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『あんこ』は目上の女性を親しみを込めて「おとらあんこ」など名前の下につけて呼びました。今では広く島の娘さんのこと、ちなみに私は男。   連絡メール

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あんこ人形誕生記
昭和初期、伊豆大島に生まれた農民美術「あんこ人形」、 島人に彫刻を指導した彫刻家木村五郎、60年彫り続けた職人の父、人形生誕から資料館を開くまでの回想と資料館の今と未来を記す
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父の人形
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初期の人形

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生涯の代表作ではないかと思っています

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伊豆大島風俗木彫人形
4月はじめに国会図書館へ行ってきました、こうやってゆっくり調べられるのはこれがきっと最後だと思って目一杯居てきました。
日本の農民美術運動の生みの親である山本鼎が「農業年鑑昭和7年版」に書いた農民美術開拓運動の近況という報告文の中の【 大島の風俗人形が昭和5年に開催された第2回全国農民芸術品展覧会で入賞した 】という記事を頼りに当時の新聞を検索してみました。

富民協会主催で大阪毎日新聞が後援して昭和5年の5月に行われたことが分かったので、当時の大阪毎日新聞を調べてみました。
5月23日から5回に渡って 農民芸術ー三越の展覧会から というタイトルで出品された全国の作品が26点紹介されていました、その中に金賞をもらった「大島風俗木彫人形」が載っていました。
5月26日の新聞には当時の審査委員長(農林省技官見坊兼光)が「郷土の香り高き自然と風俗」という長文を書いていました。

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 大島の人形の写真は上のとおりです、不鮮明ですが間違いなく大島の人形です。
 この形の人形は伊豆大島の当資料館で展示中の人形とほぼ同じです
 水の貴重だった時代には井戸から汲んだ水を水桶に入れて頭に乗せて運んだ、そんな時代の風俗を木彫で表した ものです(女性たちが井戸に集まってみずく。最後のチャンスでようやく巡り会えた私にとっては大変貴重な新 聞記事です。
i伊豆大島のあんこ人形
原さん メール送信ありがとうございました また何か見つけたら教えてください

大島のあんこ人形(ユキヲのサイン入り)をお持ちとのことなので、当資料館に展示中のあんこ人形をここで紹介いたします。

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伊豆大島では3回農民美術講習会が行われました、講師は彫刻家の木村五郎です。ユキヲさんは組合員ではありませんが会場が近所であったこと、実兄が組合員だった事もあって一緒に講習会に参加できたのではないかと思われます、昭和4年の「島の新聞」には組合員は18名とあります。
小さい2体にはサインがあります、左の大きな人形は高さ28センチです、サインはありませんが柳瀬幸雄(本名)が彫った人形だと思います。

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原さんへ業務連絡です
原さん(ヤマモミジさん)へ
先日は「あんこ人形誕生記」に書き込みをありがとうございました

山口先生が「東北の郷土玩具と農民美術」の文章をまとめられてから

 凹平のこと、短歌を詠んだことなど凹平氏の足跡が大分わかってきました、分かってきたと自分のことのようで

 すが、みんな山口先生がされたことです。

 もし凹平人形をお持ちで、前回写真で示した「アネサ」「スカリ」「白虎隊」以外の人形をお持ちでしたらご教

 示願えませんか

 「東北の郷土玩具と農民美術」に続き、「伴野凹平評伝」を12月までにまとめられる予定です、

 これからもよろしくお願いいたします。 

                       伊豆大島 藤井   メール tora26@fsinet.or.jp
ちい散歩で放映に
2月の終わりにテレビ放映されたのですが再生ができず、あんこ人形誕生記に載せるのが今になってしまいましたが見てください。

テレビ朝日 2月28日「ちい散歩 伊豆大島元町編」 で紹介されました

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 テレビで彫刻家木村五郎の名前が紹介されたのはきっと初めてのことだったと思います。

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 私の作った豆あんこ人形がアップで映りました

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 スケッチから彩色までたっぷり時間をかけて描かれていました

