FC2ブログ
プロフィール

ankosan

Author:ankosan
『あんこ』は目上の女性を親しみを込めて「おとらあんこ」など名前の下につけて呼びました。今では広く島の娘さんのこと、ちなみに私は男。   連絡メール

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

あんこ人形誕生記
昭和初期、伊豆大島に生まれた農民美術「あんこ人形」、 島人に彫刻を指導した彫刻家木村五郎、60年彫り続けた職人の父、人形生誕から資料館を開くまでの回想と資料館の今と未来を記す
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「伊豆大島に関すること・農民美術運動・全般の資料」
国会図書館通いで新たに入手した「伊豆大島を扱った文章」と「あんこ人形の生みの親にあたる農民美術運動の資料」のリストです。まだ詳しい分類や整理整頓がなされていませんが、すべて国会図書館にて著作権の範囲でコピーできた資料の一覧です、原文と奥付までコピーしてあります。これからどうやって活用したらよいのか、それが課題です。

伊豆大島を扱った文章

伊豆大島 藤川東瑛 歌集音渓 昭和17年 
伊豆大島 蔵田周忠 近代的角度 昭和8年 信友堂書店
事に触れて      
伊豆大島 松川二郎 一泊二日旅行 大正8年
伊豆大島と熱海  星野はな  アメリカの旅 昭和12年 
切支丹伝承・民俗信仰編 三田元鐘 昭和16年 
伊豆大島藻谷六郎 仙人掌(サボテン)歌集 昭和6年 
伊豆大島見聞記 法月俊郎 明治聖徳記念学会報 大正15年 
伊豆大島藤川武男 四月会作品一 昭和11年 
伊豆大島 矢吹弘史 四季の太陽 昭和16
伊豆大島雑記 南賢治 写真紀行記 昭和17年 
伊豆大島雑観 本田正次 植物と生活 昭和16年 
伊豆大島 中村順三 祖国 昭和10年 
春の伊豆大島風物 青山宣紀  玉葱畑春景 昭和16年 
伊豆大島 中野菊雄 歌集丹青 昭和18年 
伊豆大島冬の釣 益田甫 釣ところどころ 昭和17年 
大島と奥伊豆 福田栄一 冬艶曲 昭和5年 
伊豆大島  中村孝0000 昭和18年 
牛乳煎餅 永田牛歩 乳製品製造宝典 昭和8年 
伊豆大島行の船上より寄書を賜ふ 山田百合子 野路 昭和16年 
伊豆大島のとぼけた話 中村清二 物理学周辺  昭和13年 
伊豆の大島で行逢ったハイカー達 茂木慎雄 遍路随筆 昭和18年 
伊豆大島 杉田鶴子 歌集菩提樹 昭和15年 
伊豆大島行 藤田晋一 歌集街の切符 昭和8年 
伊豆大島の民家 富岡丘蔵 民家 昭和11年 
伊豆大島 葉多黙太郎 000 大正13年 
大島あんこ 三宅一三編 吾妹新選集 昭和7年 
伊豆大島 松川二郎 安くて便利な新しい海浜へ 大正11年 
波を馳する想ひ 
大島より伊豆への旅 浦本政三郎 旅心常住 昭和10年 
御神火 川西徳三郎 和露句集 大正4年 
ご神火は招く 中村武羅夫 白蛾の舞 昭和23年 
椿咲く島へ                    
島の便り 白木楓葉 街の哀唱  昭和11年 
濃霧道化御神火 片山博通 幽花亭随筆 昭和9年 

