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『あんこ』は目上の女性を親しみを込めて「おとらあんこ」など名前の下につけて呼びました。今では広く島の娘さんのこと、ちなみに私は男。   連絡メール

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あんこ人形誕生記
昭和初期、伊豆大島に生まれた農民美術「あんこ人形」、 島人に彫刻を指導した彫刻家木村五郎、60年彫り続けた職人の父、人形生誕から資料館を開くまでの回想と資料館の今と未来を記す
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観音像の行き先
 市川家にずっと収蔵されていた「観音像、直に見たわけではないが写真で紹介した聖観音像(多分)」はお住まいから婦選会館へ移されて収蔵されている、そういうお話をお聞きしました。
 展示されているかどうか分かりませんが、木村五郎との交流の証しとしてずっと伝えて行ってもらいたいものです。
 今回本文は転記しませんでしたが、婦選昭和10年9月号にお別れの手記「木村五郎氏の訃」を市川房枝氏は書いています。

 (木村五郎・あんこ人形・農民美術・大島の風景などに関する新しい資料などの発掘が有ったとき に随時紹介してゆきたいと思います)
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五郎胸像未完
 伊豆大島木村五郎研究会が企画・資料提供して千田敬一氏(元碌山美術館学芸員・日本近代彫刻史研究家)に執筆していただき出版することができた『「これは彫刻になっております」木村五郎の彫刻とその生涯』の中で著者は市川房枝の胸像について「五郎の女人恋慕」の項で触れている。

・・彫刻家五郎には、信念に燃えて仕事をする市川さんが本当に生き生きした美人に見えたのでしょう。むろん、市川さんに惹かれるものがあってのことでしょうが、それを表に出す自信が無かったと思います。・・五郎には市川さんの人格が彫刻に十分に表れていると思えなかったのでしょう。
五郎は何故市川さんの胸像を完成できなかったのでしょう。もし完成していれば、五郎の作品のなかで重要な位置を占めるものになったと思われます。・・五郎は最初、市川さんの大きな人格と溌剌とした姿のなかに、自分を包んでくれる母性があると勘違いしていたのかもしれません。ところが肖像を作っているうちに市川さんは尊敬できる女性であるが、自分の求めるような個人的な幸せに埋没できる人でないことがわかってきます。そして自分の作品が、市川さんの大きな人格や、世間の不条理と戦う市川さんの姿を表現していないことに気付いたのでしょう。自分の未熟を知った五郎は、作品を壊さざるを得なかったと思います。作品を壊して市川さんの前を去るとき「淋しくなります」と言った五郎の胸中は、何時か市川さんに相応しい人間になります、いま近くに居る資格のない自分が淋しいという気持ちで一杯であったと思われます。

 ・・市川さんの所には、五郎の昭和6年作のレリーフ【聖観音】が一点あったそうです。柱にでも掛けてあったのでしょうか、市川さんの養女が埃を被ったまま掃除をしないで放置しておいたところ、市川さんが珍しく激怒したという逸話が残っています。市川さんは、五郎との親交を振り返って「恋といえるかどうか・・・」と回想しています。・・


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市川房枝ご一行の「大島紀行」
 彫刻家木村五郎に関する資料は極端に少ない、現存する作品もわずか、公的機関で所蔵する作品はほとんどない、それは一流に届かずに生涯を終えたという証明になってしまうのであろうか。
木村五郎には子どもはなかった、没後夫人は主だった作品を売って処分したのであろうか、ご遺族が所蔵してきた作品は「石膏像」「ブロンズ像」や「未完成の作品」「習作」など10数点に過ぎない。 足跡をたどる調査はほぼ行き詰まってしまっているが、10年も前に手掛かりだけ掴んでいた「市川房枝との接点と大島繋がり」に関する貴重な資料を郷土研究家樋口秀司先生【伊豆大島ふるさと文庫主】に先日見せていただいた。

 月刊機関誌「婦選昭和6年6月号」(木村五郎装丁)に関係者が慰安で訪れた伊豆大島の記事が載っている。「大島紀行」といタイトルで市川房枝・武知美与子・児玉勝子・金子しげり・高田まつよ・宮川静枝・鈴木すみ、七名の参加者たちが島の印象を各々綴っている。「機関誌・本部の日誌より」の項に大島行きの旅程が書かれているので転記してみる。

昭和6年5月10日  事務所の一同、大島へ行ける事になり、午後十時、霊岸島からたちばな丸で出帆する。

昭和6年5月11日  大島滞在

昭和6年5月12日  早朝の船で下田に廻り夜帰京の予定のところ、ひどい嵐で、遂に一日島流しになる。東京の事も気になりながら、船が出ないのには手の下し様もなし。これは不可抗力だからと、自らに言いきかせて落ちつく。

昭和6年5月13日  今日は船は出そうもない。半分は自暴自棄で投げ出してかかっていたが難航を覚悟で、船は下田を出たとの報に、急遽かえり支度をととのえる。大島を出たのが三時、東京迄十時間はかかろうとのこと。それでも案外早く、十一時に霊岸島に無事帰りつくことが出来た。

 3泊4日の旅の顛末が「大島紀行」に記されている、一行を案内したのは木村五郎の親戚にあたる大橋清氏であった、標題のカットは木村五郎の「元村小学生」、弁当箱一つ、風呂敷包みでも何でも頭に乗せて運ぶ当時の島の暮らしぶりが描かれている。昭和8年に大島風俗木彫作品に仕上げて第20回日本美術院展に【「通学の少女」(大島風俗)】として発表している。

市川房枝は文の最後をこう結んでいる。
 『この旅、天候にはいささか恵まれなかったものの、島の印象は寧ろ雨で優ったともいえよう。とにかく一同声を揃えて「又も行きたやあの大島へー」と唄っている』


