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『あんこ』は目上の女性を親しみを込めて「おとらあんこ」など名前の下につけて呼びました。今では広く島の娘さんのこと、ちなみに私は男。   連絡メール

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あんこ人形誕生記
昭和初期、伊豆大島に生まれた農民美術「あんこ人形」、 島人に彫刻を指導した彫刻家木村五郎、60年彫り続けた職人の父、人形生誕から資料館を開くまでの回想と資料館の今と未来を記す
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映像で父と再会1
私の父は明治42年に大島生れ昭和9年頃から60年間あんこ人形を彫り続けた職人で、平成9年に90才で永眠した。
白内障や緑内障が進み、物がダブって見えるようになり83才で彫刻は引退したが、90まで隠居家で一人暮らしをしていた。
平成7年、父の米寿の記念に「何か残しておきたい」と思い、手許に残っていたビデオテープを繋ぎ合わせテロップを付けて編集、日頃お世話になっている親戚の方々にも配って現役だった頃の勇姿を見てもらうことにした。
離れ島だが比較的に東京から近くて手軽に取材できることも手伝い、伊豆大島がテレビに取り上げられることが多かった昭和40年から60年代に「あんこ人形の作り手」として父は何度も取材を受けていた。
この貴重な米寿記念テープを迂闊にも何処かへ紛れ込ませてしまって何年も見つけることが出来なかった。ひょんな事から押し入れの奥に有ったのを見つけることができ、さっそく再生してみたところ、管理が悪かったためテープにはカビが生えて、一度目の再生は鮮明だったが二度目には何本ものスジが入るようになってしまった、テープの表面がはがれてしまったらしい。
画像が乱れたテープの話を聞いた親戚が、自宅に保存してあった米寿の記念に配ったビデオテープ(きれいな画像)をタイトルと写真をレイアウトしてDVDに焼いて届けてくれた、これなら原画とまったく遜色がない。写真は昭和30年のお盆に撮影したもので、祖父母と父母、兄二人、一番前に立っているイガグリ頭の少年が当時5才の私。

ビデオテープには、まだ現役で店を開いていた頃にテレビ取材された「レディース4」平成2年(81才)と「みんなの東京」平成4年(83才)の二本で、いずれも父があんこ人形を作りながらインタビューを受ける形式の物だった。
ビデオには黙々と人形を彫っていたイメージとは違って、彫りながら淡々と質問に答える父が映っていた、元気だった父とは久しぶりの再会だった。
 普段はぶっきらぼうで人慣れしない応対をしていた筈の父だが、カメラの前では雄弁で思っていることを自然に話している、ちょっと都会人のような雰囲気も漂っている、そんな風に伝わってきた。
観光地伊豆大島の名産品として「あんこ人形彫刻を店頭で実演する姿」はテレビの絵にもなったので結構取材を受けたと記憶しているが、なかなか自分が思うような紹介の仕方をされず嘆いていた姿も思い出す、この二本は良く撮れていると思う、それだからきっと米寿の記念品にしようと思ったのだろう。
 米寿のビデオには作業中の粗彫りの人形や彫刻の過程が少し映っている、何より驚いたのはノミの切れだ、木槌でノミを叩いていた記憶があるが鉛筆でも削るようにまだ生乾きの大島桜の原木をサクサクと簡単に人形の面を合わせて彫っていた。
 父がもっと若かった昭和60年代に町役場から「あんこ人形を彫る姿と工程をビデオに納めたい」という話が出たことがあった、そのままでたちぎれになってしまって実現しなかったが、今思えば「もっと執念深く企画の催促をしていれば今の苦労はなかったのに」そう反省する毎日だが、その頃は自分自身がまだ彫刻や後継について眼が向いてはいなかったのでしょうがない。
私設の資料館では昭和5年に民俗学者宮本馨太郎が撮影した「伊豆大島」の映像(約10分)を資料館開館後に入手、島の風俗風物を知ることができる貴重な動く資料として希望者に随時放映しているが、米寿記念の映像も「あんこ人形を60年作り続けた証し」として希望が有れば約8分間見て貰いたいと思っている、父の人柄や人形に対する意欲も伝わると思うが、何だか自分から「こっちも見ませんか」とは言えそうもない。
ビデオからdvdへ
 
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  元町港待合所前の店舗(建物は残っているが今は総菜の店になっている)