石井柏亭 油絵の実技下  昭和14年
洋画実技講義第2巻 昭和12年 アトリエ社

大島の導者 茂山清太郎 桂月文選海へ山へ  昭和2年 日本青年社
三原山風景 大木惇夫 抒情詩集カミツレ之花  昭和9年 鬼工社
三原山の流行 松原寛 生活の哲学 昭和8年 日本公論社
三原山とナチス 板垣鷹穂 観思の玩具 昭和8年 大畑書店
三原山繁昌 雷石楡 詩集沙漠の歌 昭和10年 前奏社
三原山行 木下立安 泰山木の花 昭和11年 
三原山は煙る 田中貢太郎 南薫集 昭和12年 教文社
椿咲く島へ 荻原井泉水 旅窓読本 昭和12年 学芸社
伊豆三原山登山 藤森さと 昭和12年
三原山沙漠踏破の記 東京市児童標準文集高等科用 昭和12年 教文社
三原山 松田常憲 秋風抄 昭和12年 昭和12年 詩と歌謡の社
三原山雑航記 河合辰太郎 閑窓余滴隋流集 昭和13年 
三原山に登りて 横田市治 世紀の黎明 昭和13年 一如書房
三原山紀行 橘外男 ナリン陛下への回想 昭和13年 春秋社
三原山の煙 中村武羅夫 愛する者の道 昭和14年 野島書店
三原山 中村九一 詩集湖辺の桜 昭和15年 
三原山紀行 田中貢太郎 天狗の面 昭和15年 春陽堂書店
三原山 唐戸丑太郎 唐戸丑太郎歌集 昭和16年 一路会
三原山登山元村よりほか 松本豊子 黒松 昭和18年
三原山 加藤かけい 浄瑠璃寺句集 新日本出版 昭和22年
伊豆大島吉谷神社正月祭の芸能 俵木悟 民俗芸能90 平成21年
藤内事件 松本愛子 恵泉アカデミア12号 2007年


農民美術運動全般の資料

本邦農民美術運動の回顧と展望 渡邊進 帝国農会報 昭和2年10月号
黎明期の農民美術 昭和3年
農村及農業の工業化 昭和5年
農村の副業 昭和5年
林業年鑑 大正11年
アトリエ美講座 昭和10年
岩波世界文学 昭和7年から
応用と実際明日の手工芸 昭和7年
潤葉樹材の利用 昭和5年から
潤葉樹材の利用調査書 昭和4年から
工芸美術を語る 昭和5年
今日の農村問題 昭和7年
産業組合宣伝叢書 昭和2年
児童百科辞典 昭和11年
農村副業問題 大正15年
羊ホームスパン 9年年
美 を味わう心 1922年
文化は郷土なり 18年
山梨県山林会三十年史 1936年
林業講習成績概況 12年
世界巨人叢書
水を流るる永遠の愛 大正14年

スポンサーサイト
藤井重丸展の資料紹介①
藤井重丸の作品や資料を紹介します。(原画はすべてアルバムに糊付けされて保管されているのでほとんどがコピーです)

     画像 092

                   会場入口のコーナーです


     画像 090

大島の風景や岡田村のスケッチ(180センチ×75センチの竹で囲った簡易額縁にビニールコーナーで固定)

貴重な証言
藤井重丸展の案内を新聞折込みチラシや「広報おおしま」などでおこないました、関心のある人の目に触れることはできたと思います。展示が始まる前に「この人を見たことがある」という思わぬ連絡をいただきました。
何と言うことでしょう、シゲ○さんに会った人がいる、「実はシゲ○作の人形を持っている」そういう例はあるかな、と思いましたが、まさか会ったことがある人がいるとは、まったく想像もしていませんでした。
一人で会いに行くより縁者の方と一緒がいいと思い、大島に追悼に見えた今田さんと野口さんが帰京する船に乗る直前に三人でお訪ねしました。
もう90を大きく越されたお元気なご婦人です、はっきりとシゲ○さんを覚えておられました。
「私が通った小学校は当時のシゲ○さんの家の直ぐ道上にあり、毎日の通学道路に面していたので見えた。裸になって人形を彫っている姿を何度も見かけた」と話されました、寄り道もしたようです。当時の写真も見ていただいたのですが、シゲ○さんの顔以外に見覚えのある人物はいなかったようです(視力もだいぶ弱くなっているようでした)。
シゲ○さんも賑やかに登下校する岡田の子供たちに会うと「おはよう」「さよなら」と声を掛けたに違いありません。
書き記せばこれだけのことですが、「シゲ○さんに会った人がご健在だったとは、伺った3人とも感無量」あまり言葉を交わすこともなくそのまま各々の家路に就きました。
10 シゲ○さん永眠
 岡田村の人たちの協力により岡田九番地に建てられた草庵は昭和7年の大風で吹き飛ばされてしまい、シゲ○さんは一度古里の会津若松に戻りました。その時にはすでに結核の病を得ていたようです、それでもシゲ○さんは終の棲家にすべくしばらくして大島に移り住みました。療養をしながら版画や木彫をして暮らしたのでしょう。昭和9年6月16日不治の病に倒れたシゲ○さんは会津若松の菩提寺(福證寺)に埋葬されています、戒名は積誉良道清居士です。
 当時の大島の埋葬は土葬でした、どうされたのでしょうか。大島町史に、土葬の例外として「伝染病でなくなった時、国の者でお骨を持ち帰りたい、故郷で葬式をする場合」には村はずれの浜辺に臨時の焼き場を設けて火葬にした、そう書いてありました、各集落にそういう場所があったそうです。
 岡田村の場合は野田浜という海岸に今でも「焼き場」という名称の岩場がありますからきっとそこで行なったものだと思います。
今田保さんのお父上が遺骨を引き取りに来島されたそうです。
 現在の岡田にシゲ○さんが暮らしたという証しになるものは何もありませんが、最初に村人が力を合わせて建ててくれた草庵、その住まいの裏にあった木々は切られていましたが、向かって右側の木は大きく成長してうっそうとしていました。家があった奥に引っ込んだ空間は80年近く前のままそっくり残っていました。草庵の大きさは写真よりずっと狭く感じました。
 はじめて資料を見せていただき、その足で草庵の場所に向かいました、風に揺れる木々の葉音だけが聞こえる静かなこの場所に今田保さんとはじめて立ったあの時「シゲ○さんは確かにここで暮らしていたのだ」そう実感できた瞬間でした。