     婦選大島紀行

        五郎こども版画     tuu.jpg




彫刻家木村五郎と市川房枝の接点
『市川房枝自伝・戦前編』 (新宿書房)から抜粋

 新団体(婦人参政権獲得期成同盟)の最初の対外的な運動は、大正十四年一月十七日、神田のキリスト教青年会館で開いた、「第一回婦選獲得演説会」で、奥むめお、桜井ちか、坂本真琴、平田のぶ、久布白落実氏らと、私も加わって「婦選運動の婦人運動における地位」について講演した。
 ところがこのあと、講演会を聞きに来ていたという若い彫刻家から、モデルになってくれないかと申し込まれた。その人は美術院会員の木村五郎氏であった。二月のある寒い日の夕方、琴平町の事務所で、黒いマントを着たまだ二十五、六歳と思われるご本人に面会、ストーブにあたりながら話した。日曜ならと承諾。それから毎日曜の午前中、ときには午後まで、兄の家の応接間でモデルになった。しかし、その日曜も講演などでぬけるので、夏近くなってもできあがらなかった。スーツで椅子に掛けているポーズだったが、だんだん暑くなってきた。木村さんはそれに気づいたのか、また作品に不満だったのか、「首だけにしましょう」と、みている前で無造作につぶしてしまった。ところがその首も、一応でき上がったがこれまた気に入らぬとこわしてしまい、ついに作品は何も残らなかった。やめたとき、彼は「淋しくなります」と言った。
 このモデルになっている最中、『婦人公論』三月誌上に、山田わか、金子しげり、平塚らいてう、守屋東、石原修、為藤五郎氏らの「人物評論・婦人参政権運動の陣頭に立てる市川房枝女史」が載った。これを木村さんが読んだとみえて「僕なら『市川房枝美人論』を書いたでしょうに」と言った。そのころまで、私は美人だなどといわれたことは一度もなかった。七十歳を越してから、脚がきれいだとか、昔は美人だったでしょう、といってくれる人があるが、「ツー・レート。遅すぎる!」と笑って答える次第である。
 木村五郎氏はこうした縁で気安く機関誌の表紙やカットを無料で書いてもらったが、その後結婚して、数年後に亡くなってしまった。


 彫刻家木村五郎の足跡を調査していた「伊豆大島木村五郎研究会」は自伝にある交流の証しを求めて平成10年12月に婦選会館を訪ねた。
 当時木村五郎が装丁を担当した雑誌「婦選」を数冊、葉書、寄せ書きなどの資料を見せていただいた、昭和5年から永眠する昭和10年までずっと関わっていた。
 市川房枝の「婦選」発行は昭和2年から16年まで続いた、 写真は木村五郎が亡くなる直前の昭和10年1月号表紙とカットの版画切り貼り、市川さんの前に現われた時と同じような五郎黒マント姿がアルバムに残っています。

婦選版画

        五郎黒マント


    
宇治人形と農民美術のつながり
京都で行われていた「宇治人形」の企画展が12月15日で終了した。
パンフレットを送っていただけたので、大体の展示の様子は分かっていたが、展覧会図録を作るようだったので、農民美術宇治茶摘人形と宇治人形がどう関連づけられているのか、楽しみにしていたのだが、諸事情のために図録販売延期する、という通知が昨日届いた。
いろんな事情があるのだろう、来年の着手を待つことにしよう。
最近目にした「農民美術」の活字は
   中村実著 「信州の木彫り 農民美術とともに」
   遠藤三恵子著 「ロシアの農民美術」

京都宇治の茶の木人形展
「郷土玩具」と呼ばれるものには木や粘土や紙で郷土色溢れるいろんな形のものがある。各々の分類の境界線が何処にあるのか判らないが、京都の花園大学歴史博物館で秋季企画展「宇治人形―知られざる茶の木人形の世界」が行われている。
茶の木人形は江戸後期に創始された根付人形で、衰退を繰り返し今に至っているようだ。ちょうど下火になっていたと思われる昭和2年2月に農民美術講習会が京都宇治白川で開催されている、その時の講習会の講師が彫刻家木村五郎だった。
根付人形は固いお茶の木を彫ったものだが、農民美術講習会の人形は彫りやすい柔らかな朴の木が使われて宇治の名物である茶摘み娘の姿が人形になっている。
根付人形は堅くて精巧、どちらかというと高価な人形だったが、農民美術講習会では「針刺し」や「楊子入れ」にもなる実用的な人形であった。講習会で指導された人形は木村五郎が考えたものだと言われている。
農民美術運動最盛期の大正中期から昭和初期にかけて全国で80を越す農民美術生産組合が結成されて様々なその土地の名物や風物が生み出されている。各地の取り組みについて詳しくはないが、木村五郎が講師をした4つの組合を見ても、ただ何もない土地で急に講習会が行われた訳ではなく、宇治のように「茶の木人形」という歴史を持つ土地や、秋田大湯のように「彫刻に必要なノミや道具が簡単に手配できた環境」、また伊豆大島のように「彫刻に適した材料が豊富にあって観光が盛んになってお土産品にしたい」そう熱望する土地で盛んに講習会が行われたのだろうと思う。
茶の木人形は『宇治人形』と呼ばれている、展示の中味は「茶の木人形の誕生」「宇治人形の展開」「様々な茶摘み人形」の3本柱で、二番目の展開の部分で「宇治における農民美術講習会を取り上げる予定」と関係者からお聞きした。今では活字で「農民美術」が取り上げてもらえる機会は少ない、まして彫刻家木村五郎が講師を務めた「宇治の講習会」となればなおさら私には興味深い。
これまでほとんど判らなかった「宇治の講習会」がどのように解説されているのだろうか、会期中に資料をいただければ、そうお願いしてあるので、いずれ送って貰える筈だ。
「郷土玩具」とは概ね【その土地の生活や風俗、信仰などに結びつきながら作られたおもちゃや人形のことです。形や色、材料、大きさは様々できちんとした定義はありませんが、地域の産物を用いて人や動物などに模られた作品のこと】とパソコンを検索してみると出てくる。
宇治人形や農民美術運動の中で生み出された「もの」は何処に分類されるのであろうか、未だ判らない。

花園大学歴史博物館 2007年度秋期企画展 宇治人形-知られざる茶の木人形の世界-

開催趣旨(主催者)
洛南宇治の地に、茶の木を素材とする茶摘み姿の女性の根付人形のあることはあまり知られていません。現在では生産量も少ない観光客向けの宇治土産ですが、往時には皇室や大名などに縁起物として愛玩されるほどの工芸品でもありました。そこで今では地元の人にもあまり知られていない宇治人形の特別展覧会を開催し、素晴らしい宇治人形の世界を紹介いたします。
茶の木人形は、江戸時代後期に御袋茶師上林牛加こと上林清泉により創始された茶摘女姿をした根付人形です。その技は二代上林楽之軒によって受け継がれ、その礎が築かれました。楽之軒が亡くなると宇治人形の技は途絶えてしまいますが、その技を受け継ごうと模刻するものが後を絶たず、代表的な作者として上林其楽や岡村楽山などがあげられます。大正から戦前にかけて技を磨いた楽山は皇后陛下のお買い上げを賜るほどの技を持っておりました。また昭和2(1927)年には、日本美術院の木村五郎を講師として宇治白川で講習会が行われ、桂楽峯などの名匠も輩出されました。第二次世界大戦の混乱により制作も中断されてしまいましたが、戦後は蜷川静山などにより継承されています。
 そこで本展では、宇治人形の作者の系譜をあきらかにしその名品を展観するとともに、八百年の歴史を有する宇治茶の功徳や幸福を招く縁起物としての宇治人形の側面にまで迫ります。
 本展が、宇治人形の魅力を再認識するきっかけになれば幸いです。
     
