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<title>あんこ人形誕生記</title>
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<description>昭和初期、伊豆大島に生まれた農民美術「あんこ人形」、
島人に彫刻を指導した彫刻家木村五郎、60年彫り続けた職人の父、人形生誕から資料館を開くまでの回想と資料館の今と未来を記す</description>
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<title>和田三造展図録</title>
<description> 姫路市立美術館で９月１２日から１０月２５日まで「和田三造展」が行なわれた、その展覧会図録をようやく入手することができた。大島に関連した作品は「南風」と「伊豆大島乳ケ崎沖より伊豆天城山及び富士を望む」の二点が出品されたことは知っていたが、図録を見て展覧会全体の構成を知ることができた。参考資料の中に、１９０５（明治３８）年に描かれた「乳搾り」「大島婦人」という写真図録が掲載されていた。　また、三蔵法師
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<![CDATA[ <a href="http://blog-imgs-35.fc2.com/a/n/k/ankosan/200911141437226a6.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-35.fc2.com/a/n/k/ankosan/200911141437226a6.jpg" alt="和田三造展ポスター" border="0" width="400" height="566" /></a><br /><br />姫路市立美術館で９月１２日から１０月２５日まで「和田三造展」が行なわれた、その展覧会図録をようやく入手することができた。大島に関連した作品は「南風」と「伊豆大島乳ケ崎沖より伊豆天城山及び富士を望む」の二点が出品されたことは知っていたが、図録を見て展覧会全体の構成を知ることができた。<br />参考資料の中に、１９０５（明治３８）年に描かれた「乳搾り」「大島婦人」という写真図録が掲載されていた。<br />　また、三蔵法師の筆名で三造が「大島日記」を書いていたこともわかった、遭難して大島にたどり着くまでの記述がされていると思われる、この日記は近々目にすることが出来そうなので楽しみだ。　個人画家の展覧会をすれば、その画家のすべての文献資料のリストが図録の最後に添付されるので、現在の最大数のデーターを入手することができる。<br />　その意味からも、「伊豆大島を描いた画家」の展覧会をどこかの美術館が企画してくれないか、そうずっと願ってきた、実現すれば専門家の手による文献資料を居ながらにして入手することができるのだ。<br />　今回の和田三造展の図録を読んで、「大島の風景展」やってくれる美術館はなかろうか、またそう思ってしまった。 ]]>
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<dc:subject>大島の風景</dc:subject>
<dc:date>2009-11-14T14:56:10+09:00</dc:date>
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<title>伊豆大島発「和田三造と大島」⑥</title>
<description> 画家で小説家の有島生馬は大正８年に雑誌『改造』に発表した「大島の桃源郷」のなかで【・・大島の話は度々人から聞き、度々人の書いたもので見た。然し何といっても最初に然も最も深くそこの興味を私に印象させたのは和田君に外ならなかった。・・三造君は、巴里に来ても大島の美を説いた。・・世界の都の巴里の街も、君にとってはびょうたる相模洋の椿の木陰の寂かさには及ぶべくもないように見えた。｢早く日本に帰って大島へ行
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<![CDATA[ 画家で小説家の有島生馬は大正８年に雑誌『改造』に発表した「大島の桃源郷」のなかで<br /><br />【<span style="color:#009900">・・大島の話は度々人から聞き、度々人の書いたもので見た。然し何といっても最初に然も最も深くそこの興味を私に印象させたのは和田君に外ならなかった。・・三造君は、巴里に来ても大島の美を説いた。・・<br />世界の都の巴里の街も、君にとってはびょうたる相模洋の椿の木陰の寂かさには及ぶべくもないように見えた。｢早く日本に帰って大島へ行きたいな｣とは度々君の巴里で漏らす嘆声であった。</span>】<br /><br />　と書いている、「南風」が入賞した褒美の渡航先での出来事で、まちがいなく大島と相思相愛になった最初の画家だったと思わせるエピソードではないだろうか。