空間小
                  伊豆大島岡田九番地 草庵のあった空間

       今田二郎氏
           兄弟のように育った藤井重丸(右)と従弟の今田二郎(草庵の前にて)※写真は再掲


7 シゲ○さんが描く島娘・淡き恋ごころ 
7 淡き恋ごころ OSETSU・BO

 三人称で創作話のようにしたシゲ○さんの文章が残っています。

  「お節ちゃんはおでこだ。鼻はだんごだ。唇は重ったく厚い。髪は赤毛だ。そしてだんまりやで恐ろしく
  強情っぱりだ。ただ眼だけが遠い所を見つめている様な夢見る様な瞳で一寸いいと彼は思った。だが、そ
  の眼さえ片想でもやぶにらみでもやっぱりお節ちゃんを嫌いにはならない。そんな欠点がかえって彼には
  魅力を持つ様に感じられた。

    お節ちゃん “さよなら“ する時です許して下さるでしょうね 
    1924.4.4 Sより

  これが彼の少年時代を記念すべき最初にして最後のlove letterだった そして石膏に彼女の姿を刻んだlove
  彫刻と一緒に彼の女の袂の中へ思い切って入れた。
  彼は成功した。次の朝お節ちゃんが窓からそっと自分の写真を彼に与えた。
  だが、その日お節ちゃんの一家は遠い遠い所へ引越してしまったのだ。


 シゲ○さんの版画に登場するあんこさん(島娘)はみな若く私には頼りなげに見えます。頭に水桶を乗せて毎日何度となく水を汲み運ぶ仕事は女の力仕事で、たくましい姿が島の女性の筈ですが、シゲ○さんの描く女性は皆か細く見えます。
 この写真は前段で登場したお節ちゃんではないでしょうか、「伊豆の大島版画集」の袋絵の島娘は写真と似ているような気がします。

節の写真  節の版画       椿したあんこ  あんことつばき  自作絵手紙
お節ちゃんか    版画絵葉書袋絵              島娘スケッチと版画(シゲ○作)    


伊豆大島発「和田三造と大島」④
 和田三造の名前は作家里見とん『麦』(明治42年)に掲載された雑記帳の「大島ゆき」に出てくる。
 里見が泊まる予定の宿屋にはすでに一人の画家がおり、余りよい印象を持てず、知人宛の通信に画家の悪口を書いて出している、その続きの文章となる。

 「前便大いに悪口を書いてやった画家は、今朝宿帳を見て橋本邦助である事が解った。あの場合あの顔を見ては大に感じを悪くする、悪口をいうのは恐らく己ばかりではあるまい、然し見識のない話だ、夫で大に前非を悔いて午後からは訪問記者の顔をして出かけた、先づ名刺を出して「かう云ふものですが繪を拝見させてくださいませんか」と云った、案外気軽な人で直に招じ入れてくれた、見識のない事をいう様だが今更めて見ればやっぱりそんなに下手な繪ではない、然し富士山を描た方はどうも面白くない、今一枚の大きなかきかけの繪は良くなり相だ、秋の展覧会に出すと云っていた・・・・和田三造君の事が其の内ここに来る筈だと云っていた、およそ一時間近くも話して帰った。・・波浮につれて行かれていた和田三造は赤いどてらを着てはしけから躍り出した。」