会  期 2007年10月22日(月)~2007年12月15日(土)(8週間)
       ※日曜・祝日・全学休講日は休館

会  場  花園大学歴史博物館 第2展示室

開館時間  10:00~16:00(土曜日は14:00まで)

入 場 料  無料
       

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木村五郎意匠による「宇治茶摘人形」昭和2年桂甚一作




テーマ:展示会、イベントの情報 - ジャンル:学問・文化・芸術

五郎さんの菩提寺へ
 何をするにしても「木村五郎のしっかりした資料を探し出すこと」、それが木村五郎研究会の大きな目標だった。当時私は大島で地方公務員として働いていた、時々休みをもらって調査に出掛けて職場を留守にしたので、どんな事を調べているのか、知ってもらいたくて資料を見てもらったりした。
 行かねばならない場所は、農民美術発祥の地である長野の上田、弟子入りを志願した彫刻家が暮す新潟三条、先輩彫刻家の生家がある富山福光そして都内の美術館や資料収集の研究所などだった。すべてがはじめての取材だったので、今から思えばもっとこうすれば、あれも見ておけば、そう反省する事もあるが、あの時はあれで精一杯だった。
 これまで初対面の場所にどれだけの照会書を書き送ったことか、まったく何の反応もない所、何もなくても「期待してますから、とか、何か見つかれば送ります」と返事をくれる人、「自分は知らないが、あそこならどうか」そう教えてくれた人もいた。
 資料の調査は順調だったが、五郎さんのご家族の消息の手がかりはなく、僅かなヒントは、昭和12年に出版された木村五郎作品集(遺作集)の年譜に「小石川大泉寺に葬る、戒名は教法院聞譽即悟信士」という記述だった。
 せっぱ詰ってお寺さんへ資料を添えて長い手紙を出した。その下書きはもう残ってはいないが、「こういう著名な彫刻家がそちらに埋葬されているらしいが、お墓の面倒を見ている人を教えてもらえないだろうか」と、ご住職は彫刻家のことは何もご存じではなかったが、故人顕彰の目的を理解していただき、ようやく縁者の方の連絡先を知ったのは平成10年の夏の終りだった。それから一番縁の深い木村五郎の義妹(五郎の弟の嫁)にあたる木村芳子(当時85才)さんを紹介していただいた。
 はじめて小金井市のご自宅に伺ったのが10月、その時に同席していただいた方が五郎さんの甥っ子の鈴木明さん(露語翻訳家)だった。明さんはその後、ウクライナのダビッド・ブルリュークの大島滞在中の紀行記「大島」や小笠原に渡ったブルリュークやチェコのフィアラが書いた紀行記を翻訳され自費出版されている。
 芳子叔母さんは結婚後しばらく五郎さんとも一緒に暮していたので、「兄さん、兄さん」と呼んでいろんな思い出話をしてくれた、親戚筋が所蔵している五郎作品を借りてきて見せてもくれた。木村の本家は今も江東区新木場にある、「建熊」という建具職人の工房で芳子叔母さんの息子さんが家業を引継いで居る、最近は大相撲の行司軍配を作れる最後の職人としてマスコミに登場している。その実家にわざわざ行かれてタンスの奥から昔見た記憶のある五郎さん本人が貼った貴重なアルバムを2冊探し出してきてくれた。資料館の開館の時にはご家族8人でお祝いに駆けつけてくれた。行ったり来たりでもう10回以上お会いして、お寿司とお酒をご馳走になり五郎さんの思い出を語ってもらった。
はじめてお会いしてからもう9年、足が痛いという以外は声にも張りがあってずっとお元気だった。資料館の10周年の区切りにはまた大島に来ていただきたいと願ってきたが、残念ながら3ヶ月あまりの闘病生活の末に平成19年9月1日94才で永眠されてしまった。
 入院されたと聞き7月初旬にお見舞いに行ったのだが、難しい病気だと聞かされた。「涼しくなったらまたお家でお寿司をご馳走してくださいね」そう言って別れてきた。
 五郎さん手掛かりとなった縁者を紹介してくれた木村家菩提寺の「大泉寺」で9月3日、お世話になった芳子叔母さんの告別式が行われた。記録ずくめの今年の猛暑がお寺にも残っていた、斎場から戻った夕方のお寺はセミ時雨に被われていた、芳子叔母さんは7人の子供とその家族、玄孫までいれると100人を越す大家族に恵まれ、幸せな晩年を過されていた。
 五郎さんは昭和10年8月1日に急逝、告別式は8月3日だった、奥さんはいたが子供には恵まれなかった。彫刻の師匠格の石井鶴三や日本美術院同人の宮本重良、喜多武四郎らにこのお寺で見送られたのだろう、そんな事を思いながら、「おばさん 五郎さんに会ったら大島の資料館のこと話してくださいね」と焼香してきた。
 集められた五郎さんの資料を本にすることは何とか出来たかも知れないが、芳子おばさんに出会っていなかったら資料館を作り上げることは出来なかったに違いない、叔母さんは大島に木村五郎資料館が出来たことをとても喜んでくれた。
 今は休刊になっているが、季刊誌として19号まで発行された大島の文化通信『シデ』(平成9年8月第6号)まだ本格的な調査に至らない時期だったが、『シデ』大西編集長は編集後記にこう書いている。
「・・・『木村五郎のすべて』の発行の準備は遅々としてはいるが着実に進んでいる。今は、関係の資料を網羅するだけでは面白くないので、ドキュメンタリーというかノンフィクションのようなものにしようかどうか悩んでいる。ただそれには、この夭折の彫刻家の資料は少なすぎる。『青春の悩みありて越後路を旅する』だけとってみても謎なのだ。・・・
・・・その実体に少しでも迫りたい思いで、彼が眠る墓地を尋ねてみたが答えは何もなかった。・・・これも何かの縁と、私は辺りをきれいに掃き、墓石を洗い、線香と花を手向け、手を合わせた。帰りがけに足下へ栗の実がひとつ落ちてきた。まだ充分には実にいっていない若い青い栗の実だった。その栗の実を拾って私はもう一度さっきの墓にもどって、それを供えた。まだ充分に実らないまま落ちてきた栗の実と若すぎた五郎の死が、私の目の中でオーバーラップしていた。・・・」
 
 芳子おばさんの戒名は秋月寿芳大姉、いづれ五郎さんと同じお墓に納骨されるだろう。
  
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  昭和10年木村五郎の葬儀(大泉寺にて) 彫刻作品が数点飾られた