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 地井武男さんの赤と白の椿の作品です、ちいさんの温かい人柄が人気の源だと数時間ご一緒して思いました。

「伊豆大島あんこ人形の歴史」
 代りばえのしない中味と写真ではありますが、再度自分なりに「あんこ人形の歴史」、藤井重丸にはじまり、彫刻家木村五郎・人形職人60年の藤井重治、そして今の資料館責任者の私に繋がる歴史をもう一度整理しておきたいと思います。 

 古くから大島に渡ってくる手段は船頼みでした、本格的な大島航路は明治40年、133トンの豆相丸が月3回の航海ではじまりました。昭和3年までは牛や貨物と人間が同乗する、貨物優先の船舶が週3日ほど通ってきていました。昭和4年に念願の純客船が毎日運行され、2000トン級の船が東京―大島、伊東―大島-下田を毎日往復するようになりました。
 明治の終り頃から多くの画家や文人たちが作品を描きに訪れていますが、定期大型船の就航により一般観光客が来島するようになりました。昭和3年には流行歌「波浮の港」がヒット、昭和6年には三原山に蒙古産の駱駝とロバを放ち、旅客を乗せて砂漠を横断するといった企画が人気を呼び、昭和8年女学生の三原山投身自殺を契機として投身自殺流行の奇妙な現象が起こり、一種の大島ブームが現出しました。このようにして伊豆大島の存在は広く知られるようになりました。
 画家を目指していた福島会津若松生れの藤井重丸は大正14年春頃に大島へやってきて岡田村に住み着きました。当時は「大成したければ大島を描け」を合言葉にして、多くの芸術家たちが大島へやってきました、その理由は何だったのか、大島に何があったのでしょう。
藤井重丸は南国情緒の「大島婦人風俗」のあんこ姿に着目して素朴な「木彫りあんこ人形」や版画絵葉書などを作り、観光みやげとして販売をはじめました。「あんこ」は姉っこが変化した地方言葉で「目上の女性を親しみ込めて呼ぶ」呼称です。

あんこ人形用絵葉書 画像 020
 大島の婦人風俗絵葉書(昭和初期)     婦人風俗を木彫に、あんこ人形創始者藤井重丸作品

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 藤井重丸あんこ(島娘)人形


 昭和4年から5年にかけて版画・洋画家の山本鼎が主宰する「趣味と実益を兼ねた産業の成立を目指した農民美術運動」の一環として、日本美術院所属の彫刻家木村五郎が彫刻講習会を開き島人に「あんこ人形彫刻」を伝授しました。木村五郎は昭和10年37才で亡くなるまでに「伊豆大島風俗木彫作品」を院展に10点ほど出品して注目されました。

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 大島の講習会で伝授された「あんこ人形」左【山帰り】 右【水汲み】

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 大島農民美術講習会(昭和4年)

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 木村五郎の院展出品(昭和5年)作品「水汲みの島娘」

島人人形
 島人が学んで彫り上げた「あんこ人形」


 受講した数人の島民は観光みやげの製作の道を進みましたが、短い講習期間で有ったために専業の仕事に出来た人は少なかったようです、最初は柔らかなエゴやミズキを使い、後には硬い桜や椿材で彫るようになりました。
東京で仕事をしていた藤井重治は昭和9年に島に戻ると、賑やかになっていた元町登山口で土産物店を開きました。その頃は木村五郎から指導を受けた島人数名が「あんこ人形」を彫っていたので見本を見たり先輩から彫り方を学び、店頭で実演販売をはじめました、バスで山頂まで行ける別なルートが出来るまで三原山登山のお客さんで賑わっていました。登山口を観光のお客さんが歩かなくなると店を港近くに移し、生涯60年かけて「島の女性の働く姿・水汲みの姿を伝えるため」に藤井重治は「あんこ人形」を12万体作りました。
平成9年に90才で永眠、この時点で木村五郎から伝授された「あんこ人形」を作る島人は途絶えました。