<br /><br />　哲学者の井上円了は明治４２年に来島した時、大島の情景を<span style="color:#009900">「富士を見るなら大島に来れ三保や竜華寺の比ではない」「大島に風と牛糞なかりせば不寒不熱の極楽の里」</span>と詠んでいる。<br />　伊豆大島に何故画家はやってきたのか、何を描いたのか、大島の風景が画家に何か影響を与えたのだろうか、多くの画家の作品を調べてゆくことで、大島がどんな島で何がある島なのか、おぼろげながら分かってくるだろうことを期待してこれからも「画家が描いた大島の風景」の調査を続けて行きたいと思っています。<br />　<a href="http://www.island-net.or.jp/~ankosan/sub4.html" target="_blank" title="伊豆大島を作品を描いた画家と作品名、来島したことは確認できたが、まだ作品に行き着けない画家などのリスト　をHP">伊豆大島を作品を描いた画家と作品名、来島したことは確認できたが、まだ作品に行き着けない画家などのリスト</a>　をHPで公開しています、何かご存じの方がありましたらご一報いただければ幸いです。<br />　画家に限らず文人墨客の大島に関する資料の頒布は可能ですのでご照会ください。<br />「美の巨人たち　和田三造ー南風」放映を記念して手持ち資料をまとめてみました。 ]]>
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<dc:subject>大島の風景</dc:subject>
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<title>伊豆大島発「和田三造と大島」番外編</title>
<description> 多くの画家が伊豆大島にやってきたが、特に大正期から昭和１２年頃までが目立って多い。宣伝媒体のあまりなかった時代に画家たちはどうして大島の存在を知ったのだろうか。幾つかあげられる、和田三造「南風」の入賞や美術学校教授の存在、美術雑誌のなかでの紹介、タヒチを描いたゴーギャンの作品の情報などなど。私が思い当たるのは本土から見えた「伊豆大島の姿」も一因ではなかったか、ということだ。画家たちはきっと写生目的
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<![CDATA[ 多くの画家が伊豆大島にやってきたが、特に大正期から昭和１２年頃までが目立って多い。宣伝媒体のあまりなかった時代に画家たちはどうして大島の存在を知ったのだろうか。<br />幾つかあげられる、和田三造「南風」の入賞や美術学校教授の存在、美術雑誌のなかでの紹介、タヒチを描いたゴーギャンの作品の情報などなど。<br />私が思い当たるのは本土から見えた「伊豆大島の姿」も一因ではなかったか、ということだ。画家たちはきっと写生目的で近場の伊豆や房総半島に出かけているはずで、当時の移動は船が中心だったと思われる、東京湾内の汽船の発着所は大島便も着く霊岸島の桟橋だった。青木繁や森田恒友らが房総に出かけた時も船だったかも知れない、青木繁の海の作品には洋上の大島がはっきりと描かれている。中村彝は療養や油絵制作のために房総の白浜や布良に行っている、その時に大島の姿を見て後年大島にやってきたのかもしれない。<br />画家の曽宮一念は房総の野島崎から見た大島と三原山の噴煙をスケッチしているが、このようにぽっかりと浮んだように見える南の島に渡ってみたい、と思った人が多かったのではないだろうか、山本鼎や児玉希望、硲伊之助は伊豆から見える大島を描いている。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/200910181109347d8.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/200910181109347d8.jpg" alt="熱川から大島2" border="0" width="367" height="235" /></a><br />    　　　 伊豆熱川から見える伊豆大島（絵葉書にはー夢の国、歌の大島が指呼の中に　とある）<br /><br /><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/200910181110276ca.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/200910181110276ca.jpg" alt="布良からの大島画像" border="0" width="367" height="260" /></a><br />    　　　 房総から見える伊豆大島<br /><br /><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/20091018111841906.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/20091018111841906.jpg" alt="曽宮一念大島噴火" border="0" width="400" height="361" /></a><br />　　　　　曽宮一念「大島噴火」<br /><br /> ]]>
