いした、先生が膨大な時間と忍耐を費やした大切な資料を後発の研究会が先んじて公にしてしまうことがどういうことなのか、「農民美術運動史」があることも考えもせずに勝手なものだ。自分たちが作る資料集の充実のため、ただそれだけを私は考えていた。
 私は余計な葛藤の課題をY先生に与えてしまった。
 Y先生から奪い取るようにして木村五郎資料集に掲載することはない、という気持も一方には芽生えてはいた。しかしY先生の資料は木村五郎の足跡をたどるためには欠かせない重要なものばかりだった。川路や大湯の講習会の様子が浮彫りにされ、人形の姿形も明らかになっていた。特に平成11年の春、僅かな手がかりを突破口にようやく全貌を明らかにできた「京都宇治の茶摘人形」、現地まで行って探し出した2体の人形の写真も提供して欲しいと頼みこんで応じて貰った。木村五郎が指導した4四箇所の講習会の会場写真と伝授された人形の姿を写真で紹介できることになった。
「京都宇治茶摘人形」を大島の資料館で開館から特別展示できるように所有者と交渉をしてくれたのもY先生だった。
(写真は彫刻家木村五郎指導による『農民美術講習会の郷土風俗木彫』、前列2体は伊豆大島の「山帰り・水汲み」、次列の左2体は長野川路の「伊那踊り」、右の2体は京都宇治の「茶摘み」、後列の4体は秋田大湯、左から「雪の娘」「雪の童女」「農婦」「牛追い」、すべて木村五郎の意匠による。)
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大島に根ざした取り組みを忘れるな
 私が手紙を出し始めた頃、相手に届くまでに3日くらい、Y先生が受け取ってからこっちに届くまでに7日くらい、その間に自分なりに思考を巡らし、また別の疑問を頭に残して返事を待つようになった。待つことが楽しく嬉しく充実した時間だった。
段々熱が入ってくると、返事が待ちきれずに矢継ぎ早に3通送りつけてしまったこともあった。早くお知らせしたい発見もあったのだが、受け取る立場も考えずにしたことだった。それからは反省して返事が来るまでは出さない、それを今日まで実行してきた。
 手紙を改めて読み返してみると、「資料館を作りたい」という夢の構想は早いうちに書き送っていた。出来たらいいが、それは出来っこない、そんなまさかの夢の資料館がこんなに早くこんな形で実現するとはY先生も思っていなかっただろう。
 木村五郎の資料を夢中で探している時に「木村五郎がすべてにならないように、大島とあんこ人形、60年彫り続けた職人の功績、大島にしっかり根ざした取り組みを忘れるな」といつも叱咤激励をしてくれた。私にとってY先生は大先輩の指導者では有るが、熱血漢火の玉青年でもあった。お互いに息投合して遥か彼方に置き去りにされた「農民美術」の解明に果敢に挑む同志でもあった。
 Y先生は各地の農民美術講習会の受講生たちが作った人形の調査に力を注がれてきた。人形の作者が誰だか、そんな追跡も試みられて数人の名前が確認できていた。
 私が「五郎さんのこんな資料を見つけた」と書けば、「私はあんこ人形と珍しい絵葉書を発見した」と書いてきた、二人は素直にお互いの成果を喜びあい励みにした。

関心は父の人形だけだった
私は農民美術についての予備知識はまったくなく、大島の文化財展でも「父の人形」にしか興味がなく、近くに展示されていた「木村五郎の作品や資料」にもまったく関心はなかった、そんな時に農民美術研究者とあんこ人形職人の子供との長い交流が始まった。農民美術の歴史や課題など身を持って会得されていたY先生からあれこれとお聞きするようになってゆくが、情報の手段はすべて手紙のやり取りだけだった。私は平成10年1月から手紙を送り始め、Y先生から平成10年に22通、11年に45通、12年に24通のお返事をいただいた、この書簡は大切にファイルして今も時々読み返したりしている。
私は本や資料を読んで感じたことや疑問に思ったことを書いて送った。私が便箋二枚くらいにちょっとした思いつきを書くと、その何倍という中身の濃い手紙が必ず幾日か後に届いた、時には20枚を越す時も有った。Y先生は長野上田から各地に広がっていった農民美術生産組合の活動と講習会のこと、その土地で作られた特徴ある人形の姿と作者を追求していた。
大島の有志たち(大西外美夫・時得孝良氏)が木村五郎の作品絵葉書を探し始めた頃、Y先生から、そして長野碌山美術館から『シデ』の大西編集長のもとに「木村五郎」についての照会が来た、一体何が最初の発火点だったのだろうか。
今は休刊中の文化季刊誌『シデ』は1996年8月第2号から2000年2月第19号までずっと「木村五郎の話題」が続いた。Y先生は農民美術の資料と現地ルポ、人形の写真を添えて次々と『シデ』に寄稿された。