重治初期あんこ-45
 藤井重治の初期の人形

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 藤井重治代表作
 

椿の原木を刻んで作る素朴な「手彫りコケシ人形」は昭和24年頃から三原山の茶屋を中心に販売されてきました。

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 いろいろな形の手彫り人形


 この歴史ある「あんこ人形」とかつての良き大島の風俗風習を伝え残す「伊豆大島木村五郎・農民美術資料館(藤井工房併設)」を藤井重治の実子藤井虎雄が平成11年に開設させました。あんこ人形作りに加えて大人から子供まで気軽に2時間でチャレンジできる椿の枝で作る「あんこ丸彫り人形体験教室」を随時行なっています。

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 小学4年生の力作です

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 初めて彫られた大人のあんこ人形作品


また「大島を描いた画家や文人たちの資料」を掘り起こして館内で公開しています、あんこ人形の資料館は         【 大島らしさを後世に伝える場所 】 として存在しています。

資料館ポスター
 資料館のポスター

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有森裕子「夢の懸け橋・伊豆大島」であんこ人形映る
泉津の「おくやま荘」を定宿として現役マラソンランナーだった期間の内の15年通い続け、あれこれ面倒を見てもらった宿のご夫妻と4年ぶりの再会、思い出のマラソン練習コースを紹介、当資料館で「あんこ風俗とあんこ人形の紹介」「有森裕子さんと英国青年のJJさんがあんこ人形彫刻にチャレンジ」、それから「島の毒蛇(まむし)捕獲に遭遇してマムシ酒を飲まされる」「三原山展望台にて」という内容の番組です。元々が海外向けNHKワールドの番組なので(10月に海外では放送済み)レポーター役の二人の会話はすべて英語です、その英語に字幕スーパーをつけて放映されました。

私は10数年「伊豆大島を描いた画家や文人の作品や資料」を有志と一緒に掘り起こしてきました。動機ー何で大島に来たのか やったことーどんな作品を描いたのか、何が気に入ったのか、多くの文人墨客を調べることで何か共通する「伊豆大島の魅力」が浮き彫りになるのではないか、そう思ってやって来ました。
有森さんも今回の旅番組のなかできっと「どうして長く通ってきたのか、何が魅力だったのか」そういう事を語ってくれるのでは、そう期待したのですが、どうだったでしょうか。

有森さんは伊豆大島木村五郎・農民美術資料館(藤井工房併設)にこれまで何度かコーヒーを飲みに来ていただきました。有森さんは「おひさしぶりです」そう言って資料館に入ってきてくれました。「あんこ姿の由来や人形の形」などを紹介、昭和初期の女性の姿の絵葉書や古いあんこ人形、父の作った人形、木村五郎の木彫作品(木村五郎先生の作品がテレビに映るのは初めてだと思います)の紹介。
それから椿の枝を彫刻刀で刻んで作る「あんこ人形木彫り体験」にチャレンジです。まったく初めてのぶっつけ本番ですが上手に作られました。
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 農民美術講習会で彫刻を伝授された島人のあんこ人形

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 私の父・藤井重治の一刀彫あんこ人形

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 彫刻家木村五郎のあんこ人形

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 自作のあんこ人形(右が有森さん、左がJJさん(モデルはジュリアロバーツだと言ってました)

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春に企画展をした「あんこ人形創始者の藤井重丸氏」の人形展示ケースと私が真似して彫った「ずんぐりむっくりのあんこ人形」も映りました。
 短い時間でしたがこうして「あんこ人形」を海外や日本の各地に流していただけたことに感謝です。

あんこ人形創始者再検証
 藤井重丸資料展のガイドブックの中で「初めて見る貴重な資料」を分析してみました、確証を持って言い切れるだけの決め手は少ないのですが、藤井重丸氏の項を閉じるにあたり、もう一度「あんこ人形の創始者―藤井重丸」を聞き取り・伝聞、島の新聞、現存する人形の比較により検証して見ようと思います。