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<dc:subject>大島の風景</dc:subject>
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<title>伊豆大島発「和田三造と大島」⑤</title>
<description> 和田三造の「南風」がきっかけとなって伊豆大島が知られるようになり、多くの画家たちが「伊豆大島」を訪れるようになった。画学生からすでに名を知られた画家まで、洋画・日本画・工芸のジャンルを問わず来島して作品を残している。　大島には一人で来たり友人と一緒に来てデッサンをしたり、療養に来たりと様々だが、時代が昭和に入ると伊東深水らの「郷土会」川瀬巴水・笠松紫浪・横尾芳月・山川秀峰・千島華洋・武藤嘉門・山田
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<![CDATA[  和田三造の「南風」がきっかけとなって伊豆大島が知られるようになり、多くの画家たちが「伊豆大島」を訪れるようになった。画学生からすでに名を知られた画家まで、洋画・日本画・工芸のジャンルを問わず来島して作品を残している。<br />　大島には一人で来たり友人と一緒に来てデッサンをしたり、療養に来たりと様々だが、時代が昭和に入ると伊東深水らの「郷土会」川瀬巴水・笠松紫浪・横尾芳月・山川秀峰・千島華洋・武藤嘉門・山田喜作・門井掬水や、西沢笛畝らの「離騒社」田中咄哉州・飛田周山・松本姿水。荻生天泉・太田三郎・瀬野覚蔵・石川宰三郎・金井紫雲ら、新制作協会設立に係わった猪熊弦一郎・栢森義・脇田和・中西利雄・三田康・田村一男・有岡一郎・笹森彪・下田範次・池島清ら１０数名、漫画家前川千帆らの「大島漫画行」池田永一治・水島爾保布・池部鈞・服部亮英・細木原青起、中村善策・硲伊之助・田崎広助・松本弘二など、グループでの来島が目立つようになった。<br />　２６人で大挙来島したグループに「春台会」がある、昭和６年に訪れて三原山に登ったり蒸し風呂に入ったりして島を満喫している様子が昭和６年『アトリエ６月号』「大島に遊ぶ」に描かれている、参加者は岡田三郎助、辻永、和田三造らだった。<br />　文中に和田三造の名が出てくる<br /><span style="color:#009900">　「・・・島の人家の灯がちらちらと見え出す時右手に見ていた灯台は左手に光芒を放っていた。程なく人家の灯の中に人の動きも見えるような場所に近づいて船は入港の汽笛をボーと長く島へこだまさせて停った。桟橋に動く提灯と人影の中から、渡船の発動機の音がポンポンとしだした。渡船を上ると、「千代や」という提灯が案内してくれる、暗い坂道を突当った宿がそれで、二階の定めの部屋に先づ落ちついた。一時騒々しかった桟橋も、もとの静寂に帰って、吾々を運んだ菊丸が素晴しく明るく浮んでいる。続いて、三十遅れて霊岸島を発した橘丸が錨を下す。これには遅刻組の和田三造氏や斎藤五百枝氏が乗って来る筈であった。番茶と牛乳煎餅で空腹を一時押えた一同は廊下に立ならんで皆海を眺めている。その内に和田三造氏が「やア」と元気よく現れる。午前四時である。<br />　・・この千代屋は三十年前に和田三造氏が傑作「南風」を生んだ頃に、始めて今日の美術家と大島の親近さを開拓したその家なのである。下の茶の間にも和田さんの油絵があるし、吾々の部屋にも日本画で猿回しを描いた達筆の横額がかかっている。「昔この家へ来て和田三造さんを知っているかと聞かれて、知らないと言うと、お前はゑかきぢゃないと叱かられたもんだ」と誰やらがいうと御本尊の和田さんは一寸きまりの悪いような顔をしたように思った。」</span><br /><br />　アトリエに紀行記が載った前後、新聞紙名不詳だが日刊新聞に「伊豆大島行」のタイトルで春台会大島旅行に参加した岡田三郎助・加藤静児・辻永・太田三郎・山崎坤象・松山省三・吉田久継・草光信成・中村研一・矢島甲子太郎ら１１人の画家の作品が連載で紹介された。ほとんどの画家が島の風景や名物を描き留めているが、和田三造だけは「在来の民家の台所兼食堂兼応接間」という島のありきたりな日常を描いている。<br />　和田三造は昭和１５年に｢伊豆大島乳ケ崎から伊豆天城山及び富士山を望む｣という風景画を発表している、「南風」を描いてからずっと大島に通っていたのだろう、富士山を望む作品以降の大島を描いた作品にまだ出会っていない。<br /><br />　　<a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/20091017105314ce5.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/20091017105314ce5.jpg" alt="画像 003" border="0" width="400" height="315" /></a><br />　　　　　新聞切抜き　【伊豆大島行（１）から（１１）】<br /><br />　　<a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/20091017105410b70.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/20091017105410b70.jpg" alt="和田三造" border="0" width="463" height="500" /></a><br />　　　　　和田三造の　【伊豆大島行（６）「元村の民家」】<br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>大島の風景</dc:subject>