 悪口を言われた画家橋本邦助は明治43年4.27日付 「巴里日記」で

 「横浜出発・・・船は大島の極く近くを通る。一昨年の冬和田と一所にそこに遊びに来ていたのだ。其の時知り合いになった人々の事を想い出して懐かしかった。日没時の紅の空の中に、紫色をなした富士がすっくと立っているのが雄々しい、やがて天も海も蒼ざめて来ると大島の麓に当って灯が一つ二つ見える・・・」

 一緒に大島に来た画家の橋本邦助は1909(明治42)年に「大島の海」という宿があった元村(現在の元町)から見える伊豆半島と海を描いた「大島の海」を発表している。
        橋本邦助大島の海

伊豆大島発「和田三造と大島」①
 東京から洋上遥か120キロに浮ぶ伊豆大島はこれまでに様々な分野の芸術家を迎えてきた。特に明治の後期から昭和の初期にかけて画家たちは「大成したければ大島を描け」を合言葉として競ってやってきた。
 なぜ画家は大島にやって来たのか、そしてどんな風景を描いたのか、大島が画家に何かを与えることができたのだろうか。
 「伊豆大島」を描いてその存在を世に知らしめた最初の画家として 和田三造「南風」 【美の巨人たち 一枚の絵】 があげられる。
 東京美術学校で油絵を学んでいた明治35年(19才)に八丈島を目指して伊豆の伊東から郵便船に乗り込み、大島に辿り着くことになった劇的なエピソードを和田三造は語っている。

《「晩帰」「南風」の頃》和田三造著 美術雑誌「アトリエ」(昭和3年8月号)から抜粋

・・・『南風』を描いたのが二十三の時だ。これを描こうとするまでにはロマンスがある。其の時分僕は伊豆の大島などの存在を知らず、東京湾の向こうは漠然として唯歌などで八丈島という名を聞いて其処へ行きたいと思っていた。
或月明の晩に伊豆の伊東から八丈島通いの郵便船に乗った。小さな船で気持ちよく海面を滑っていたが、夜半から俄かに暴風雨になって、全く文字通り木の葉のように翻弄され始めた。僕は海の荒れる様を此の時つくづく見た。風雨は刻々其の勢いを増して帆柱は折れ、帆は風に奪われて、船は唯波涛の怒りに任せるほか無くなった。
・・・其のうちに老船長は『少しでも船の荷を軽くして船を助けたいから済まんことだが皆さんの荷物を捨てて貰い度い』という。・・・僕は小さな風呂敷包み行李を持っていたので、船酔いの苦しい中で行李を引き出して捨てようとした。すると老船長は「書生さんはまあお待ちなさい。貴方はまだ未来のある人だ、万一貴方の荷物を捨てる時は此の船も郵便物と一緒に沈む時だ、万一助かった時に貴方が仕事ができない。さあお待ちなさい」と止めてくれた。
僕は此の時まったく感激した。風雨は過ぎても山なす波涛は止まず、或る時は苦しい頭をあげると大島が烈日に照らされて大きく見えた。それもいつのまにか遠く波の間にわからなくなった。
こうして漂流すること三日間、ようやく大島に辿り着く事が出来た。海岸では郵便船が着かないので大勢海岸に集まって騒いでいた、其処へ漂流の間に濡れ汚れた着物に蓬のように乱れた長髪という装いで上陸したので島の人は皆びっくりしてしまった。
・・・八丈島へ行く積りが存在も知らない大島へ漂流したわけだ。画家が大島へ渡ったのは僕が皮切りで、其の後大島は東京の美術家の写生地になった。此の時で郵便船の老船長は責任の重い此の仕事はとても老人には続けられないと辞してしまった。此の船長に対する感謝と記念の為に『南風』を描く気になって、其の為に郵便船に乗って何度か、此の間を往復して構想を練った。・・・
 

 和田三造を一躍有名にした「南風」は19才の美大生が死と直面したこのような体験がきっかけとなったのだ。何度も大島にやってきて絵を描きこみ、23才の時に記念すべき第1回文展(明治40年)で最高賞を受けた、作品には漁船に乗った四人の姿が描かれている。四人の人物像については和田三造が学生の時に習った柔道の先生や三造の分身ではないかという説がある。
 「漁師だった父から絵描きの和田三造を何度も船に乗せて釣りに出たと聞いた、帽子を被って座っている青年は父の若い時の顔に似ている」という話を大分前に島の古老から聞いたことがある、描かれている風景は野増という村の南の千波崎沖で大島をバックにして雲が北に流されている南風(みなみかぜ)の日の風景だろうという。
 大島の形は三原山を真ん中にしてなだらかな稜線が特徴でこの当時噴煙を上げていたとしても穏やかな島の印象を与えていたはずだ、「南風」に描かれた大島は左半分が隠れてしまっているが三角おむすび型に近く「隣の利島ではないか」そう思わせる形をしている。しかし、よく見ると絵の右側の稜線が長く平らな岬のように描かれている、波浮港の北側にあるトオシキ岬だと思われる、そうすると船の居る場所は元町と波浮港の中間にある好漁場の千波崎の沖合ということになりそうだ。