1,聞き取り・伝聞

 私は11年前にこの資料館を建てました。夢を実現させるための第一のハードルは「木村五郎とあんこ人形」についての資料を掘り起こし、充実した資料集を作れるかどうか、ということでした。
 調査で出会った重要な人物が大島元町にお住まいだった山藤登志さんです。山藤さんは木村五郎が定宿にしていた「柳川舘」の親戚筋の方で、宿に出入りして木村五郎と親しく話が出来た顔見知りです、登志さんには版画や木彫りなど木工が得意な兄弟が二人いました。兄の山藤忠は木村五郎が講師をした農民美術講習会に出ました、弟の柳瀬幸雄は講習会で習うことは無かったのですが、家から近かったので会場へ出入りしていたそうです。
 登志さんから「大島で講習会をする前から岡田と元町で人形を彫っていた人がいた」とお聞きしました、元町ではこの兄弟が最初だったのでしょう。現存する「あんこ人形(山藤忠作)」を開館から約1年資料館で展示させていただきました。
 版画家の本多保志さんが「木村五郎とあんこ人形と私」という聞き取り調査の文に「観光が盛んになりはじめた大正の終り頃、大島のみやげは月出商店の絵葉書くらいしかなかった。大正14~15年頃に岡田に藤井重丸という絵描きが住んでいた、重丸さんに杖を彫らせた・・何かおもちゃを作ろうと、今のこけしの様な丸い人形を作ったり木炭人形を作ったりした」という岡田在住の白井潮路さんの話が載っています、白井さんは藤井重丸を支援した一人です。
 ここで分かったことは木村五郎が講習会で彫刻を教える前から大島でおみやげとして「あんこ人形」が作られていたということです。

2,島の新聞の記事

 『島の新聞』は大正末頃から戦前くらいまで一貫して「大島の産業に木工を」と紙面で呼びかけました。農民美術講習会の様子を記事にし、彫刻家木村五郎の「大島に農民美術の生まれたこと」ほか数回木村五郎の寄稿文や大島農民美術組合の牽引役だった大橋清史の組合活動報告を積極的に載せました。
 昭和4年6月には農民美術特集号を企画して日本農民美術研究所山本鼎所長の「農民美術について―趣味は米と同じに生活の糧である」や大島を訪れた二科会会員中川紀元画伯の「木彫り人形を見て」の記事を載せました。
 昭和9年7月号の社説「農民美術組合の作品について」で土産物としてのあんこ人形の価値を評価しています。これだけ熱心に島の木工産業育成に力を注いできた島の新聞が藤井重丸没後の訃報記事で「あんこ人形の創始者藤井重丸」と書き、大島カルタでは「きー木彫りの元祖藤井重丸」と詠んでいます、藤井重丸氏が住んでいた岡田村からあんこ人形が最初に生まれたに違いありません。  


3,あんこ人形の比較

【1】初期のあんこ人形(昭和2~3年頃のものか)
 藤井重丸と柳瀬幸雄の人形(人形にシゲ○、ユキ尾のサインがあるので作者を特定できる)写真①、柳瀬さんは講習会に参加してはいないが実兄が講習会に参加、長く人形を作った島人の一人です。
二人の人形の共通点は、髪の毛とてぬぐいを絵の具で塗り分けている②③、前垂れのひもは絵の具で描かれている①、頭に乗せた水桶には魚の姿や水の青など何らかの彩色がしてある④、足は揃っていて前後に開いてはいない。農民美術という運動とは無関係に、日常見られた大島独特の婦人風俗姿⑤を「純粋なお土産品」として作りはじめたものと思われる。

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  ①右の三体がシゲ○作のあんこ人形、左端は柳瀬幸雄さんの人形

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  ②③髪の毛とてぬぐいを彩色

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  ④水桶のなか、魚や水を彩色

あんこ水くみ
  ⑤普段着の女性の水汲み姿

【2】農民美術あんこ人形(昭和4~5年以降)
 彫刻家木村五郎は人形意匠(姿形)を水汲みと山帰り(山から薪を頭に乗せて帰ってくる姿)⑥に決めて講習会で島人に二体の彫刻技法を伝授した。
 特徴は型紙⑦を使って粗彫りをしていること⑧、前垂れのひもと結び目を彫刻し⑨、束ねた髪の毛も立体的に彫刻で表現している⑩、足を前後に開いている人形⑪が多く見られる。