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<title>伊豆大島発「和田三造と大島」④</title>
<description> 　和田三造の名前は作家里見とん『麦』（明治４２年）に掲載された雑記帳の「大島ゆき」に出てくる。　里見が泊まる予定の宿屋にはすでに一人の画家がおり、余りよい印象を持てず、知人宛の通信に画家の悪口を書いて出している、その続きの文章となる。　「前便大いに悪口を書いてやった画家は、今朝宿帳を見て橋本邦助である事が解った。あの場合あの顔を見ては大に感じを悪くする、悪口をいうのは恐らく己ばかりではあるまい、然
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<![CDATA[ 　和田三造の名前は作家里見とん『麦』（明治４２年）に掲載された雑記帳の「大島ゆき」に出てくる。<br />　里見が泊まる予定の宿屋にはすでに一人の画家がおり、余りよい印象を持てず、知人宛の通信に画家の悪口を書いて出している、その続きの文章となる。<br /><br /><span style="color:#009900">　「前便大いに悪口を書いてやった画家は、今朝宿帳を見て橋本邦助である事が解った。あの場合あの顔を見ては大に感じを悪くする、悪口をいうのは恐らく己ばかりではあるまい、然し見識のない話だ、夫で大に前非を悔いて午後からは訪問記者の顔をして出かけた、先づ名刺を出して「かう云ふものですが繪を拝見させてくださいませんか」と云った、案外気軽な人で直に招じ入れてくれた、見識のない事をいう様だが今更めて見ればやっぱりそんなに下手な繪ではない、然し富士山を描た方はどうも面白くない、今一枚の大きなかきかけの繪は良くなり相だ、秋の展覧会に出すと云っていた・・・・和田三造君の事が其の内ここに来る筈だと云っていた、およそ一時間近くも話して帰った。・・波浮につれて行かれていた和田三造は赤いどてらを着てはしけから躍り出した。」</span><br /><br />　悪口を言われた画家橋本邦助は明治４３年４．２７日付　「巴里日記」で<br /><br />　<span style="color:#009900">「横浜出発・・・船は大島の極く近くを通る。一昨年の冬和田と一所にそこに遊びに来ていたのだ。其の時知り合いになった人々の事を想い出して懐かしかった。日没時の紅の空の中に、紫色をなした富士がすっくと立っているのが雄々しい、やがて天も海も蒼ざめて来ると大島の麓に当って灯が一つ二つ見える・・・」</span><br /><br />　一緒に大島に来た画家の橋本邦助は１９０９（明治４２）年に「大島の海」という宿があった元村（現在の元町）から見える伊豆半島と海を描いた「大島の海」を発表している。<br />　　　　　　　　<a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/200910161151289a2.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/200910161151289a2.jpg" alt="橋本邦助大島の海" border="0" width="400" height="304" /></a><br /> ]]>
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<title>伊豆大島発「和田三造と大島」③</title>
<description> 大島のローカル新聞に興味深い記事が載っている。和田三造と思われる青年が「渡辺市道」として紹介されている、「アカフン画伯(上)」の続編が掲載された形跡はない。誰が書いたものか、中身の信憑性は定かではないがすべてが作り話でもあるまい。《島と恋―アカフン画伯（上）》　「島の新聞」昭和１０年１１月１０日号に掲載「ホレ、みろよ、またアカフンが泳いでいるよ・・・」「ほんとだ、よっぽど海が好きだとみえる毎日水泳だ