木村五郎の評伝記⑤
 木村五郎の本を書いてもらった美術史家が暮らす長野の新聞に記事が載った。(長野市民タイムス平成17年7月31日号)

不遇の彫刻家・木村五郎に光  美術史家・千田敬一さんが評伝 木彫を身近なものに感じさせ、表現の幅を広げたにもかかわらず、民芸品や土産物扱いされ、不遇の一生を終えた彫刻家・木村五郎(1899-1935)に光を当てた評伝『「これは彫刻になっております」-木村五郎の彫刻とその生涯』がこのほど、星雲社から出版された。
 著者は穂高町有明の美術史家・千田敬一さん(57)。日本美術院彫塑部の系譜に連なる古藤正雄、松原松造ら無名彫刻家を調べ、評価し、著している千田さんならではの大きな成果だ。
 五郎の数奇(すうき)な生い立ちに始まり、関東大震災と窮乏、農民美術の普及に信州などに出向いたころ、再興日本美術院彫塑部同人時代、大島あんこ人形の製作、突然死まで克明に迫った。
 千田さんは、五郎は関東大震災から日中戦争に至る、彫刻で生活するには非常に厳しい時代に生きねばならなかったとし、彼が書いた本を読むと、造形論をきちんと持っていたと見る。
 だから高村光太郎などは認めていたのだが、一般には各地の風俗をモデルにし、土産品と形が似ているという理由で、真面目な彫刻ではないとされた。
千田さんは大島で五郎を研究し、顕彰する人たちの思いをくみつつ、美術史の流れを踏まえて正当に五郎を評価した。
 五郎の仕事は▽木彫りの新たな可能性を示した▽農民美術の講習会などで木彫の普及に努めた▽美術家の副業としての手工芸の発展に尽くしたーの三つが挙げられると記し、「現代ならアートとして通るものが、通らなかった。当時彫刻と言われるものを造ろうと思えばいくらでも造れたが、そうせず、身を持って表現した作家だったと思う」と話している。
A5判、223ページ 2000円 問い合わせは伊豆大島木村五郎研究会(電話04992・2・1628)へ

 
私が千田さんと知り合うことが出来たのは彼が彫刻家荻原守衛の作品や近代日本の彫刻の系譜を研究する碌山美術館の学芸員だったからだ、こうして本の執筆をお願いできたのは碌山美術館の学芸員を辞し美術史家として歩まれていたからだと思う、もしあのまま美術館の学芸員だったら受けて貰えなかっただろうし、こちらも頼まなかっただろう、この本は生み出される運命にあった本なのだと思う。
 この本は一般書店に流通させるルートで出版社が配本の管理してくれているが、委託期間は2年間(平成19年6月まで)という契約だ。契約が切れると残った在庫の本はすべて手元に戻ってくる。そうなればもうこの本を買求めてもらえる窓口はこの資料館しかなくなる。


木村五郎の評伝記④
 平成17年6月、できあがったばかりの本を読んでもらいたい人に送った、早速大島出身の画家中出那智子氏から手紙をいただいた。

 『今まで解らなかった彫刻家木村五郎に就いて書かれたこの本は誠に要領を得ていて一度にすべてのことがわかりました。本全体の装丁、千田さんに執筆を頼んだいきさつ、その他「これは彫刻になっております」という面白い題名、表紙カバーのデザイン、口絵写真、本文中の数々の作品写真、大島に関する写真、何も彼もすべて驚きと関心を以って見ました。論点の彫刻と非彫刻については、とても興味深く読みました。高村光太郎と石井鶴三に彫刻として認められています。読者にとっても一番知りたいことはこのことでしょう。昭和6、7年頃の作品はみな素晴らしく大好きなものばかりです。藤井虎雄さんが、どうしてこれ程木村五郎に対して情熱を持つのかわからなかったのですが、この本を読んですべてがわかりました。父上が木村五郎から彫刻を教わったこと、父上が一途にあんこ人形を彫り続けて二千体遺されていたこと、亡くなる一年前頃より虎雄さんが、彫る父の工房であるみやげ物店に行っていたこと、そして自分も父上亡きあと、その遺志をついで、仕事をやろうとしたことなどの事情があって、こつこつと資料集めをしたことなど、それらが今こうやって立派な本になり世に出ることは、本当に嬉しいことです。 
 この本は彫刻家にとってはとても面白い本です。特に第一章の最後に書かれた「その純粋で不器用な生き方は、時を経ても風化しない不思議な魅力を持っています」という箇所は、ピッタリ木村五郎の魅力を適確に言い切っていると思います。』 

 こういう風に読んでいただけると何も言うことはない、苦労する著者をサポートしながら完成にこぎつけ、こうやって本を出せた喜びは、倍増してくる。

木村五郎の評伝記③
五郎さんの本の中味は 我々が知りたいと願っていたことをほぼ網羅する組立になっていた。
  第1章 彫刻と非彫刻  
 第2章 漫彫は、浪漫彫刻、漫画彫刻?  
 第3章 数奇な生い立ち  
  第4章 師匠を求めて―山本瑞雲から石井鶴三へ  
  第5章 五郎、日本美術院の研究会員になる  
  第6章 再興日本美術院研究所時代  
 第7章 関東大震災と窮乏時代  
 第8章 再興日本美術院々友になる  
 第9章 『木彫技法』、『木彫作程』の刊行 
 第10章 『木彫の技法』「彫塑私観」から 
 第11章 『木彫作程』「彫塑の芸術相」から  
 第12章 『木彫の技法』『木彫作程』の彫刻の諸要素について  
 第13章 五郎と農民美術  
 第14章 五郎と橋本平八  
 第15章 風俗木彫の個展―即興画一筆描き程度?―  
 第16章 五郎と長野、秋田の農民美術  
 第17章 手工芸協会  
 第18章 五郎の女人恋慕  
 第19章 再興日本美術院彫塑部同人時代「これは彫刻になっております」  
 第20章 五郎と大島あんこ人形  
 第21章 大乗美術会  
 第22章 五郎の突然死、なぜ? 
 第23章 新興美術家協会顛末記  
 第24章 木村五郎のしごと  
   別章 大島あんこ人形が、眠りから覚めた  
     ・木村五郎略年譜 ・発刊に至るまで(木村五郎研究会活動報告)