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  ⑥講習会で彫刻指導されたあんこ人形2体(作者不詳)

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  ⑦水汲み(左)と山帰りの型紙

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  ⑧型紙を転写して粗彫り

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  ⑨前垂れのヒモと結び目を彫刻

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  ⑩束ねた髪の毛を彫刻と彩色で表現

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  ⑪島人のあんこ人形

【3】「青衣の女」
 木村五郎が指導したあんこ人形は水桶と薪の二種類であったが、彫刻家として日本美術院展覧会に作品を出品するために試作した「伊豆大島婦人風俗木彫作品」の姿形の人形も教えたと思われる。「青衣の女」というタイトルで島人は商店に卸して売っていた。左端が木村五郎の作品(大島に現存)、右の5体は受講生の「青衣の女」⑫、それぞれ独自の表現方法で彫りあげている。

大島人のあんこ
  ⑫左端木村五郎の作品、右の5体は受講者の作品

 「木彫の元祖・あんこ人形創始者―藤井重丸」の貴重な資料と現存するあんこ人形は今田さんのご好意により引き続きこの伊豆大島木村五郎・農民美術(あんこ人形)資料館で展示させていただけることになりました。島人のあんこ人形や彫刻家木村五郎の作品と一緒に見ていただきます。
 私は岡田港まで時々行くことが有ります、岡田トンネルの手前に生前藤井重丸氏が暮らした場所(畑)が残っています、「80年も前の草庵跡がはっきりと分かる時間が止まったような空間」を初めて今田保さんと見た時に味わった「驚きとこみ上げてくる感動」が通る度に蘇ります。
 今田保さん、大島でシゲ○さんを探している私を見つけ出し連絡してくれ、貴重な資料を見せていただきありがとうございました、これからもあんこ人形創始者として顕彰して行きたいと思います。
 (新しい発見や資料の掘り起こしなどの動きがあればシゲ○さんについて随時掲載いたします)

「藤井重丸」展の御礼
 2010年8月7日

「藤井重丸」展への御礼の言葉

     藤井重丸の従弟「今田二郎」の子  今田 保

    
その昔、NHKのラジオに「尋ね人の時間」という番組がありました。
第2次世界大戦で行方不明になった人を捜すものでした。その戦争とは全く無縁の話であり、その死もはっきりしていたのですが、「藤井重丸」はまさにその「尋ね人」として、ただ一人応えることができる私に投げかけられたのだと思います。
そして、縁者であり、資料類を多数保存しているということで、その発信者、伊豆大島の藤井虎雄様にご連絡申し上げましてから7カ月が経ちます。その間に「藤井重丸」ゆかりの伊豆大島で「資料展」および「七十七回忌法要」を執り行うことができましたことは、いま振り返りますと、まさに夢のようであります。あの時、忙しさにまぎれて動かなければ何もなかったのです。思い切ってご連絡した甲斐がございました。しかし、これもご縁だと思います。その詳しい経緯のすべては「あんこ人形誕生記」にございますので、改めてこれ以上は述べませんが、資料展にお運び下さった方、インターネットでご覧下さった方、「藤井重丸を実際に見たことがある」とご連絡下さった大島の方、野田浜での法要に立ち会って下さった鈴木ご夫妻、寄せ書きをお贈り下さった大島ご出身の洋画家・中出那智子様ほかには厚く御礼申し上げます。さらにこれは当然のことながら、館長の藤井虎雄様および大島郷土史研究家の時得孝良様のご尽力なくしては不可能なことでございました。合わせて厚く御礼申し上げます。
 縁者といたしましては、これからも「藤井重丸」を末永く語り継いでいきたい、それだけです。今後ともなにとぞよろしくお願い申し上げる次第でございます。