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<![CDATA[ 大島のローカル新聞に興味深い記事が載っている。和田三造と思われる青年が「渡辺市道」として紹介されている、「アカフン画伯(上)」の続編が掲載された形跡はない。誰が書いたものか、中身の信憑性は定かではないがすべてが作り話でもあるまい。<br /><br />《島と恋―アカフン画伯（上）》　「島の新聞」昭和１０年１１月１０日号に掲載<br /><br />「<span style="color:#009900">ホレ、みろよ、またアカフンが泳いでいるよ・・・」「ほんとだ、よっぽど海が好きだとみえる毎日水泳だ　ねえこたあないね」<br />真夏の陽が、ギラギラ紺碧の海面に光っている、その海を真下に見下せる岩の上に起ったアンコ二人が、海面を指して話している。なるほど見ると、髪の毛を海草のようにもじゃもじゃにした真黒な男が愉快でたまらないように、白い波しぶきをあげながら、泳ぎまわっている。<br />「アカフンさアーン」巌頭のアンコが呼ぶと、「オーイ・・」と太い声で答えて、ブルブルツと水をきってあがってきた。逞しい裸体に赤い褌一本をしめた精悍な面魂しいの青年である。<br />日露の風雲漸く急を告げつつあった明治三十七年の夏の事である。「アカフン」と呼ばれる青年はそのころ珍しい美術学校の生徒で、陸軍大将の息子の友達と二人で、夏休みを利用しこの島にスケッチがてらの遊びにきていたのだ。<br />この青年こそいま我が洋画だんの第一人者として推しも推されもしない帝展審査員Y氏であるが、ここには仮に渡辺市道氏と呼ばせてもらう。<br />老画伯若き日のホロ苦い恋愛史の一ページを、彩管ならぬ拙ないペンに託して描き出そうというのである。<br />「内地の人」殊に若い学生は珍らしかった。画学生渡辺君とその友達太田君は、俄然村中の人気者となっていた。「オイ太田、来てみて意外いい感じぢゃないか大島というと大変な離れ島みたいに思っていたがなかなか捨て難い味がある、アンコは美人だし，景色は芸術的だし・・」「ウン、俺も気に入ったよ、この分なら夏休み中いてもいいなア・・」<br />二人もはじめての大島がすっかり気に入ってしまった、千代屋に泊まっていて、朝早くから絵具で汚ごれた洋服の肩に絵具箱をかけてカンヴァスをもって、スケッチに出かけた、帰って来ると赤褌をしめて浜に出て，泳ぎ廻っていた。<br />「折角やってきたんだから、なにか想い出になるようなロマンスをつくろうぢゃないか」「ロマンス？柄にもないことだが，つくれるものなら、つくるのもよかろう」こんな冗談をいっていたのだがその冗談が現実となって現われる日が来た。<br />そのころ元村一といわれる美人は、藤の湯のそばの平井油店の一人娘おやすさんだった、幼い時に両親を失って、お婆さんの手一つで育てられた可憐な娘だった。<br />海岸にある元村唯一つの井戸から、水を汲んで、その桶を頭に乗せて藤の湯に運ぶのだ、この近所の娘たちの毎日の仕事だったからこの井戸が娘たちの話題を生む井戸ともなっていた。<br />「あのアカフンがなｱ―・・・」「アカフンがどうかしたんかい・・・」「ウンとても面白いんだよ、おやすさんにおぼしめしがあるんだとサ、選りに選って村一番の美人にあの黒坊が惚れたんだから面白いぢゃないか」<br />「ハハハ・・・」娘たちが賑やかに笑った時だった。「なんだなんだ、なにかおかしいことがあるのかい？」ぬーッと入ってきたのは、いま話題の主人公渡辺君だった。「いい話してたんだよ、アカフンさんが恋をしてるッて話・・」「なに俺が恋をしてるッ　ウハハ・・」眼を丸くしてひょうきんに笑っってみせたが、その眼の底にはなにか真実のものがあった。<br />「よし、そんないい話があるんなら、みんなにおごってやろう」そういったと思うと駆け出してキンツバを買ってきた、思わぬ御馳走に、娘たちはキャッキャッとはしゃいでいた。<br />それから間もなく、千代屋の二階で、おやすさんをモデルに、渡辺君は大作をものしはじめたのである。</span><br /><br /><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/20091014104028091.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/20091014104028091.jpg" alt="画像 091" border="0" width="400" height="218" /></a><br /> ]]>
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<dc:subject>大島の風景</dc:subject>
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<title>伊豆大島発「和田三造と大島」②</title>
<description> 　和田三造は明治３７年の白馬会展覧会に９点の作品を出品している。毎日新聞の白馬会展覧会評欄で「為朝百合」「槿（もくげ）の花」「霊岸島」｢雨の波｣「暮れの務め」「三原山の絵」といったタイトルの作品が論評されている。　「暮れの務め」について、【褐色のまだらの牛のそばで男が座って乳を搾り、女は桶を頭に載せて過ぎようとしている】、そんな光景だと書かれているので大島が題材の作品だ。　霊岸島は当時大島行きの船舶