 大島の親戚や木村五郎関係者へ寄贈する本の案内葉書に私はこう書いた。
 『木村五郎は大島に来て「あんこ人形彫刻」の技法を島人に教え、私の父は木村五郎の意匠による人形を60年作り続け7年前に90歳で永眠いたしました。木村五郎先生は大島にとって、そして父にとっての恩人であります。あんこ人形は大正中期に芸術家山本鼎が長野から提唱した「農民美術運動」の一環として大島にもたらされたものです。
 このたび、木村五郎の足跡、作品を生み出す苦悩と葛藤、個性的だった同人たちとの交流、多くの画家たちが「大成したければ大島を描け」を合言葉にして競ってやってきた大島に何があったのかなど、近代日本彫刻史の研究を続けられている長野県穂高の碌山美術館元学芸員の千田敬一氏に執筆をお願いしました。木村五郎は新しい彫刻の形を求め続けた作家で、本のタイトル「これは彫刻になっております」は木村の良き理解者であった石井鶴三が「郷土風俗木彫作品」を評した昭和5年の言葉です。

 若かった五郎さんに会ったことのある存命の人は、大島にひとり、新潟にひとり、東京にひとり、この三人しか私は知らない。37才で永眠したが、もっと長生きで多くの作品を生み出していれば、現代風の名前「木村五郎」は著名な芸術家として名が知れ渡っていたかもしれない。明治生まれにしてはシンプルな名前、男前の風貌の五郎さんを私は長く追っかけ続けている。

木村五郎の評伝記②
 私は木村五郎の足跡をまとめてみようとした時に考えたこと、知りたかったこと、疑問に思ったことに答える形の内容にして欲しい、たとえ大成しなかった挫折の彫刻家であったとしても、評伝を読んだ人が木彫作品を見てみたい、大島に行って資料館を訪ねてみたい、そう思ってもらえるような本作りを希望した、求められた関連資料はすべてお送りした。
 大島木村五郎研究会が知りたいことは、〇生後すぐに建具職の木村家養子となるが、何故家業を継がなかったか、養子であったことも影響しているのだろうか〇徒弟修業中(仏師に弟子入り)に彫刻家石井鶴三の門を叩いたのは何故か〇日本美術院彫刻部の芸術家たちと過ごした同人時代はどうだったか〇初期風俗木彫作品の分析・題材の特徴はどうか〇農民美術講習会の指導者として参加した動機(一人でコツコツやるタイプが何故)は何か〇山本鼎が主宰する「農民美術運動」は何故短期間で衰退してしまったのか〇「木彫」は得意だったが「塑像」は苦手、人物の作品は何故出来なかったのか〇若くして彫刻入門書「木彫の技法」「木彫作程」を執筆したのか〇スランプに陥るが、私生活の悩み・彫刻技術の壁とは何だったのか〇夭折の前触れ予兆はあったか〇五郎は童心の彫刻家といわれが、どういう彫刻家か、作品に作者の人間性が表れるか〇晩年になって「新興美術家協会」の設立に奔走したが、何故か〇美術界における木村五郎の功績は何か〇伊豆大島と五郎の結びつき〇木村五郎研究会と伊豆大島木村五郎・農民美術資料館の存在意義は、などなどに応えるような内容にしてもらいたかった。
 最初の原稿は美術史家がパソコンに打ち込んでメールで送られて来た。それから何回やり取りをしただろう、校正というより推敲という段階の修正が続き、文字だけの文章に私がパソコンに取り込んだ画像をレイアウトして貼りつけていった。大島から校正原稿を印刷して送ると執筆者は見え消しで推敲を重ねて送り返してきたので、何を加え何を削ったか、どこをどう言いまわしを変えたか、一目瞭然だった。終わってみるとその変化変更から筆者の心の「ゆれ」のようなものが伝わり、完成原稿をもう一度読み直した時に「推敲の変化の効果」が読み取れた。間違いなく一回一回の修正の積み重ねが滑らかな文章を作りだし、名前さえ忘れられていた彫刻家が鮮やかに蘇る事ができた。
 文字にする作業は大変で難しいことだが苦労しただけの価値が必ず残るのだ、たとえ物知りの人がいたとしても、それを口にも出さず文字にもせずにただあの世に持って行ってしまうだけだったら、この世に受け継がれることはなく直ぐに忘れ去られてしまう、そういう仕組みになっている。
 本が出来るまで美術史家と電話で話した事は一度もなかった、すべてメールのやりとりだった。本が納品された時はじめて電話で話したが、こうやってできてしまうのだ、不思議な感覚だった。
 美術史家が名付けた本のタイトル「これは彫刻になっております」は木村五郎の良き理解者であった石井鶴三が「郷土風俗木彫作品」を評した昭和5年の言葉だった。表紙と口絵に使う写真は私の希望を入れてもらった、表紙を見ただけではこの本が「伊豆大島」に関係していることはわからない、表紙の木彫作品を見ても「大島だ」とわかる人は少ないだろう、そんな作品だが「私が好きな大島婦人風俗木彫の横から見た形」を表紙に選んだ。
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木村五郎昭和5年作品「前垂を被る婦人」(伊豆大島風俗) 
木村五郎の評伝記①
私設(入館無料)の資料館では時々「入館料は?」と聞いて下さる方がいる。平成13年から館内に『木村五郎基金箱』を用意して善意のご支援のお願いをはじめた。
『木村五郎基金の主旨ー大島を愛した若き彫刻家は150余点の作品を生み出しました。その多くが行方知れずですが、このたび、個人で所蔵されています木彫作品を譲っていただけることになりました。しかし、この資料館の建設が精一杯、私一人の頑張りだけでは、作品を大島に迎えることはできません。ご賛同いただける方々のご協力をお願いいたします。』
 多く方のご支援をいただき基金箱設置から4年後の平成17年6月18日から木村五郎昭和8年作品「憩う熔爐工」を当館で展示が出来るようになった。繊細な木彫で運搬が心配だったが何とか無事に到着、ずっとこの資料館で木彫の仲間たちと毎日暮らしている。
 彫刻家が急逝してから70年以上が過ぎ去り、木村五郎の影は益々薄くなり関心を寄せる人も少ないなか、唯一の「木村五郎の資料館」としては彫刻家の作品を幸い一点収蔵することができたが、文献などはほとんど見つけられず、これから出来る事と言えば「彫刻家の一生」を文字にまとめることくらいしか頭に浮かばなかった。   しかし、その作業は素人の悲しさが露呈、やってはみたが「年譜に毛の生えた程度のもの」しか書けなかった。こうしたいという構想はあったが早々に断念、どうしても木村五郎を本にしたかったので、資料館開館の記念講演をお願いした日本近代彫刻の研究を長年手がけておられる美術史家の千田敬一氏に頼んでみた。こちらの希望は「我々がわからないこと、知りたいことを解説してくれるような構成で、別章で木村五郎研究会会員の文章を入れたい」と伝えた、美術史家から「木村五郎を顕彰するだけの内容にはならない、本の全体については関与しないが自分が書いた原稿への介入は受けつけない」という条件で本作りが平成17年1月からスタートした。
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木村五郎昭和8年作品「憩う熔爐工」
資料館でできること
文化通信『シデ』の大西編集長は木村五郎資料集発刊記念特集として1999年夏に第16号を発刊した。前述の鈴木明さんが書かれた「ジャンバーを着たごく普通の人だった」という文章の次のページに私が寄稿したものも載せてくれた。