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            今田家所蔵の藤井重丸作「あんこ人形」(高さ5センチ)
                      




資料を読んだ感想いただきました
藤井重丸展を記念して今田さんと二人でまとめた小冊子(ブロク6月6日から25日書き込み分を綴じたもの)を親交のある知人送ったところ、手紙をいただけたのでここで紹介させていただきます。


藤井重丸 さんの資料いただきました。
とても感動的な物語です。藤井さん、今田さんの興奮がよく伝わってきます。
互いに捜していた関係者が偶然に見つかり、その成果は衝撃的でした。
それが奇しくも七十七回忌の年であったことは、木村五郎生誕百年の年に藤井工房が開館したことと合わせ、
願力が故人に通じたように思え、御尊父の霊を含め、藤井さんが故人達に支えられているように思えます。
かなり詳細なことが一度に判明し、藤井重丸さんのルーツが明らかになりました。
おめでとうございます。
大島島民史にも、新たなページを付け加えることになるでしょう。
もし大島で新聞が発行されているならば、連載で島全体に知らせたいですね、興味を持って読んでもらえると思います。
「偶然見つかった」と上に書きましたが、正しくは偶然ではなく、それは藤井さんが常時アンテナを張り、情報キャッチに努力しておられたからです。
「祖母今田キヨの肖像」や「おぢいさん」、「ねこのチビスケ」の絵などもいいですね。
「お節ちゃん」の写真が残っていたのも楽しいことです。彼女がどこのどなただったのか、その後どういう運命を辿ったのか、知りたいですね。

藤井重丸展の新聞記事
7月28日付の七島新聞に記者の方が取材してくれた「藤井重丸展」の記事が載りました。
いつも思うことですが、自分たち当事者は「これで良し」と思いながら事を進めているわけですが、まったくの第3者がこうして企画を記事にしていただけると、やっぱりやってよかった、そう思います。


七島新聞偲ぶ記事

シゲ○さんの資料分析
藤井重丸作品・資料展が終ってから、幾つか分かったり推測してみたことがあります。


大島岡田村に移り住んだシゲ○さんのために草庵を村人が作ってくれた、と「島の新聞」に載っています。シゲ○さんの資料を大事に保管されていた今田保さんに見せていただいたアルバムに草庵前で三人で写した写真が貼ってありました。岡田にお住まいの縁者の方に写真を見ていただいたところ、右端のステテコ姿の方が草庵の建つ土地の当時の所有者の川島市右衛門さんであることが判明しました、大工さんをされていたそうです、きっと川島さんが村の衆に呼びかけてご自身の土地に建てられたのでしょう、シゲ○さんの良き人柄がそうさせたのだろうと思います。(写真真ん中にシゲ○さん、右に川島市右衛門さん、左端の人物は不明)
   草庵


大島が観光地として注目されはじめた昭和の初期にシゲ○さんは大島の版画を売り出しています、大正の末期に来島、芸術家の下地があったのできっと直ぐにはじめたのだと思われます。手許に版画絵葉書があります、昭和5年10月17日付のスタンプが押されています、これでどんなに遅くとも昭和5年までには着手したことが分かります。私は昭和2.3年から「版画絵葉書」や「あんこ人形」を手掛けていたのではないか、証拠の品はまだ入手出来ていませんが、そう推測しています。
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草庵で快適に暮らしていた昭和7年の冬の嵐にあって家は吹き飛ばされて住まいを失い、シゲ○さんは古里の会津若松に一度戻りました。しばらくして終の棲家とする覚悟で大島に戻って来ました、その時は既に結核という病を得ていました。
病気の事情を知った岡田村の人は空いていた家をシゲ○さんに貸してくれたのかもしれません。シゲ○さんが祖母宛に描いた手紙には「大きな家で絵を描いたり食事の支度をするシゲ○さんの姿」が描かれています、このスケッチを初めて見たときには、「画家の願望(こうありたいものだ)が描かせたものだろう」そう思ってみたのですが、今は「実際に二度目の来島後はきっとこの家で最後まで暮らしたのではないか」そう思うようになりました、集落に近く通りに面した家です、日当たりのいい部屋で描いているシゲ○さんを村のご婦人や子供が庭から見ています、村からちょっと離れた一軒家の草庵とは違い、快適で恵まれた晩年だったのではないでしょうか。
   手紙家
「ゑはひ(画かき)さんらい、家でごしょうしてんづらと思えばこうして毎日精出して描いてんだぢえ、こんの」と話しかけてくる、と手紙には書いてあります。
   