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展示資料(藤井重治と本)
棚を作って作品を手に取って見てもらえるようにした。父の初期から晩年までのあんこ人形と写真を飾る。初期は昭和10年頃、柔かな材料を使って簡単に彫って彩色している。変化を求めて違う形の人形も作ったようで残っていた。
下の棚には木村五郎や親交のあった芸術家の資料、農民美術や大島の風俗風習の資料、大島の風景を描いた画家の資料などを並べて入館者に見てもらう。
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こけし春秋の記事
1996(平成8)年の横浜こけし会『こけし春秋NO118号』に<木彫アンコ人形との出会い>が書かれていた。
「・・・三原山頂口の広場でバスを降りた私たちは、「歌茶屋」という大きな休憩所で昼食を取ることにした。この歌茶屋はかつてはアンコの唄う大島節や踊りで登山客の疲れを忘れさせたのであろうか。間口いっぱい積み重ねられ、ひろげられた雑多な土産品の中に埃をかぶった木彫人形をみつけた。それは椿の一刀彫りで、水桶を頭の上にササイだアンコの姿がリアルに刻まれていた。一目で気に入り買うことにすると、おかみさんは、この人形はこれでおしまいですよと言って、古い新聞の切抜きを見せてくれた。それには「ノミ細る農民芸術・後継者ついに絶える」の見出しで、作者の藤井重治さんのノミをふるう姿が大きく掲載されていた。・・・(伊豆大島と木彫アンコ人形より抜粋)」
著者を案内した島の女性は木彫家木村五郎が大島を来るようになったきっかけを作った大橋清史の奥さんと縁戚にある方だった。木村五郎の経歴や大島の農民美術の事を知ってたので詳しく説明されていた。
著者は文中で新聞の記事の内容を紹介し、「歌茶屋のおかみさんの言葉のとおり、大島アンコの木彫人形はもうお仕舞いになろうとしている」、そう終りに書いていた。
私は何時の日か「あんこ人形の資料館と工房が大島に出来ました」とこけし愛好者の冊子である「こけし春秋」編集部にお知らせしたいと思いながら、未だ果してはいない。

父の包装紙
父は昭和33年に三原山登山口から元町港近くに店舗を移した。その頃に作ったと思われる包装紙の端切れが一枚あるが、大きなあんこ姿が描かれ、船の舵のマークの中にも「あんこさん」がいる、白いシマシマは太平洋の波を表わしたのかもしれない。
屋号の「御神火堂」波止場支店と印刷されているから登山口と両方の店舗を同時に開いていたのか、もしかしたら船が元町港に着かない日に登山口の自宅店舗に居たのかもしれない。まだ8才くらいの子供だったから記憶にはない。
この模様の包装紙を最後まで使っていた。高校夏休みのアルバイトで手伝った昭和40年代、来島者が多く、目立つ真赤な包装紙を抱えた人が通りすぎるのをよく目にした。
資料館と売店を併設した藤井工房ではどんな包紙が相応しいのか、いつになったら作れるようになるのだろうか。
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包装紙の版画
 父の仕事場には初期の包装紙を印刷した版木が残っていた。子供の頃に黒いインクをローラーで置いてバレンで刷ったことを思い出す。父が自分でデザインして彫ったものだろう。折角だから島の版画家本多氏に頼んで和紙に刷ってもらった。
当時の大島といえば「つばき」「あんこ」「三原山」「牛」「ラクダ」「ふね」「長い黒髪」が観光の代表選手だったようだ。あんこ人形は長野上田で芸術家山本鼎が主宰した「農民美術運動」から生まれた、版画には「御神火堂 大島元町登山口角 椿油と大島乃農民美術」と彫ってある、農民美術という言葉が流通していた証拠の包装紙だ。ラクダが大島の三原山頂の砂漠にやってきたのは昭和6年、戦前までいたようだからこの包装紙の発想はその頃のものだと思われる。
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仕事のすべて展
「藤井重治仕事展」にあれこれ展示したいものが増え、最後には仕事台まで持ちこむことになった。長く使い込んだ仕事台の中心は水一滴のしたたりが岩を削るように丸くへこんでいた。
木村五郎から指導をしてもらった島人が作った人形も展示したかったので、心当たりを訪ね作り手の感性が現れている人形を十点近く飾らせてもらうことが出来た。
住いの一部を展示会場に提供してくれた家主の大西老人(シデ編集長のお父上)にはすっかりお世話になってしまった。何の考えもなしに気軽に展示を頼んでしまったが、大西老人は「預かったものに対して責任があるから」と言って席もはずさず、ずっと会場に座ってくれた。
長野県上田に住むH青年は、大島の古い新聞の切り抜きで「大島に農民美術活動があった」ことを知り、ちょうど大島にやって来ていた。あんこ人形の存在を確認するために郷土資料館へ行ったが何の手掛かりもなく、港へ向う帰り道にたまたま会場の前を通って入ってきた。農民美術運動の主宰者であった山本鼎の周辺の人物を研究されているようだった。「4月から木曽で木工職人の修行をするつもりでいる、その前にあんこ人形を探しに・・」そう話してくれた。農民美術に詳しい人で話しが大いに弾んだが、もし郷土資料館からバスに乗っていればきっと見つけられなかっただろう、この青年をあんこ人形の展示会場へ、そして大島へ誘った力は一体何だったのだろうか。(この青年は帰ってから箱一杯の農民美術資料を貸してくれた、資料は見たが読み洩れが心配で返せず今も借りっぱなし、彼は旧軽銀座通り近くの工房で軽井沢彫の家具作りを今している。)
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作業台とノミ、愛用のコーヒーカップなど