牛が大島にやってきた
木村家の位牌を守る木村芳子さんに初めてお会いしたのは去年の10月でした。今回の『シデ』の巻頭に寄稿していただいている鈴木明さんと一緒でした。
五郎さんの家系図を呑み込むまでには随分時間がかかりました。明さんの父上鈴木四郎さんは五郎さんの実兄です。五郎さんの実母が体調を崩していたため、子供に恵まれなかった木村家と縁を得て五郎さんは生後まもなく木村熊吉さんの養子となります。五郎さんが養子になってから熊吉さんは四人の子供を授かりました。長女のいくさんは大正十三年に鈴木四郎さんと結婚、明さんは鈴木家と木村家の血を継いでいることになります。
五郎さんの縁者の方々に五郎さんの資料本を出すこと、資料館建設の夢の話をするととても喜んでくれました。明さんには時間の許すかぎり私が木村家にお邪魔する時には同席していただきました。四月には五郎さんがアトリエを構えた世田谷千歳船橋を案内してもらいました。五郎さんが亡くなってからアトリエは解体され、熊吉さんが住まいとして建てられた木造の家が残っていました。この家には明さんも済んだ事があったそうです。当時の面影はすっかりなくなっていたようですが、土砂降りの雨の中、二人ともその場を離れ難くズボンも靴もびしょ濡れになって雨に煙る一角をずっと見ていました。
六月に五回目のお邪魔をしました。五郎作品の大島への寄贈を約束していただいてありましたが「今回牛を連れて帰りたいがどうだろうか」と事前にお願いしてありました。
「一人で大事にしているよりも大勢の人に兄さんの作品を見てもらえれば嬉しい」と言われ、快諾していただきました。この『牛』は五郎さんの絶作となってしまったものです。腰の辺りと鼻の頭が光っていました、どのような思いで六十年も一緒に暮らしてきたのかと想うと、大事にしますからとしか言えませんでした。預かった以上は芳子おばさんに「良かった」と言ってもらえるような展示にしようと考えながら夜の船に牛と一緒に乗りました。仏壇に線香と牛に飲ませる水をあげて報告をしました、大島が居心地のいい所になりますように。
こんな時代にあって何でなの、とよく聞かれますが、聞かれた人に納得してもらえるような答えはできません、できた資料館を見てくださいよ、応援してくださいよと笑って言っています。無理に言葉にしてしまうことより見てもらいたいと思っています。もしそれが「何でもないただの変った建物だけ」であればそれだけのことだったのでしょう。
おぼろげな資料館の構想は木村芳子さんに出会って、全面的な協力をしてもらえることや喜んでいただけたことで大きく前進しました。折角自分の半生を賭けてやりはじめることです、「それは道楽だな」と町の人に言われます。確かに生活の糧を得られる可能性が少なければ道楽と言われても仕方がありません。
これまでにお話を聞かせていただいた五郎さんを知る人、新潟の半藤先生、福光の松村さん、大島の山藤さん、藤井一恵さん、芳子おばさんは六十年も前の出来事を懐かしそうに思い浮かべていらっしゃいました。瞼には当時の光景やアトリエの様子、飾ってあった作品がはっきりと蘇っていたのでしょう。
何とかその風景を、作品を、本人の声も聞きたいと思いましたがそれは当然ながら叶わないことでした。
資料集が出て、五郎さんの絵葉書が復刻されて、木村五郎・大島農民美術資料館ができます。その拠点ができればそこで物を作ることを仕事にしたいと思っています、不器用なので一番の難関です。
今日まで多くの方々にお世話になりました。おかげさまで五郎さんと縁の深い大島に小さいながら生きた証しを展示する資料館がまもなく立ち上がります。ゆっくりできる場所でおいしいコーヒーを萩焼のきれいなカップで飲んでください。私がこれまで生きて考えてきたこと、いいなと思う楽しい空間を作ってみたいと思います。
昨年大島に木村五郎作品を見に来られた研究者は、「大島はいい島だ、また来たい」と思ったそうです。その人が一人で五郎作品を見て、観光バスで島を巡って帰ったとしたら、また来たいと思われただろうか。島で待つ人がいて、五郎さんを大事に思う人がいて、五郎ゆかりの場所を案内できる人が居ることが大きな要因であったのではないだろうか。五郎さんは少なくとも八回以上大島に来ています。来たことを聞きつけると木彫講習会の知り合いなどが集って来て熱心に話しをしたと聞きます、雪深い富山福光には大きな古い家で五郎さんを歓待する家族が居た、そんな場所に五郎さんは惹かれたのではないでしょうか。
大島の資料館は五郎さんの古里になりたい、農民美術を形に残したいと名乗りをあげました、これが出発点です。みなさんのご来館をお待ちしています。


木村五郎ご家族との出会い
 資料の調査と並行して木村五郎のご家族の連絡先を探し続けたが、所在までなかなかたどりつくことは出来なかった。五郎さんが眠る菩提寺が判ったので事情を話して連絡先を教えてもらった。何者だか分らなかった頃の思い出を鈴木明さんは文化通信『シデ』1999年夏第16号でこう書いている。