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<![CDATA[ 　和田三造は明治３７年の白馬会展覧会に９点の作品を出品している。毎日新聞の白馬会展覧会評欄で「為朝百合」「槿（もくげ）の花」「霊岸島」｢雨の波｣「暮れの務め」「三原山の絵」といったタイトルの作品が論評されている。<br />　「暮れの務め」について、【褐色のまだらの牛のそばで男が座って乳を搾り、女は桶を頭に載せて過ぎようとしている】、そんな光景だと書かれているので大島が題材の作品だ。<br />　霊岸島は当時大島行きの船舶の発着場所の地名で、現在の中央区新川にあった東海汽船の桟橋付近の風景を描いたものだと思われる。<br />　「大島婦人の肖像」の下絵と思われるような和田三造が板に描いた婦人の姿像が「島の新聞昭和１２年２月１４日号」にカットとして【和田三造筆島娘】として掲載された、千代屋にあったものとおもわれるが、今この作品の所在は調査中だ。　<br />　白馬会１０周年展覧会（明治３８年）には｢伊豆大島風景｣を出品している、残念ながら白馬会に出品した作品図録はまだ１点も確認することができていない。<br />　「南風」と同じ頃に｢大島を望む｣という船上からみた大島の姿を板に描いている、両作品とも近代美術館が所蔵している。<br />　和田家でしばらく暮したという工芸家の山形駒太郎は、【アトリエで『三原山・五十号』や大島のアンコの像数点を見た、大島元町（旧元村）の旅館千代屋には、先生の小品が数点ありましたが、先頃の大火でうしなわれたのでしょう。惜しいことです。】と回想している。<br />　和田三造が定宿としていた元村の千代屋にはサイン入りの絵があったが昭和４０年の大火で焼失してしまった。また、元村吉谷神社例大祭に掲げる｢三原大明神｣の大きな幟旗の文字を和田三造が頼まれ書いているが、これも大火で無くなってしまった。旅館「千代屋」の主人が仲介して書いたもらったもので、旅館近くの「浜宮様」に掲げられていたと聞いた。村人にとって大切なお祭のシンボルであるお旗の文字を揮毫してもらいたいと思わせたことは、三造が地元にすっかり溶け込み、歓迎もされ、信頼もされた証ではないだろうか。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/20091013105925c1e.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/20091013105925c1e.jpg" alt="和田三造千代や" border="0" width="400" height="278" /></a><br />和田三造が泊まった頃の「千代屋」　眼下に前浜（船着き場）が見える高台にあった<br /><br /><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/20091013104451832.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/20091013104451832.jpg" alt="和田三造島娘" border="0" width="400" height="744" /></a><br />S,WADA（島娘と読めるか）のサインが入った板画<br /><br /><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/200910131036341d0.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/200910131036341d0.jpg" alt="あんこ油売り明治45年" border="0" width="360" height="549" /></a><br />絵葉書で年代特定することは難しいが「大島風俗　油売」（明治４５年）と書いてある、水桶と椿油缶を頭に乗せて運ぶご婦人の普段着姿<br /> ]]>
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<dc:subject>大島の風景</dc:subject>
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<title>伊豆大島発「和田三造と大島」①</title>
<description> 　東京から洋上遥か１２０キロに浮ぶ伊豆大島はこれまでに様々な分野の芸術家を迎えてきた。特に明治の後期から昭和の初期にかけて画家たちは「大成したければ大島を描け」を合言葉として競ってやってきた。　なぜ画家は大島にやって来たのか、そしてどんな風景を描いたのか、大島が画家に何かを与えることができたのだろうか。　「伊豆大島」を描いてその存在を世に知らしめた最初の画家として  和田三造「南風」　【美の巨人たち