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父が作って貰ったラベル
木彫り人生60年
あんこ人形の姿が作った時代によって微妙に変化していることに気づき、父が一生の仕事とした木彫職人の人形を時代ごとに区分けをして、木村五郎の作品や島人の素朴な人形たちと一緒に展示したいと考えた。
父は前の年の6月に天国に行ってしまっていたので、「父のすべて」を振り返ってみたい、そういう思いもあった。
木彫人生60年を昭和10年頃、昭和30年代、50年代(熟練期)、平成(晩年)の4時代に区分して展示しようとしたが、どれがいつ頃作ったものかはっきり断定ができなかった。父のアルバムを見ると表情や雰囲気から大体写した年代が推定できた。人形も一緒に映っているので大体製作年順に分けることができた。「藤井重治仕事展」は平成10年2月15日から3月1日までギャラリー大西にて開かれた。
20060912122806.jpg①昭和10年頃 
20060912122825.jpg②昭和30年代
P9110002.jpg③昭和50年代 P9110004.jpg P9110008.jpg④平成(晩年)
大島町私蔵文化財展
平成9年1月、大島町教育委員会主催の「大島町私蔵文化財展」に木村五郎の作品と資料、指導を受けた島人たちが作ったあんこ人形が展示されることになった。主催者から父の人形も出品して欲しいという連絡があり、折角の機会だから初期から晩年までの人形を30体ほど並べて見てもらった。父は現役を退き隠居家で静養の毎日でだった、「見に行ってみようか」と誘っても反応はなかった。
文化財展に木村五郎の何が展示され、島の誰の人形が展示されたのか私は覚えていなかった、それがどれほど貴重なものであるのかも知らなかった。木村五郎の作品や資料を用意して展示したのは大西氏と時得氏だった。
私は父のあんこ人形をみんなに見てもらいたい、もう彫ることは止めてしまったが、元気で暮らしていること、父が60年彫り続けた姿を忘れずに思い出してもらいたかった、ただそれだけだった。
(藤井重治の仕事とタイトルをつけて木彫人形と写真パネル、新聞の切抜きなどを展示)
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上は展示した全資料、下はあんこ一刀彫人形

旅立つ
平成9年6月5日の朝、呼んでも応えない父がベッドの中にいた。大きなあんこ人形を二つ持って旅立っていった。母に先立たれて6年近く父はひとりで暮らした、私は母を亡くし今回父を失いこの世に実の親は一人もいなくなってしまった、母の時はそんなに感じなかったが、「親が一人もいない」ということがこんなに淋しいものだとは知らなかった。
私は父の形見分けにと、お世話になった親戚やお世話になった近所の方にお礼の手紙を添えてあんこ人形をもらっていただいた。
『生前中そして四九日まで大変お世話になりありがとうございました。
父は80才を過ぎてから愛妻を亡くし、店を閉め、国立熱海、駒込、広尾と3度の入退院を経験したりと決して順調な晩年では有りませんでしたが、最後まで生きる気力を持ち続けもう一度元気になりたいと思いながら自宅で静かに眠ることができたのは、みなさんの励ましと応援のおかげと感謝しております。
くぼいちのおじさんや深川やくぼごんのおじさん、祖父竹之助、祖母ナヲ、母ゲン、兄竹男らに会って天国でまた人形を彫りはじめるのでしょうか。
父は丸一日店で人形を彫った後で、自宅に戻りお茶を一杯飲んで休むまもなく夕方から暗くなるまで明日の人形の木取りをしていました、よくも飽きずにできたものだと思いながら、そんな父を遠くから見ていた記憶が有ります。何を考えながら彫っていたのでしょうか。
今年の四月の広尾の入院から5月末の診療所治療までの間、父は夢の中で毎日人形を作り続けていました。今日は二個作った、箱にしまっておいてくれと言って満足した表情で夕食の時間まで寝ていました。
夜中に父は寝ているベッドの中で手を空に差し出してしきりに動かしていました。「何をしている?」と聞くと、今日の人形の仕上げをしている、と答えました。満足のいくまで細くなってしまった手を空に向かって動かしていました。家に戻ったら木の香りのする桜の木で枕を作ってくれと言いました。
残念ながら店は閉めてからは、緑内障による視力の低下や物がだぶって見えたりでノミを持つことはありませんでした。もう充分生きたからと覚悟を決め、割り切ったつもりでもいざとなると、何もできなくてももっともっと生きて欲しかったと思います。
お世話になりましたみなさんには父と母の記念に10年から20年以上前に作りました一刀彫をもらっていただければと思います。
この人形はまだ眠っています、父の魂や情熱はまだ木のなかです、そっとタオルか柔かい布で桜の肌をこすってみてください、桜の木目が輝きはじめます。
冗談に「人生90年の感想は」と聞いたら「養子にきたのでまず財産を減らさないように、あいつが継いだのになあと思われないように生活してきた」と答えました。その財産は父の孫たちに援助されてきました。
言いたいこと、したいことをやりとおして満足の一生だと思います。父が生涯で作った人形は15万体以上になります。今手元に残っているあんこ人形は2000体です。
末っ子が縁あって繰り上がりで藤井を継ぐことになりました。継げる仕事が有り、一刀彫が好きでやる意欲のある者はやってみるべきだと思います。まあ定年になってからやってみればと言われながら父のノミの道筋を見てきました。今の大島の状況では跡継ぎがどうのと言える環境にないことは充分に承知していますが、自分としては父が追い求めた木のぬくもりを少しでも再現できればと考えています。
技術的には難しくてもあんこ人形への思い入れは伝えて行けるのではないかと思っています。その時はぜひとも応援をよろしくお願いします』
と書いた。
想い出とお礼の文で良かったはずだが、父を失って余計に思いが募ってきて、押さえきれずに書き入れてしまったのだろう。
何時どんな風にとか何も描き出せてはいなかったが、「いつかやりたいけど無理だろうか、できるのだろうか」そんな揺れる気持が文面に現われている。ずっと忘れていたあいさつ文だが、本当に自分が書いたのだろうか。
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50才代の頃の父
寿命との闘い