それは突然のことだった。
叔母木村芳子から電話があり、「五郎さんのことを調べている方がいるんですって。その方が大島から尋ねて来るって云うのよ。明さんもその時に家に来てくれない?」
 木村五郎は、親族の間でさえ、ほとんど忘れられている人だ。それを覚えていてくれて、しかも際発掘してくれるとは、何と奇特な方がいて下さるものだ。しかし何だって、この木村五郎を・・? 何の目的があって、一体どういう人が・・?
定刻に、叔母の家の前にあらわれたのは、ジャンバーを着たごくフツーの人だった。その人が藤井虎雄氏だった。
近年、身内で葬儀が続いていた。母の弟妹が相次いで他界し、母もそれに続いた。一人暮らしをしていた母が老人ホームに入ることになって、空家となった深川の実家で荷物の整理をしていたとき、古いトランクの中から戦前の戸籍謄本が出てきた。
それは母の実家の戸籍で、戸主木村熊吉、母である長女いくの名とともに五郎の名もあった。家族関係の中の五郎の位置を私が正確に知ったのは、実はこれが初めてだった。母の口から「五郎兄さん」のことは、耳にしていた。しかし私の父・鈴木四郎の弟とも聞いている「五郎」が何故、木村の家にいたのか知らなかったし、関心もなかった。ところがその母も亡くなると、急に、自分の先祖はどんな人達だったのだろうか、と思うようになった。私の父はエンジニアで、神戸の工場に転勤していたためか、私の家には五郎にまつわる物は何もなかった。その父も終戦の翌年に54才で病死し、父の兄達も同じ頃、次々と他界した。五郎の家系は皆、短命だったようだ。そんな訳で、父方の親類とは疎遠になっていた。
法事の席で、久しぶりに会った従兄弟達に、昔のことを尋ねてみた。しかしながら五郎のことを知っているのは当然のことながら、もはや叔母一人であった。五郎が市川房枝さんの初恋の人だった、と週刊誌か何かが最近記事にした、ということを聞いたのも、この席だったが、それ以上のことは誰も知らなかった。
熊吉の長男、由次郎のもとに叔母が嫁いだ頃、五郎はまだ実家にいた。その叔母から五郎の人となりを聞き、また写真や作品、日本美術院発行の「作品集」を私は譲り受けていた。この「作品集」に年譜があり、それを頼りに国会図書館で、五郎が当時の雑誌に寄稿した文章を読むことが出来た。が、私の調査はそこまでだった。市川房枝さんについていえば、知り合いのジャーナリストが調査を約束してくれたが、それっきりになっていた。
そこへ現われたのが藤井氏だった。それ以降のことは『シデ』にすでに書かれている。

身内の中でも、忘れかけていたのに、五郎のことをこれ程までに気に掛けていた方がいて下さったとは、親族として嬉しい限りです。それも大島の御三方ばかりではなく、埼玉にも新潟にも、有名な碌山美術館にも、研究の対象として取り上げていて下さった方々が居られたとは、驚きでした。
あの世でも、多分、憂鬱な顔をしていたであろう五郎叔父が、今頃は笑みを浮かべているに違いありません。当時の同僚に肩を叩かれ、あの世の縄のれんで一杯やりながら、上機嫌で芸術論をぶっていることでしょう。

開館から1年経つ
平成12年8月、アッという間に開館から1年が経過、木村家や鈴木明さんやY先生から一周年記念のお祝いをいただいたので木村五郎研究会のメンバーでささやかな会をした。この1年で何ができたのだろうか、資料館の宣伝と展示の充実、そしてあんこ人形の試作、すべてが不充分ながらも休むことなく走り続けたはじめての体験づくしの1年だった。追い風を受けた船出だったが、上田の荒井さんの急死や大西編集長の『シデ』の休刊は残念な出来事だった。
露語翻訳家で木村五郎の甥っ子の鈴木明さんは季刊誌『シデ』に載せる原稿を送ってくれた。(この原稿はシデ休刊中のため活字になってはいない。)

『藤井工房、大島農民美術・木村五郎資料館が開館一周年を迎えることを、お慶び申し上げます。
 この間、特に大島の観光シーズンには一日に何十名もの入館者があったこと、また、民芸品の手作り教室が企画されたことなどを、館長の藤井さんから伺っています。それと同時に大きな地震や台風もありました。しかし藤井さんの不寝番など、みなさまのお力で資料館は無事、守られています。有り難うございます。
 忘れられていた木村五郎を発掘し、資料館まで建てていただいたことは、我々親族の者にとって望外の喜びでした。しかし喜びは、それだけではありませんでした。館長さんを初めとして、関係された皆さんがとても善い方だったことです。
物静かで、純粋に芸術の道を求め、ひたむきな心を傾ける藤井虎雄さん、人間を愛し、文学を愛し、スポーツを愛し、お酒を愛する『シデ』編集発行者の大西外美夫さん、大島の文化を掘り起こし、木村五郎発掘のきっかけをつくって下さった時得孝良先生、農民美術運動を研究し、支援して下さったY先生、ご専門の立場からご指導下さった碌山美術館学芸員の千田敬一先生、資料館建設に努力された多くの皆さんが、とても善い方たちだったことです。
 たとえ身内の者の記念碑を建てていただいたとしても、関係する人たちがお付き合いの難しい人たちだったり、ましてや何かの損得勘定が動機となっていたら、どうでしょう。喜びは消え、苦痛が残ります。
 その点でも、私たちは幸せでした。全くの善意による皆様のご尽力で、木村五郎の記念碑が残ったのです。そのことを親族の者一同、感謝せずにはいられません。
 これからも末永く、資料館が大島の文化に寄与する一つの拠点として有り続けることを、心から願っています。
        二〇〇〇年八月    開館一周年に寄せて  鈴木 明  』
 
 
 明さんが書かれているように私たちも善い人達に巡り合えたと思っている、五郎さんの資料収集を始めてから一度も嫌な思いをしたことはなかった。ようやく居所を探し出して初めて小金井に芳子叔母さんをお訪ねした時、お互いの思いがすぐに通じ合い初対面ながら昔から知っているような親しみが直ぐに伝わってきた。私が魅力を秘めた彫刻家だと感じても、身内の方々が喜んで迎えてくれなければ、協力もしてもらえないし、調査も中断してしまい、資料集は出せても資料館までは作れなかっただろう。
私は生誕百年を迎える日本美術院の芸術家木村五郎というより「隣に住むやんちゃな兄貴」といった存在として五郎さんを身近に感じてきた。何時になっても37才の若さのまま、私がいくら年を重ねても80才になっても、五郎さんはずっと37才のままに違いない。身内の方は疑うことなく諸手をあげて歓迎してくれた。資料集を出すことから一歩踏み出して「夢の資料館」が膨らんだのは、叔母さんにお会いした頃からだったと思う。