画像 002
「南風」に描かれた右端に坐っている青年像

古い福蔵
和田三造を漁船によく乗せたという福蔵丸の船長、晩年の写真だが、明治40年なら32才だった。




大島の風景「和田三造の南風」
 伊豆大島を世に知らしめた最初の画家和田三造の【南風】をテーマにした番組が明日放送される。「南風」と言えば伊豆大島が舞台だ、取材班が来島されて私のところにも見えたので資料を提供し、インタビューにも応えたが、どういう番組構成で「南風」が紹介されるのだろうか。
 明日の番組を見てから、自分なりの思い入れで補足版として「伊豆大島ー和田三造と南風」のタイトルでこのブログで紹介してみたいと思っている。
 「美の巨人たち」は今時めずらしく良心的な番組だと思うので期待したい。
 大島ゆかりの大事な画家だと私は思っているので、少しでも番組のお役に立てていれば嬉しいし、ちょっと出番がありそうだが美術に素人の私が「場違い」に映ってなければいいと願っている。

   10月10日(土) テレビ東京 「美の巨人たち」  午後10時から  和田三造の「南風」


市川氏の回想
『市川房枝自伝・戦前編』 (新宿書房)から再度抜粋

 ・・この昭和十年は、私の父を含めて親しい人が何人か逝去されたことを書いたが、八月二日夜さらにもうひとり彫刻家木村五郎氏の訃報が届いた。病中を無理して製作していたため、心臓病で急逝されたとある。翌朝早速船橋のお宅にかけつけ、告別式にも列席し、奥さんからいろいろうかがったところ、病死ではなかったらしい。何が原因であったのか、私ではお役に立てなかったのかと悔やまれた。・・・

 木村五郎の「突然の永眠」に関しては色々な噂が当時あったようだ、親交のあった彫刻家などの回想を読むとどうやら心臓の病気という事らしい。
 しかし、この市川氏の回想では【私ではお役に立てなかったのかと悔やまれた】そうはっきり書かれている。37才を晩年と呼ぶのは残念なことだが、「晩年にはスランプが続き思うように作品が出来なかったそうだ、奥方との折り合いも悪くなっていたそうだ」
 何とかきっかけを掴みたいと取り組んだ渾身の作品が最後となってしまった、昭和10年の日本美術院展に遺作として「牛」が出品された。その作品はご家族のご好意により 「伊豆大島木村五郎・農民美術資料館」 で展示させていただいている。

        isakuusishou.jpg





桶と薪をささぐ
画像 044

父は「水汲みの姿と薪を頭に乗せた人形」を60年彫り続けた。
その割合は圧倒的に「水汲みの姿」が多かった、元気な時に人形の印象を聞いたことがあった。
「薪を乗せた人形」は男性に人気があった、水桶は静かな印象のようで女性が多く求めてくれたそうだ。
求めに応じて彫ったようなので「薪を乗せた人形」は少なめでほとんど手許には残っていない。
資料館を開設した10年前に「水汲みの人形」は2000体あった、今も工房で販売しているが、薪の人形はもう在庫はなかった。
数カ所の売店に置いてもらっていたが、数年前に大きなホテルが廃業したときに従業員をしていた関係で売店にあった人形を記念にもらって来ていた人がいた。
その人が数日前に資料館へ来てくれて「記念にするには一体あれば充分だから」といって希少価値の薪を乗せた7体のあんこ人形を寄付してくれました(大きいのは24センチの高さがあります、大島桜材)。
私にとってはすべてが貴重な人形です。
映像で父と再会2
インタビューの中で 『何故あんこ人形なのか』 『跡継ぎについて』 こう答えている。