島に戻っても父は寝たり起きたりの生活だった。食事は居間でしていたが徐々にベッドから移動できなくなっていた。起きてくることが辛そうなので「今日で最後のお膳での食事にしよう」と言って無理に引っ張り出して二人で夕飯を食べた。本人が元気になるためだと思ってうるさく「あれしろ、これしろ」と言ってきたが、今日で辞める決心をした。退院後は私が隠居家に泊まって夕方から朝まで面倒をみていた、その晩はひとり泣き明かして諦めた。したいようにさせよう、父ではなく赤子に接するような気持で話しかけることにした。
気胸の具合が悪くなって診療所に入院して治療を受けたが、眠りから醒めると「家に帰るぞ」とよく言った。父の兄弟は8人、父を含めて5人が健在だった。もうこれが最後かもしれないと相談したのか、関西に住んでいた妹も呼んで元気な妹たち4人が一緒に見舞いに来てくれると、父はいつもよりしっかりした口調で話していた。
子供時代を大島で一緒に過ごし、家庭を持ってそれぞれの事情を抱え人生を歩んできた兄と妹たち、血のつながり、子供時分の共通の想い出や苦労話がひとつになってとてもほほえましい光景だった。男の兄弟3人は大分前から墓で眠っている。
数日たって、主治医から「病院の治療は終わった、あとは寿命との戦いになる」と宣告を受けて隠居家に戻った。

退院できて・・
平成9年5月、退院の許可が出てその日の昼の航空便に乗った。春の不安定な気候にぶつかってしまい、大島の上空まで来て引き返し、数時間後の便に乗り換えても大島上空を旋回して羽田に戻ってしまった。見慣れた筈の大島は生憎低い雲が覆われてしまって滑走路はまったく見えなかった。
「自然には逆らえない、それが島で暮らす者の定め」と最後に降りるつもりで準備をしていたところ、こっちを見ていたスチュワーデスたちの様子がおかしいことに気がついた。どうしたのかと尋ねると、「大変な思いをして二回も乗ってくれたのに大島に着くことができず申し訳ない」と涙ぐんでいた。私は予想もしなかった二人の言葉を聞いてとても驚いた。正直なところ昼と夜の感覚がなく車椅子移動の父を一晩ホテルで見守ることがどんなに大変なことか、と欠航に直面した時にはそう思った。
もう退院してしまったので病院へは戻れず、その日は空港の近くのホテルに泊まり次の朝便で戻ってきた。年寄りを連れた移動は大変なハンデなのだが、空港でもホテルでもみんなが心配してくれたことが嬉しいような気分で、「折角もう一泊できるのだから美味いものを食べよう」と二人で寿司を食べた。
ほんのちょっとした気遣いが当事者には大きな激励になる、とわかった一日だった。