木村五郎が持ってきた人形
 五郎さんは昭和2年秋から大島にくるようになったが、縁者である故大橋清史氏の家には農民美術運動が始まった当時に長野県上田周辺で作られていた人形が大事に保管されていた。資料館の開館に合わせて資料として展示させてもらえることになった。
 昭和2年2月から昭和5年まで日本農民美術研究所の嘱託として京都宇治、秋田大湯、長野伊那などに出向き精力的に講習会の講師をしている。
 昭和4年3月の「島の新聞」に掲載された木村五郎投稿「大島に農民美術が生まれたこと」の中に「過日大橋兄同道にて所長(日本農民美術研究所)山本かなえ氏に会い、意見の交換をなし、人形大いに好評を得た。その他研究所関係の一流美術家たちも大島に好感を持ちたる様子、東京府庁農林課に交渉して、大島に更に農民美術の空気を濃くしたき希望である。」と書かれている。何処で会ったのか、大島農民美術組合のリーダーだった大橋さんと一緒に「あんこ人形」を持って行き農民美術運動の主宰者である山本鼎に面会している。
 五郎さんは大島でおこなわれた講習会に合わせて持ってきた各地の農民美術人形は昭和7年に長野県内務部が発行した「信州の農民美術」という冊子に載っている人形と同じものだった。小県郡青木村(当時)の青木農美組合のスキー・スケート・登山・養蚕風俗人形や小県郡神川村の「だるま」など完成度の高い人形のように思える。きっと大島の農民美術「あんこ人形」を作る参考に五郎さんが長野から運んできたものに違いない。大島から長野に「あんこ人形」は渡っている、これも五郎さんがしたことだと思う。
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作品展示(木村五郎)
彫刻家木村五郎の木彫作品は長野県碌山美術館に2点所蔵されているだけ、他の資料館や美術館にあることはまだ確認できていない。150点以上世に送り出した筈なのにどうしてなのだろうか。昭和12年に遺作集として作られた「木村五郎作品集」に掲載するために58の作品が集められ写真撮影した筈なので、その時までは作品の所在は明かだった訳だ。
五郎さんは子供に恵まれず、昭和37年に急逝してしまい世田谷のアトリエには奥様が一人残された。このアトリエが売りに出されていることを五郎さんのご遺族が知り取り止めさせたことがあった、そう聞いている。アトリエにあった五郎さんの作品はこの奥様の手で何処かに売却された可能性があるらしく、残念ながら今回大島の資料館にご遺族や縁者の方から拠出していただいた作品の大半は、作品を作る工程の石膏作品だったり未完の作品だったり、小品だったりしている。
遺作集には作品名と所蔵者の氏名が掲載されている、新宿中村屋や東京湾汽船(現東海汽船)や画家だった故牧野司郎氏などには文書で照会をしてみたが収蔵はされていなかった、当時木村家が所蔵していた作品は23点あった。
木村五郎資料館で公開できることになった作品は「牛」「聖観音」「北国の少年」「街へ」「鳩」「臥牛」「少女像」「樋口伝十郎像」「青衣の女」「大島婦人風俗木彫4点」五郎さんとは縁故のまったくない私設の大島の資料館にみなさんが喜んで作品を寄託して下さいました。たとえ習作の作品が多かったとしてもとてもあり難いことで、胸を張って「彫刻家木村五郎の資料館だ」と来館者に告げたい。
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  木村五郎著書と小品作品   聖観音(石膏)と遺影
時間という壁
私は山本鼎記念館にある資料から「大島で農民美術講習会が行なわれた」という記録を見つけ出す事は出来なかったが、大島で発行された昭和初期の「島の新聞」や昭和49年の朝日新聞の記事は、確かに大島で農民美術運動が展開されていたことを伝えている。偶然ギャラリー大西の前を通りかかった上田の青年は山本鼎記念館で本多さんが提供した「島の新聞」のコピーを見て大島を訪ねて来たのだった。
大島に農民美術運動があった、彫刻家木村五郎が来た、たったこの二点をヒントに本多さんは時間という壁に単身立ち向かったのだ。
私は夢の資料館の話を聞いてもらい協力をお願いした、聞き取り調査の資料も提供してもらった。
昭和56年・こよみ「しまの手仕事」の中で、あんこ木彫人形について「元町港の近くに、いつもこつこつ桜の木片を刻んでいる藤井重治さんの御神火堂がある。四十年前、島に戻った藤井さんは、農民美術で木彫を習った仲間の仕事を見て、あんこ人形を彫り始めたという。質素で力強く、あたたかいこの人形は島本来の生活を思わせる。」と本多さんは書き添えている。
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「しまの手仕事」あんこ木彫人形
本多氏は何に共感したのか
本多さんの調査は島の中に止まらず、上田の山本鼎記念館に行き、木村家にも伺って当時お元気だった芳子おばさんのご主人の由次郎さんにも会っていた。
昭和57年から約2年間本多さんは取りつかれたように木村五郎とあんこ人形の調査を続け、聞き取りをした島人は27人を数えた。当時お元気だった講習会参加者6人は既にみなさん他界され、もはやご本人から講習会の様子を聞くことはまったく出来ない。年月は容赦なく古いものを遠くへと追いやってしまい、本多さんが聞き取りされた個々の証言から「ひとつだけの真実」を導き出すことは困難だが、忘れられてしまいそうな事を活字にされた本多さんの仕事「聞き取り綴り」は大島にとって、特に資料館にとって貴重な財産となっている。
私は昭和56年に東京から大島に戻ってきたが、その頃に本多さんは手探りでコツコツと情報収集をされていた訳だ。本多さんがあんこ人形や木村五郎を調べていたことは資料調査をほぼ終えた頃に知り、山本鼎記念館の「農民美術とその現況展(1983年)」に大島に残っていた木村五郎のあんこ人形と資料を展示したことは、山本鼎記念館に調査に行った時に知った。

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本多保志版画書票(エクスリブリス)
作品陳列台を作る人
作品の陳列台は大島の白井建具屋にお願いした。建具屋の白井直さんは大島の中学を卒業すると上京、知り合いの紹介で「建熊」という建具屋で住み込み修業をした。そこの親方が木村由次郎さん、芳子おばさんのご主人だった。芳子おばさんをお訪ねした2回目の時にそんな話しが出て、「今の住まいの障子も直ちゃんが作ったのよ」と懐かしそうだった。
木村五郎という彫刻家が『建熊』の関係者であることを直さんはご存知だったが、大島と資料館との奇縁を話すと驚いていた。鈴木五郎さんが乳飲み子の時に養子に行って木村五郎になり、長男として成長したが五郎さんが7才の時に実子由次郎が生まれた。昭和7年に芳子叔母さんと結婚。五郎さんは立場上は長男だったが家業の建具屋を継がずに彫刻家の道を選んでいる。
 直さんは芳子叔母さんのことを「おかみさん」と呼んだ。熊吉親方には息子さんが2人いるが、そのうちの1人が「建熊」を継いでいる訳なので兄弟子であり現在の建熊跡継ぎの方も8月の開館日には大島に来ていただけることになっていた、「五郎さんの作品を飾る陳列台を是非とも作ってもらいたい」とお願いした。もう暦は8月になっており「おかみさんや親方が来るんじゃ、粗末なものは作れないな、仕事も入っているし時間もないから、手の込んだものはできないが」と引き受けてくれた。
 どうして大島から「建熊」へ修業に行ったのか、聞いてみると、木村五郎と縁戚関係にあった農民美術の普及に尽力された大橋清史氏が係わっていた。きっと建具職の見習で何処か心当たりがないかと相談されて建熊を紹介したのだろう、時代はずれるが直さんともう一人大島から修業に行っていた。
 陳列台の塗装は柿渋の塗料を買って自分で塗って仕上げることにした。



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