   手紙台所



4体目のあんこ人形
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藤井重丸作品・資料展に展示した「あんこ人形」を復元しようと試みた4つめの人形が完成しました。4体のなかでは一番出来がいいように思いますがどうでしょうか。なかなか全体がスリムに成らず顔も体も倍近く太めのまま終らせました、顔はいつも書き慣れている表情にしました、しましたというより、これしか出来ないのが現状です。(左シゲ○作あんこ人形、右「とら○【とらおーと読む】作」あんこ人形)
普段のようにして村を歩く女性の姿をはじめて人形に彫ってみようと閃いた感覚はたいしたものだと思います。
一応の完成を見たので遠路長野からお借りしていた「藤井重丸あんこ人形4体」はようやく所蔵者にお戻しすることができました。
型紙にしてあるので、またいつか彫ってみようと思います。
資料館では9月まで特に企画がないので、せっかく整理して貼りつけたシゲ○さんの資料はそのまま壁に掛けて来館者には見てもらっています。
遅れていますが、七島新聞に資料展の記事が来週載るようです。
シゲ○人形の復元に挑戦
資料を展示中はあまり思わなかったのですが、展示が終っていざお借りした人形をお返しする段になって「長野からお借りした人形にはもう会えないかも知れない」その思いが突如よぎりました、シゲ○さんを思い、追悼の気持ちで私なりの「シゲ○あんこ人形」を作ってみることにしました。
こうしてシゲ○さんの人形と並べて見比べてみると、真似してみたつもりでした、しかし残念ながら別物になってしまいましたが思い出の人形になりました。
追悼をしながらと書きましたが、本当のところは「思うように彫れない、もっとすっすっと早く形にできないものか」そういう邪念が頭いっぱいに広がっていたのでした、無心にならなければこのくらいが精々でしょう。型紙を作ったのでまた挑戦してみたいと思います。(写真の両端がシゲ○人形です、本人は似せて作ったつもりでしたが・・・)
藤井重丸氏のサインは「シゲ○」です、私は藤井虎雄といいます、サインを考えました、「とら○」に決めて書き入れました、世に出回ることはないかと思いますが「とらまる」ではなく「とらおー」と読んでいただければ幸いです。

     とらしげ人形
 
あんこ人形それぞれ
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                初期(昭和10年前後)の藤井重治のあんこ人形

シゲ○さんが永眠された昭和9年に東京で仕事をしていた私の父は大島に戻ってきました、シゲ○さんに会ったことがあるかどうか、証言してくれる人も今はなく確かなことは分かりません。
しかし、帰島後すぐにあんこ人形を作りはじめ三原山登山口に土産物屋を出しています。大島農民美術組合の事務所が父の家の直ぐ隣だったこともあったからでしょうか、農民美術講習会で伝授された島人の人形や講師を勤めた彫刻家木村五郎の作品などを事務所で見て参考にして模倣からのスタートです、その時にシゲ○さんの「あんこ人形」に出会っていたと思われます。

藤井重治(私の父)はそれから60年のあいだ「あんこ人形」を彫り続けて平成9年に90才で旅立ちました。
最初は柔らかいエゴやイヌギリなどで彫って彩色していました、最後にたどり着いたのは「桜材で彩色しない木肌のままの人形」でした。
下の写真の二体は同じ形の「あんこ人形」です、よく見ると右側は八頭身で細身、左は六頭身くらいでふっくらしたバランスでしょうか、明らかに体型が異なります。
これは無意識ながら人形を彫るときにイメージしたモデル、母のその時の体型だったと思います。右は戦後すぐくらいの人形だと思います、父は83才で木彫りのノミは置きましたが、最後の人形(左)はまったく年老いた母そのものです、そうすると、この二つの人形の間には50年という見えない時間が流れているということになります。
父は母がモデルでした、シゲ○さんは誰をモデルに、そして何を考えながら人形を作っていたのでしょう。幼くして行き別れた母親のおもかげでしょうか、岡田村で知り合った「お節ちゃん」でしょうか・・・。