人の尊厳
何もしないで終日こたつに入ったままの姿は晩年の母の姿とまったく同じだった。そのことを話すと、「何かやろうという気持ちにならない、女房の辛さが判ったよ、動けっていわれても動けないな」と言って笑った。しかし、もう一度元気になって人形を作りたい、明日は元気になれると希望を持ち続け、決して諦めることはしなかった。
 父がデーサービスの利用を始める数ヶ月前から新聞に高齢者の現状を伝えるルポが掲載されていた。「いのち長き時代に」という朝日新聞の長期連載で、『だれもに関わってくることがらとして、高齢社会で起きていることをていねいに報道する。その記事を読んで、若い世代や、今のところはとりあえず関係のない人にも高齢社会を考える取っ掛かりにしてほしいと思ったのです。だからこのシリーズは、「お年寄りの孤独」や「老いてゆく父母への憎愛」といった重くて深くて、答えのないテーマばかり取り上げています。すぐに役立つ情報やノウハウとは、残念ながら無縁の内容です。この本を読んだことが、いつか、その人を勇気づけるかもしれない。やさしく救うことがあるかもしれない。』と前書きされていた。
老人の私生活に深く入り込んだレポートは読み応え十分で、まだ知らない老人世界のいろいろな事例を読みながら父の行動と重ねてみていた。その中の「ふぞろいのごま塩頭たち」は私を強く揺さぶった。
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平成9年7月28日の朝日新聞
バスに乗って行く生活
父は元気な頃、デーサービスの送迎車とすれ違うと、「護送車のようなバスだな」と明らかに「誰が乗っているんだ、俺は乗らないぞ」そんな気持があらわな目線で見ていた。また、ゲートボール場の前を車で通ると「暇人がのんきなもんだ」と集まっている人たちを見てそう言った。「俺は最後まで休むことなく人形を彫り続けるからな」そんなメッセージに聞こえてきた。そんな父がデーサービスで生き甲斐を見つけられるのだろうか、「できたらいいな」とわずかな期待をして見送った。
迎えのバスに乗って朝の九時前に出かけて4時頃にサービスセンターから帰ってきた。感想を聞くと「膝の治療をしてくれない、普通に歩けるようにしてもらいたい」と不満気だったから指導員に様子を聞くと、「年齢から来る老化には現状の維持が精一杯で、本人が望むような効果は期待できない」と言われてしまった。私はそれでも何回か通えば慣れて楽しくなってくれるだろうと期待していた。
4回目の時に、どんな様子か知りたくてサービスセンターに顔を出してみた。利用できる曜日が地区ごとに決まっているので、集まっている年寄りは知った顔ばかり、近所に住んでいる男性もいたので話し相手に不自由はしていないようだった。大多数は簡単なボーリング遊び、数人が紙人形を作っていた。父は知り合いの男性と一緒にソファで好きなタバコを吸っていた。
その夜、父とこれからの話をした。父いわく「歌を唄ったり、ボーリングをしたり、おやつを食べたり、藤井さん、紙細工でも作りましょうねって言うけど、それができるんなら俺は人形を作る、楽しいことは何もない」。振り返れば60年、人形一筋で思うように生きてきた父には苦痛だけの場所だったのだろう。規則正しい生活ができなくても父の思うようにさせよう、とバスに乗ってゆく生活は止めにした。


体内時計の変化
ある夜、いつもの夕食時間になると父は「おはよう」と言って平然と入ってきた。信じられない言葉だった、あんなにしっかりしていた父の老人性の症状に遭遇した最初の出来事だった。
散歩以外にやることもなく、起きて食事、寝て食事の毎日で、朝なのか夜なのか、わからなくなってしまったようだった。
前にも私が仕事から帰る薄暗くなった時間に家の前の道路に立ちつくす父の姿が度々あった。何しているのかと聞くと、「今店を出たけど家に帰る道がわからない」と応えた。長年の習慣で今日も人形を彫っている、そんな錯覚なのだろう、一日の仕事を終えて暗くなったから家に帰ろうと、店だと思って出た隠居家、さて自分の家に帰るにはどう行ったらよいのか、判らない。外の風景が家のそばだとわかっても、考えが及ばないようで、納得できない顔をして家に連れ戻されるうしろ姿は頼りなげだった。
父の変化について在宅サービスセンターに相談すると家庭訪問をしてくれた。
「老人誰もが経験すること、規則正しい生活が解決策だ」というアドバイスを受けて、デーサービスに通うことになった。父はまったく精神面の自覚症状はなく、「歩きにくくなったこと、膝が折れるように曲がってしまうこと」を直すことが当面の関心事だったから、誰かにサービスセンターでリハビリ治療が受けられると聞いて、デーサービスで直してもらおうと思ったのだった。


店を閉める
平成6年、退院後ずっと店は休止したままだったが、思うように視力が回復しないので父(84才)は店を閉める決心をした。父と私の兄夫婦、私の女房と家族会議を開いた時、「父の後継者として人形を彫る仕事をしたい」と私はみんなに話した。が、賛成してくれる者は誰もいなかった。店の権利は父に有るが土地は借地だった。私は地主さんを訪ねて「父から自分に代が変わっても引き続き土地を貸してもらえますか」と聞いてみた。質問に答えて「おやじさんが生きて商売をしているうちはあと百年でも貸します、返してくれとはいわない。しかし自分の息子が料理の修行をしているので、代が変わるなら土地は返してもらいたい」と言われた。今にして思えば変な受け答えだったが、私はその返事で店を続けることは諦めた。
閉店を知らせるためのチラシを作って新聞折り込みにした、文章は父が何度も直しながら自分で考えた。
『昭和三十三年から元町港待合所筋向いで営業を続けてきましたアンコ一刀彫人形の御神火堂は閉店させていただきました。
はじめた頃にはこれと言った大島らしい土産物もなく、島に豊富にある大島桜や椿の木を利用して島の住人が彫るアンコ人形が唯一の品と自負しながら、そして心ある同好の皆様方のご支援をいただき楽しく彫り続けられましたこと誠にありがとうございました。
登山口の店から数えて一刀彫一筋六十年で十二万個の人形を作ることができました。アンコ人形の技術を継承したいという者がいるのはうれしいことですが、一刀彫だけで生活してゆくには厳しい時代です。
店は閉めましたが、気力と体力の続く限りこれからも大島アンコ人形を彫り続けてゆきたいと思っています。
     平成六年  大島町元町登山口 御神火堂 藤井重治 』