 「水桶を頭に乗せて水を運ぶ5人から10人くらいの若い娘たちの姿がパチパチビチビチと実にきれいで、若い姿に魅せられた。この姿を人形にして後世に伝えたいと思ってずっと彫り続けている。
子供に継げと言っても人形の値段が高くなってしまって話にならない、安くなければ買ってもらえない。一日に6000円の人形をひとつしか作れない、これじゃ後継者になれとは言えない。親の苦労を見ているから子供はやりたいとも言わない、やれとも言わない、どうしてもやりたいというなら別だが。
 何人か同じような人形を作る人がいたが、今は自分一人きりだ、後へ仕事を残したいとは思うが、結局は島自体がそういう人を面倒見てやろう、というようにならなければ無理だろう。いつまで出来るか分からないが元気なうちは彫り続けたい・・」

 「あんこ人形の彫り方を教える農民美術講習会」は昭和5年から6年にかけて大島で約2週間づつ3回開催された、父はその頃は東京にいたので講師の木村五郎から手ほどきは受けていない、父にとっては誰が教えたとか講習会があったとか、それは関心の外であった。木村五郎から伝授されて島人が作っていた人形の原型を「自分が魅せられた水汲みの姿形」に近づけていったのだと思う。
 写真の人形は農民美術講習会で伝授された島人が作った初期の水汲み・薪をささぐ女性の2体(高さ12センチ)、父が改良を重ねて最終的にたどり着いた4体の「あんこ人形」(高さ24センチ)。

       nitai2.jpg

50.jpg



昭和6年の大島風俗
ハマンカー写真7人

昭和初期の「水汲み風俗」の写真を2回続けて載せた。
写真を撮った場所と井戸と風呂屋の位置関係は判ったが、はっきりした年代と人物の特定が出来ていなかった。
これまでに何度か目にしていた「水汲み場」の一枚の写真と「七人の水運び風景」の写真を照合することできて年代がはっきりとした。
今回の写真(二人だけ正面を向いている左から二人目)のひとり、丸顔で目が大きな若い娘さんは階段の7人の写真の人と同じ人(下から三人目)に違いない、もう一人も一番上に写っている、おまけに両方とも水汲みの女性は7人だ、今回の写真は「日本地理風俗体系・昭和6年版」(発行所は新光社)に掲載されていたものだ。。
当時島の住人がカメラを持つことは稀であったと思われるから、「風俗体系」に写真を載せるために水汲み場と階段ほかで7人を撮影したもので、、その写真を関係者に配ったものではないだろうか、そして何と七人のうちの四人の方のお名前もわかった、縁戚の方に生れ年をお尋ねすれば当時の年齢も判るはずだ、十六才くらいだろうか。
たかだか80年数年前の証拠資料ということだけで大した意味は持たないと思われるかもしれないが、「大島風俗・あんこ人形」の資料館にとってこの写真と年代が特定できる資料は大変貴重な財産だ。

水汲み場
水汲みの娘
 水汲みの若い女たちが写る現場は何処だろうと考えた、当然ながら当時の面影の場所に心当たりはない。
 「大島の風景」として町の風景や風俗を残す資料を集めているがその中にヒントがあった、偶然にも現場の近くに住んでいた人が写真を見て場所を特定してくれたのだった。
今回の写真には「水汲みの井戸」から村道に出てきたか順番待ちをしている島娘たちが写っている、その坂道の奥に7人が並んで記念写真を撮った石の階段がある、石垣の家は柳瀬家であることも判った。
この水汲み井戸が南の浜川(ハマンカー)と呼ばれた場所に間違いない、写真には写っていないが左の角に宿屋があった筈だ、井戸の場所が特定できたことで、「大島の一部」を描いた画家坂本繁二郎の写生地と写真のハマンカーが一致した。
 当時は風呂屋が2軒有った、一軒は「かねこ」、もう一軒はまだ判らないがこの近くだったと聞いたこともある。
 文人藤森成吉の「若き日の悩み」(大正元年発表)には【・・・この湯はみんな、あんこ達が井戸から水桶に汲んで運んできた水を温めたものであることや、毎日あんこが、二人で朝から一斗ずつ汲み続けていることや、一杯が五厘五毛ずつで、一人が六十杯即ち六石ずつで・・・】と書かれている。
 ちなみに「あんこ」は一般的には島娘のことで、正式には姉子が変化した方言である。