昭和9年に永眠した藤井重丸、昭和9年に大島で人形作りをはじめた藤井重治、二人の名前は一字違いです、今回の展示中に二人の関係は親子ですか、兄弟ですかと聞かれました。


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シゲ○さんのあんこ人形②
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資料展に展示した「あんこ人形」は11体です、これだけの人形が一堂に会すことはもうきっとないでしょう。
今日の3体の背の高さはほぼ同じくらいですが、体型は大分違って見えます、それぞれ心当たりのモデルが岡田村にいたのでしょうか。
頭に乗せている物も異なります、左から「湧水を桶に入れて」「魚の桶」「椿油の一斗缶」です。

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 水桶に入った水は青色で、魚はたらいのような浅い桶に三匹入っています、ツバキ油の缶には椿の花が描かれています


シゲ○さんのあんこ人形
あんこ人形用絵葉書  画像 020
左の写真は昭和初期のものと思われる「大島婦人風俗絵葉書」です、このような格好で村を歩いていました。頭に炭俵を乗せています、右のご婦人は家で使うのでしょう、細い薪を頭に乗せています。
シゲ○さんはこの伊豆大島婦人風俗姿を「あんこ人形」として作って、観光みやげとして販売をはじめました。いつからと、はっきりした年代を特定することは出来ませんが、昭和3~4年頃のことかと思われます。
昭和6年発行『島の新聞』の「大島いろはかるた」の記事の中で【 き 木彫の元祖藤井重丸 】と彫刻家木村五郎が彫刻指導をした農民美術講習会に係わっていた「島の新聞」発行責任者の柳瀬善之助氏は詠んでいます。
藤井重丸展の資料紹介④
 大島に来た大正末から永眠する昭和9年まで、大型客船の就航開始、観光立島として脚光を浴び、港湾・道路・物流・産業の発展など、それはまさに大島の黎明期から新しい時代が一気に開かれたまっただ中で、その発展ぶりを岡田の村でシゲ○さんは活気を実感しながら暮らした筈です。
 シゲ○さんがよくスケッチをした「島娘」は【 あんこさん 】と島では喚ばれ、朝から夕方まで村道を往来して水を汲み運び、舟が着けば魚を運び、乳搾りの牛を引いたりする姿を幾つもの作品にしています、いい版画に仕上げたいと願う気持ち、それはスケッチと版画を並べてみるとよく分かります。

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もう外はくらいのでしょうか、左手に提灯を持ち、頭には魚を入れた桶を乗せて歩く姿です、彫られた文字は「大島節」の一節です。

  「 わたしゃ大島 あらいそ育ち 色の黒いは おやゆづり 】





藤井重丸展の資料紹介③
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藤井重丸作品のうち、大島らしい、シゲ○さんらしい、私が好ましい、と感じた5枚の作品やスケッチをパソコンに取り込んで印刷したものです。
当時横山写真館から発行された「大島風景絵葉書」の袋絵(左の黄色い背景にアンコと三原と牛が描かれたもの)を使ってみました、本当はこの袋には大島名所のモノクロ写真絵葉書が入っていました。一枚を額に入れて飾っても味わいがあり好評で欲しいというお客さんもおりました。
藤井重丸作品・資料展開催を記念して何部か作って工房で販売させて貰えるように今田さんに頼んでみようと思っています。
藤井重丸展の資料紹介②
横長の額に入れて展示、昭和初期の大島の風景とデッサンから版画が出来るまでの流れが分かるように資料を並べました。

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