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<![CDATA[ 　東京から洋上遥か１２０キロに浮ぶ伊豆大島はこれまでに様々な分野の芸術家を迎えてきた。特に明治の後期から昭和の初期にかけて画家たちは「大成したければ大島を描け」を合言葉として競ってやってきた。<br />　なぜ画家は大島にやって来たのか、そしてどんな風景を描いたのか、大島が画家に何かを与えることができたのだろうか。<br />　「伊豆大島」を描いてその存在を世に知らしめた最初の画家として  <a href="http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/data/onair/index.html" target="_blank" title="和田三造「南風」【">和田三造「南風」　【美の巨人たち　一枚の絵】　</a>があげられる。<br />　東京美術学校で油絵を学んでいた明治３５年（19才）に八丈島を目指して伊豆の伊東から郵便船に乗り込み、大島に辿り着くことになった劇的なエピソードを和田三造は語っている。<br /><br />《「晩帰」「南風」の頃》和田三造著　美術雑誌「アトリエ」（昭和３年８月号）から抜粋<br /><br /><span style="color:#009900">・・・『南風』を描いたのが二十三の時だ。これを描こうとするまでにはロマンスがある。其の時分僕は伊豆の大島などの存在を知らず、東京湾の向こうは漠然として唯歌などで八丈島という名を聞いて其処へ行きたいと思っていた。<br />或月明の晩に伊豆の伊東から八丈島通いの郵便船に乗った。小さな船で気持ちよく海面を滑っていたが、夜半から俄かに暴風雨になって、全く文字通り木の葉のように翻弄され始めた。僕は海の荒れる様を此の時つくづく見た。風雨は刻々其の勢いを増して帆柱は折れ、帆は風に奪われて、船は唯波涛の怒りに任せるほか無くなった。<br />・・・其のうちに老船長は『少しでも船の荷を軽くして船を助けたいから済まんことだが皆さんの荷物を捨てて貰い度い』という。・・・僕は小さな風呂敷包み行李を持っていたので、船酔いの苦しい中で行李を引き出して捨てようとした。すると老船長は「書生さんはまあお待ちなさい。貴方はまだ未来のある人だ、万一貴方の荷物を捨てる時は此の船も郵便物と一緒に沈む時だ、万一助かった時に貴方が仕事ができない。さあお待ちなさい」と止めてくれた。<br />僕は此の時まったく感激した。風雨は過ぎても山なす波涛は止まず、或る時は苦しい頭をあげると大島が烈日に照らされて大きく見えた。それもいつのまにか遠く波の間にわからなくなった。<br />こうして漂流すること三日間、ようやく大島に辿り着く事が出来た。海岸では郵便船が着かないので大勢海岸に集まって騒いでいた、其処へ漂流の間に濡れ汚れた着物に蓬のように乱れた長髪という装いで上陸したので島の人は皆びっくりしてしまった。<br />・・・八丈島へ行く積りが存在も知らない大島へ漂流したわけだ。画家が大島へ渡ったのは僕が皮切りで、其の後大島は東京の美術家の写生地になった。此の時で郵便船の老船長は責任の重い此の仕事はとても老人には続けられないと辞してしまった。此の船長に対する感謝と記念の為に『南風』を描く気になって、其の為に郵便船に乗って何度か、此の間を往復して構想を練った。・・・</span></span></span></span>　<br /><br />　和田三造を一躍有名にした「南風」は１９才の美大生が死と直面したこのような体験がきっかけとなったのだ。何度も大島にやってきて絵を描きこみ、２３才の時に記念すべき第１回文展（明治４０年）で最高賞を受けた、作品には漁船に乗った四人の姿が描かれている。四人の人物像については和田三造が学生の時に習った柔道の先生や三造の分身ではないかという説がある。<br />　「漁師だった父から絵描きの和田三造を何度も船に乗せて釣りに出たと聞いた、帽子を被って座っている青年は父の若い時の顔に似ている」という話を大分前に島の古老から聞いたことがある、描かれている風景は野増という村の南の千波崎沖で大島をバックにして雲が北に流されている南風（みなみかぜ）の日の風景だろうという。<br />　大島の形は三原山を真ん中にしてなだらかな稜線が特徴でこの当時噴煙を上げていたとしても穏やかな島の印象を与えていたはずだ、「南風」に描かれた大島は左半分が隠れてしまっているが三角おむすび型に近く「隣の利島ではないか」そう思わせる形をしている。しかし、よく見ると絵の右側の稜線が長く平らな岬のように描かれている、波浮港の北側にあるトオシキ岬だと思われる、そうすると船の居る場所は元町と波浮港の中間にある好漁場の千波崎の沖合ということになりそうだ。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/20091012112935708.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/20091012112935708.jpg" alt="画像 002" border="0" width="400" height="403" /></a><br />「南風」に描かれた右端に坐っている青年像<br /><br /><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/200910121130354d5.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/200910121130354d5.jpg" alt="古い福蔵" border="0" width="400" height="553" /></a><br />和田三造を漁船によく乗せたという福蔵丸の船長、晩年の写真だが、明治４０年なら３２才だった。<br /><br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>未分類</dc:subject>