電子媒体で検索
 インターネットで試しに「木村五郎」や「農民美術」などのキーワードを入力して検索してみると「農民美術」は信州の工芸品販売店の案内に使われたりしているが、その歴史や農民美術運動研究の資料にはなかなかたどりつくことはできない。上田の山本鼎記念館は運動の提唱者だから当たり前だが、「木村五郎」という名は秋田大湯の講習会で五郎さんから木彫を教わった版画家の故勝平得之の記念美術館(赤れんが館)などに足跡が見られるくらいだ。各地で行なわれた農民美術講習会に参加したり生み出された作品に影響を受けて木彫の道に進んだ人物として中村実、中村直人や諏訪の大和作内、武捨一久、牧内駿司らがあげられる。農民美術運動の提唱者である山本鼎に協力した芸術家には吉田白嶺、倉田白羊、山崎省三、平塚運一、恩地孝四郎、松原岳南(正業)や足立源一郎らがいるが、芸術家と農民美術の関係を記した文献は少ない。
 美術史家に書いていただいた「これは彫刻になっております」とパソコンに入力すると書籍販売のページが結構あるが書評などはみつけられない。
 私が開設している伊豆大島木村五郎・農民美術資料館のホームページと「伊豆大島木村五郎・農民美術資料館日記(ブログ)」とこの「あんこ人形誕生記(ブログ)」には伊豆大島・木村五郎・農民美術・あんこ人形・大島の風景・画家・彫刻などのヒントで辿りつくことができる。
 独学ではじめたパソコンなので見やすく品よくという訳にはゆかないが、何とか多くの人に見ていただければ、知っていただければ、そう思いながら木村五郎やあんこ人形に限らず、大島在住の芸術家の紹介や大島出身の洋画家中出那智子氏や大島の民謡を広めた故大島リキや歌舞伎義太夫の竹本葵太夫、赤穂義士の遺児間瀬定八の顕彰会の活動など折々に更新を続けている。

五郎さんの想い出②
 大島在住の藤井一恵さんの聞き取りの続き『シデ3号に掲載』抜粋

 この時にはもう奥様の迪子さんはいらっしゃっていて洋服姿の明るいモダンな綺麗な方でした。・・・
 五郎さんは下町の地味な人柄に対して、迪子さんは東京の山の手の婦人という印象で、五郎さんが無口なのに奥様は明るくよくお話する方で、何かちょっと合わないような感じでした。今で言うトンデル女とでも言うのでしょう。五郎さんが亡くなってから、迪子さんがどうなさったかは存じません。五郎さんのお葬式にも行ってます。その時の写真が、つい先日まであったのですが、今、何故か見つかりません。それがあれば、もっといろいろな人のお話ができるのですが。・・・
 父(大橋清史)は昭和48年に咽頭癌で亡くなりました。療養で大島に渡って来たくらいですから、若い頃は酒は飲まなかったようですが、ある年、祭りの幟旗に鐘馗様を書いたお礼に酒をふるまわれて飲んだのが始まりで、晩年には焼酎のお湯割りでした。酒が入って機嫌が良くなると「伊那節」を歌っていました。江戸っ子の父が何故、伊那節なのか。きっと、五郎さんと信州の旅で覚えたのでしょう。父の伊那節を物静かな五郎さんが優しいお顔で聞いて下さっている姿が浮かんできます。・・・
(抜粋)」
    20061108121417.jpg
昭和5年の7月、大橋清史氏の案内で大島へ旅行した時の写真(霊岸島あたりか)
前列右から木村五郎、石井鶴三、大内青圃、大内青坡(大内両氏は画家、五郎の奥さんの迪子さんの兄)、後列左が大橋清史
 