アンコ人形の技術を継承したいという者がいるのはうれしいことですが、一刀彫だけで生活してゆくには厳しい時代だ・・気力と体力の続く限り・・・そう書いた、実際にはもう彫れなくなっていたと思うが、まだ彫りたいと願う気持は消えてはいなかった。60年で12万体も人形を作っていたことをこの時に知った。
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36年間通い続けた店の両親(2人とも50代の頃)
父の異変
母が亡くなって一周忌の頃から父は「めしがまずい、胃の具合が変だ」と訴え始めた、検査をすると胃ガンだと診断された。高齢なのでどうしたらいいのかと迷っていたら「うまい飯が食えるようになるなら入院する」と父が決断した。胃潰瘍ということで手術をして胃の大半を切除、大手術だった。無事に退院となって大島に戻ったが、なかなか元のように口に合う食べ物が見つからず、食欲がすっかりなくなってしまった。そんな時、叔母さんや近所の人たちが昔ながらの味を届けてくれて、しだいに食欲が出てきて何でも食べられるようになり元気を取り戻した、みんなが命の恩人になってくれた。
平成5年2月5日付、入院中の父(84才)に宛てた息子(42才)の手紙が引き出しに残っていた。
『入院から二週間がたち、手紙が届く頃には手術の日も決り、まな板の鯉といったところでしょうか。今回は内臓の病気なのでちょっと心配です。胃を半分以上とってしまえば良くなる訳だから体調を整えて当日を迎えて下さい。
隣に住んでいて、毎日家の灯りを見なれていたせいか、真っ暗な家を見るたびに寂しい気持になります。なかなか電気がつかなかったり、早い時間に消灯したり、朝もカーテンがあいてなかったりと、あれこれ居ればいたで心配でした。人の暮らしていない家はとても味気なく冷たい感じがします。この部屋で母が這いずりまわり、その後父親が一人で暮らしてきたのだと思うと涙が出てきます。暑い盛りや寒さによく耐えて店に通えたものだと感心しています。
母と同じようにまさか父親を連れて広尾病院へ行くことになろうとは思ってもいませんでした。妻をなくした打撃の強さは想像できませんが、母の代わりに少しでも役に立てば、気分転換になればと思って一緒に店にいたつもりです。
店主不在の店を三回開けました。一日目に六百円の丸彫人形が売れた時には「やった、買ったぞ」と嬉しい気持になりました。勤めていると金を稼ぐという実感、感触がありません。百円を稼ぐことがどれだけ大変なことか身を持って体験しています。店で木彫りのまねごともしているけどいつもの自分の席でやってます。父親はあの席で毎日何を見て何を考えて彫っていたのだろうか、それを考えるために店を開けているように思います。
人形彫りはいい仕事です、仕事を継がなければ、長男だからとしばられているとは思っていません。高校生で店を手伝っていた頃、昭和五十六年に大島に戻ってきた頃には、意識して人形を見ないようにしてきました。今は一生懸命に木取りの原木を見ていますが、姿はなかなか見えません。
一日も早く元気になって戻ってきてください』

人形作りが仕事であり趣味でもあった父はその後も休むことなく店を開き続けた。彫ること以外で辛い思いをさせたくないと思い、雨や風の強い日には時間を決めて送り迎えするようにした。休日に時間ができると手伝いに出かけた。ずっと無口の職人だと思っていた父は、体調のことや大病からの奇跡的生還を説明するためにどんどん雄弁に、おしゃべりな年寄りになっていった。
物がダブって見えるようになったので父は眼科の検診を受けて、都内の病院で白内障の手術をした。緑内障の症状もあったが、手術で回復する見込みがなく投薬で様子を見ることにした。眼のガラス体が曇ってしまって見えずらい個所があり、その場所が右眼、左眼で異なるため物が正常に見える範囲が狭くなってしまっているのだと説明を受けた。おそらく人形を彫ることにも随分前から支障が出ていたのだろう、「失明したら人形が彫れなくなってしまう」と心配顔だったが、晩年の人形は削った面がきちんと繋がっていない人形になってしまっていた。
 本人が望むような成果が得られないまま大島に戻った、それから一度もノミを握ることはなかった。