恩師との出会い
郷土玩具収集・農民美術研究家のY先生がこれまでに収集された「各地の農民美術人形」を資料館の2階で常設展示が出来ることになり、平成11年8月24日人形たちが到着した。
自分が歩んで来た「道のり」を振り返りながら『あんこ人形誕生記』を書き進んできたが、ここまでに至るY先生との交流はとても濃密なものだった。あらゆる場面でY先生とは繋がっていたが、書き始めるきっかけがつかめずにこの回想はもう資料館開館日(8月28日)の4日前まで来てしまった。
Y先生との頻繁な手紙のやりとりは大島ではじめてお会いした私蔵文化財展のあと、平成9年1月からはじまった。Y先生は公立高校の校長先生で現役を引退され、これまで40年に渡り郷土玩具の収集と研究をされていた。Y先生は農民美術講師木村五郎との出会いをきっかけに、平成4年頃に「郷土玩具」から「農民美術人形」へ関心を移して、各地で積極的に講師を勤めてきた「木村五郎」の足跡に迫る調査をされていた。すでに長野川路、秋田大湯と現地調査をされ、次の木村五郎指導による講習会地として研究対象に選ばれたのが当地大島だった。
 郷土玩具の中にあって「農民美術人形」が何故忘れられたように影の薄いものになってしまっているのか、農民美術の体系的な調査をして、郷土玩具の一端に「農民美術人形」を加えるための大島調査がきっかけで私は初めて大島でY先生とお会いした。

全国の農民美術生産組合
長野県上田(旧小県郡神川村)から全国へ広がった農民美術運動は大正8年から昭和15年頃まで、どちらかというと短命で終息してしまっている。
木村五郎が講師で活躍していた昭和初期が全盛期と言えるのかもしれない。昭和53年「あるくみるきく140号」の特集記事「信州上田・農民美術」には大正15年当時で長野県下の組合数は62、加えて全国に30近い組合があった、と解説している。
昭和7年の長野県の資料には「県下に45の組合があり400種を越す作品がある」と書かれている。大正14年には財団法人となり職員と嘱託24人が在職、長野の日本農民美術研究所で講習会を開催したり、講習を希望する地方へ講師を派遣して受講者を増やしていった。大正15年には東京出張所も開設されている。しかし、経済恐慌が農村の養蚕に打撃を与えたり、いろいろな要因が重なり急速に運動は沈静化していった。しかし、各地に播かれた農民美術の種は地元で発芽し有志に受け継がれてゆくことになる。
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農民美術運動主宰者山本鼎の記念館で発行している絵葉書「木片人形・農民美術研究所(大正時代)」 
昭和10年の通い帳
大島で人形作りが盛んだった頃の資料は少ないが、唯一父が使っていた昭和10年の通い帳が1冊だけある。大島農美組合の名前があるので、昭和10年に組合から父が仕入れて三原山登山口の店舗で売っていた「みやげの品」だと思われる。人形・柱かけ人形・柱かけ人形ラクダ・しおり・絵皿・絵馬などの商品名が書いてある。
昭和10年6月は絵馬を80近く仕入れている。当時のかけそばが1杯5銭の時代なので幾らで売っていたのか、仕入れ値が書いてあるが達筆で読めない。
まだ本格的な観光お土産が内地から入っていない時代だと思われるので、大島農民美術組合でいろいろな木工品を作っていたと思われる。
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大島に農民美術の足跡が残る訳
五郎さんが長野川路・京都宇治・秋田大湯・大島の4ヶ所でおこなった農民美術講習会の資料は日本農民美術研究所には少なく、現地にも僅かしか残されていない、それに比べ伊豆大島には多くとはいえないが形跡がはっきり残されている。その要因は、五郎さんの親戚が大島に住んでいたこと、大島のローカル新聞の『島の新聞』が木村五郎来島前から記事に取り上げて社説でも農民美術運動の行方を論じ、木村五郎の手記も積極的に掲載したこと、最近まで講習会で伝授されたあんこ人形を作る職人がいたこと、木村五郎研究会が活動を始める20年も前から関心を持って調べていた人がいたこと等があげられる。
しかしながら講習会が行なわれた大島元町地区は昭和40年の大火で焼け野原になり、「あの店に大きな人形が並んでいたなー、あそこで見たぞ」と聞く人形たちはあっという間にこの時灰になった。



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