五郎さんの想い出①
 大島で五郎さんの作品や資料を大事に保管されてきた藤井一恵さんに『シデ』の大西編集長が聞き取りした話が平成8年の『シデ3号』に掲載された。
「五郎さんの思い出は私もまだ小さかった頃のことですから断片的にしか浮かんできません。それでも今度できた本の年譜を読んでいますと色々なことがはっきりしてきます。
 五郎さんは、三度の講習会の他にも度々大島へやって来ています。それは五郎さんの養子先の家と、私の父の家とが遠い親戚筋に当っていたからだろうと思います。
父の家は、人形町で提灯屋を私の祖父がやっていて、深川の建具屋の木村さんの家とは、歩いて往ったり来たりする間柄でした。私は小さい頃、木村さんの家に父に連れられて行ったことがありました。その時、子供心に『何となく他とは違う家だ』と感じたことを覚えています。年譜を見て、五郎さんが養子であり、稼業を継がなかったことなどで、理解ができたような気がします。
 父は若い頃は、画学生で本郷の学校に通っていました。それでお互いに家どうしで行ったり来たりする仲だった事から、五郎さんと親しくなったのではないでしょうか。私の祖父ちゃんは、「五郎ちゃん」と呼んでいました。
 五郎さんと会ったのは、大島へ来た時が初めてで、私が五才くらいの頃でしょうか。あまりおしゃべりしない、もの静かで優しい人の記憶があります。
五郎さんが大島へ来ると、大橋の家のインキョ(離れ)に大勢の人が集まって来ていました。何を話していたのかとか、彫刻をやっていたところなどは、実際に見た記憶はありません。・・・
 深川の木村さんの家に私が連れられて行った頃には、五郎さんはもう世田谷のアトリエの方に移っていて、ここにも何度かお邪魔しています。
どの電車で行ったのか、何と言う駅で降りたのかは覚えていませんが、駅を降りてお店や家並みがなくなると、橋を渡って大きな森を過ぎると田圃が広がっていて、その中にアトリエが建っていました。私は大島の藁葺きの家とか、東京の下町の家しかしりませんでしたから、モダンな五郎さんのアトリエにびっくりしました。玄関を入ると、大きな広間になっていて、そこには裸体の婦人像や動物などの彫刻がいっぱい並んでいて見事だったことを覚えています。その広間がアトリエで、その奥がリビングや生活の住いになっていました。(抜粋)
   20061107174645.jpg
昭和5年に世田谷横根に建てられたアトリエ(現在の小田急千歳船橋駅近く)
屋根ふさがる
天井まで伸びた枠が繋がり、外壁が打たれた。球型なので足場の組み方が複雑、てっぺんに登ってみるとけっこう高い。枠に外からと内側から板が張られるから5センチくらいの空洞が建物の真ん中にできる。断熱材は必要ないだろうと言う話なのでなしにした。準防火地域なので屋根にはシートを貼って不燃のコロニアルを被せると言う。雨の心配がなくなって内部はじっくりと板張りが続く。

20061102144042.jpg 20061102144054.jpg  20061101175413.jpg
工事は進む
6月に入ってみるみる建物は丸くなってきた。
屋根がつくまで急ピッチで工事は進んだ。
20061101175349.jpg 20061101175401.jpg  
   地中の基礎     高めの床から半円が建ちあがる 
第4章 残りの人生スタート
私は平成11年3月末に29年お世話になった東京都の職員を辞した。退職のセレモニーで「あんこ人形の継承」を宣言した、めでたく定年退職をされる先輩達が毎年声を詰まらせて挨拶をしてきた舞台だったが、何とか堪えることができた。。
 東京都港区に10年、大島に戻って19年、11の職場を渡り歩き、いろんな経験をしてきた。大きな組織を離れて一人になって何ができるのだろうか、「無事に卒業を迎えた」という晴れがましい立場にはなく、大きな不安を抱えたまま残り半分の人生がスタートした。

資料館の名称
父が営んできた木彫土産店の屋号は「御神火堂」だった。大島は同じ苗字が多いので、屋号で呼ぶ習慣が今もあり、島人が「御神火堂」と聞けば「あんこ人形を作る藤井重治のこと」とすぐに判る。しかし「藤井工房」では今風で何をする所なのか、まったくイメージ出来ないだろうことは承知して名付けた。私設の資料館だが、父個人の資料だけではなく、大島の農民美術活動に係わった人の資料を展示して、大島の風俗風習を伝え続ける場所、島の人に受け入れて貰えそうな名前を考えた。農民美術に係わった人の人形が一体でも多く展示できる、展示させてもらえる可能性がある名称にこだわった。五郎さんの人形彫刻講習会で学んだ方のご家族を訪ねて「人形が残っていないか」と聞いたことが何度かあったが、あんこ人形の資料館を作って誠意を持って運営して行けば、いつか関連する資料や人形を展示させてくれるかもしれない、そう感じた。思うことを形にする前から「あれないか、これないか」と聞き歩くことより、「資料館に行ったらあんこ人形が展示してあったけど、家にもあるから一緒に飾れば」そう言ってもらえるような身近な展示館にしたいと考えた。農民美術より「あんこ人形」のほうが柔らかくて親しみやすい名前だが、来た人が「木村五郎って誰だ、農民美術って何だ」と疑問を持って見て頭の片隅に記憶してもらえれば死語にはならない。勿論「御神火堂藤井重治の人形」あんこ人形一筋に60年彫り続けた父の功績をしっかり伝える場所にするつもりでいた。
一つの建物に「木村五郎・大島農民美術資料館」「藤井工房」の同居になる。



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。