父と母は二人三脚
その年(平成2年)の暮れの日曜日、女房が作った昼飯を持って隠居家にゆくと、母が居間にうつ伏せで倒れていた。体は温かかったがすでに意識はなく、かすかにスースーと息が聞えるだけで、呼んでも反応はなかった。私は父を迎えに行き「もう無理だろう」と伝えた。体温があるうちに発見できて良かった、暗くなって帰って来た父が冷たく硬くなってしまった母を父が一人で見つけることになっていたら可哀想だった、私が見つけることが出来てよかった、と思った。
その日から83才の父は一人で生きて行くことになったが、一人になっても仕事は続けた。母が亡くなったのが12月28日だったので、正月が明けてから本葬することになった。
当時の気持を書き綴った妹あての手紙が出されずに残っていた。
『谷あり峠ありの二人旅を振り返ってみれば短くあっという間の歳月でした。十二月二十九日以降の一ヶ月は実に長い息のつまる最大の難所でした。二月一日からは本格的な一人旅の出発です。「おーい」と呼べば即座に何だ、とわかって反応したのに、オゲンと呼んで自分が驚いて、なんだ居ないんだと実にむなしい日が続いて、はかなさが身にこたえる、兄貴がどう乗り切ってきたのかを考えてみたことなかった自分がおぞましい。思考錯誤の真最中で軌道に乗れるまで乗らねばの苦闘の日々です。
頭、体共々八十三才の今日順応出来得ればだが、世の中の出来事と競べれば些細なことでしかないのに、と言い聞かせて足手まといに邪魔気にならないように心がけて、店は細々でも続けて頑張りたいと希っています。支離滅裂御判読のジジイのたわごと聞いてくれる兄妹ありきさ。』
 母の名は「ゲン」、いつもオゲンと呼んでいた、父の兄も長く大島で一人暮らしをして数年前に亡くなっていた。普通であれば葬儀の日に納骨をするが、年末だったので隠居家で父は一月いっぱいお骨と暮らした。
 父のそばにはいつも静かに母がいた、切った枝も洗っていたし、父が彫った人形に遅くまで絵付けもしていた、コタツの中はいつも乾燥中の人形でいっぱいだった。
 (アルバムに残る昭和10年代だと思われる家の前で撮った母「水汲みあんこ姿」、三原登山道元村口という字が見える。「三原山道しるべ」の石柱は今も同じ場所に立っている)
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    昔と今変らぬ「三原山道しるべ」   母は夜なべで人形に彩色

家業を思う
若い時には誰にも一度は家業を避けたいと思う時期があるのではないだろうか、そして近づきたいと思う時も。釣りやテニスに没頭していても家に帰る車の中で「これでいいのかな」そんな風に感じるようになってきたのは大島にUターンしてから10年も経った頃だった。
平成2年、79才になった母は体調を崩し港の店に行かなくなったので、時間がある時には店番のつもりで店に出るようになった。父は一日中人形を実演しながら彫っていた。お客さんが買ってくれた「椿の実」のアクセサリーに父がサービスで名前を彫ったあとにクレヨンで色を付けたり、椿油の瓶詰や人形の包装など結構手伝う事があった。4時過ぎの最終船が出帆するまでいたが、団体客が多かった頃で港はにぎわっていた。「今日は人形がいくつ売れた、油が・・」とその日の報告を母にするのが楽しみだった、母は何とか自力で家事をしながら父が帰るのを待っていた。 
 まもなく、母のひざに腫れ物ができて段々と大きくなった。かさぶたが堅くならずにいつもジメジメしていたので、変だと思って診療所の先生に都内の病院を紹介してもらい受診すると、病気の予備知識が何もないままに「ひざの腫れ物は皮膚ガンです、ガンを取り除き背中の皮膚を移植したとしても、元気で島に戻れる保証はない」と言われてしまった。何故島に戻れないのか、きっと手遅れな状態だったのでだろう、塗り薬だけもらって大島に帰ってきた。
母は「なかなか治らないね」と言いながら貰った軟膏を塗っていたが、足が象のように腫れて、体も顔もむくみ、目はうさぎのように赤く潤んでしまっていた。父は仕事から帰ると、座椅子に座ったままの母を見て、「少しは動けよ」と怒った。母はそう言われてもますます動かなくなってしまっていたが、意識はしっかりしていたので父の話し相手になって暮らしていた。
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 人形を彫る父、母は真中で売り子を 桟橋が人で溢れた頃
新聞の記事(父の仕事)
 大島高校で3年学び、当時は受ければほとんど受かった地方公務員の採用試験に合格、大島航路の船が発着する竹芝桟橋がある港区、大島に行くのに便利だろうという単純な理由で港区役所を就職先に選んだ。
 18才で上京23才で結婚、伴侶は地元の高校のひとつ後輩、小さなアパートを借りて共稼ぎ、怖いものなしの青春時代を東京で過ごした。
 ようやく都会暮らしにも慣れた5年目の冬、昭和49年12月28日の朝日新聞に「ノミ先細る農民芸術―後継者ついに絶える、孤塁を守る藤井さん」の見出しで父の仕事ぶりが紹介された。
『昭和ヒトケタの伊豆大島観光の夜明けから、ブームの今日まで、四十年の歴史を刻んできた農民芸術「一刀彫りアンコ人形」の技術が絶えようとしている。いま、ひとり孤塁を守る老彫刻師藤井重治さん(六十五才)は、「体の動く限りは彫りつづけて、島の農民芸術のよさを残しておきたい」と、細々ながら、名人芸のさえたノミさばきを見せている。
大島が観光地として産声をあげた昭和五年、島の青年の間に農民芸術運動が盛り上がった。当時も、不況だった。暗い世相のなかで、製作の喜びを味わいながら、しかも観光のみやげとして収入につながるものということで、働く島娘(アンコ)を表現した一刀彫りの人形が選ばれた。
ノミを持ったこともない青年たちは、彫刻家の指導を受けると、寝食を忘れて習作に励んだ。材料は島にふんだんに自生しているツバキ、オオシマザクラ、イヌギリなど。それぞれ特徴のある木目を生かした白木づくりで、オケを頭に乗せ水を運ぶアンコやマキを乗せて家路をたどる姿を、粗いタッチで表した素朴で力強い農民の芸術品が生まれた。
自信を持った青年たちは、農民美術生産組合を結成、みやげもの屋に頼んで売ってもらった。観光客からは「飾り気のない民芸品」として好評だった。
しかし、やがて戦争となり、島も観光どころではなくなってしまった。青年たちは畑へ戻り、あるいは工場へと転進していった。藤井さんも村役場へ就職、暗い日がつづいた。
戦後、観光大島は復活した。藤井さんは村役場を退職すると、再び彫刻師としての道を歩みはじめた。が、かつての仲間は戻らなかった。元町港の近くに小さな店を開くと、コツコツと彫り、店先にそっと並べた。アンコ人形は再び、地味ながら根強い人気を得た。若い娘も、老夫婦も、心をこめた藤井さんの作品を買い求め、大島旅行の記念にした。これまでに大小あわせて、十万個は彫っただろうという。
しかし、このアンコ人形制作も、藤井さん限りだ。木彫りの手ほどきを受けようという若い人もなく、また、藤井さんもすすめたくないという。「昔三十銭だった人形が、いまは千円もする。ばかげた時代になったものです。私たちが作り出した民芸品が、私限りで消えてしまうのはさみしい。後継者がほしいとも思う。が、これから先、どうなるかわからない世の中、なんの保証もない彫刻師になれと、若い人にすすめられますか。私の二人の息子もサラリーマンになりました。」

 指導をした彫刻家は木村五郎、最後の二人の息子は私と兄のこと、大島出身の記者が取材してくれたのだったが、このような形で新聞に紹介されたのは初めてだった。

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酷暑の出来事(夏)
私は小学生の時には藤井家の三男だったが、すぐ上の兄が縁戚の家系を継ぐことになって、苗字が変わった。養子に行った家には子供がなく、その家や土地を受け継いでゆくためで、母方の血筋にあたる家だった。私にも養子の資格は有ったのだがどういう訳か兄が選ばれた、兄が高校に上がる直前だったことを考えると、養子縁組をその時期に合わせたのではなかったか。
そんな兄弟の関係が崩れて私が長男になってしまったのは、それから数年経った中学一年の夏、その夏は特別に暑い夏だった。隣町の浜で友達と泳ぎ、四時頃バスに乗って帰ってくると、家に大勢集まっていた。その光景は今も眩しく目に焼き付いている。
一番上の兄は東京で働いていたが、その日の昼頃に三鷹の電信柱に登って配線の仕事をしていてコンクリートの電柱が倒れて兄は電柱の下敷きになり、命綱を付けていたので逃げることができなかった。父と母と養子になって苗字が変ったが一緒に住んでいた次兄の三人は死んでしまった長兄を迎えに伊豆半島行きの船に乗ってしまってもういなかった。船の時間までに帰ってこなかった私は一人大島に残されてしまった、もう乗れる船はなく大島から出ることはできず、遊びつかれた疲労感と我が家に起こってしまった出来事を思い、一人になってしまった不安と心細さでいっぱいだった。
夜になって父から電話が入り、おばさんがいろんな打ち合わせをした。最後に「トラオもそっちにやるから」とおばさんが言ってくれた。「何もできなくても早くみんなのそばに行きたい」そう思っていたが、おばさんが察して助言してくれたのだった。
翌日、江ノ島行きの船に乗って暗くなる前に線香がいっぱいの棺の前にたどり着いた。元町大火からまだ6ヶ月で復興の真っ最中、三男だった私が繰り上がって長男になってしまった夏の出来事だった。
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東京の祭壇(享年22・勲八等瑞宝章授章)
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葬列は復興中の元町の焼け跡をぬって進む
 



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