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<title>大島の風景「和田三造の南風」</title>
<description> 　伊豆大島を世に知らしめた最初の画家和田三造の【南風】をテーマにした番組が明日放送される。「南風」と言えば伊豆大島が舞台だ、取材班が来島されて私のところにも見えたので資料を提供し、インタビューにも応えたが、どういう番組構成で「南風」が紹介されるのだろうか。　明日の番組を見てから、自分なりの思い入れで補足版として「伊豆大島ー和田三造と南風」のタイトルでこのブログで紹介してみたいと思っている。　「美の
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<![CDATA[ 　伊豆大島を世に知らしめた最初の画家和田三造の【南風】をテーマにした番組が明日放送される。「南風」と言えば伊豆大島が舞台だ、取材班が来島されて私のところにも見えたので資料を提供し、インタビューにも応えたが、どういう番組構成で「南風」が紹介されるのだろうか。<br />　明日の番組を見てから、自分なりの思い入れで補足版として「伊豆大島ー和田三造と南風」のタイトルでこのブログで紹介してみたいと思っている。<br />　「美の巨人たち」は今時めずらしく良心的な番組だと思うので期待したい。<br />　大島ゆかりの大事な画家だと私は思っているので、少しでも番組のお役に立てていれば嬉しいし、ちょっと出番がありそうだが美術に素人の私が「場違い」に映ってなければいいと願っている。<br /><br />　　　<a href="http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/index.html" target="_blank" title="１０月１０日（土）　テレビ東京　「美の巨人たち」　　午後１０時から　　和田三造の「南風」">１０月１０日（土）　テレビ東京　「美の巨人たち」　　午後１０時から　　和田三造の「南風」</a><br /><br /> ]]>
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<title>観音像の行き先</title>
<description> 　市川家にずっと収蔵されていた「観音像、直に見たわけではないが写真で紹介した聖観音像（多分）」はお住まいから婦選会館へ移されて収蔵されている、そういうお話をお聞きしました。　展示されているかどうか分かりませんが、木村五郎との交流の証しとしてずっと伝えて行ってもらいたいものです。　今回本文は転記しませんでしたが、婦選昭和１０年９月号にお別れの手記「木村五郎氏の訃」を市川房枝氏は書いています。　（木村
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<![CDATA[ 　市川家にずっと収蔵されていた「観音像、直に見たわけではないが写真で紹介した聖観音像（多分）」はお住まいから婦選会館へ移されて収蔵されている、そういうお話をお聞きしました。<br />　展示されているかどうか分かりませんが、木村五郎との交流の証しとしてずっと伝えて行ってもらいたいものです。<br />　今回本文は転記しませんでしたが、婦選昭和１０年９月号にお別れの手記「木村五郎氏の訃」を市川房枝氏は書いています。<br /><br />　（木村五郎・あんこ人形・農民美術・大島の風景などに関する新しい資料などの発掘が有ったとき　に随時紹介してゆきたいと思います） ]]>
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<dc:subject>彫刻家木村五郎</dc:subject>
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<title>五郎胸像未完</title>
<description> 　伊豆大島木村五郎研究会が企画・資料提供して千田敬一氏(元碌山美術館学芸員・日本近代彫刻史研究家）に執筆していただき出版することができた『「これは彫刻になっております」木村五郎の彫刻とその生涯』の中で著者は市川房枝の胸像について「五郎の女人恋慕」の項で触れている。・・彫刻家五郎には、信念に燃えて仕事をする市川さんが本当に生き生きした美人に見えたのでしょう。むろん、市川さんに惹かれるものがあってのこ
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<![CDATA[ 　伊豆大島木村五郎研究会が企画・資料提供して千田敬一氏(元碌山美術館学芸員・日本近代彫刻史研究家）に執筆していただき出版することができた『「これは彫刻になっております」木村五郎の彫刻とその生涯』の中で著者は市川房枝の胸像について「五郎の女人恋慕」の項で触れている。<br /><br /><span style="color:#006600">・・彫刻家五郎には、信念に燃えて仕事をする市川さんが本当に生き生きした美人に見えたのでしょう。むろん、市川さんに惹かれるものがあってのことでしょうが、それを表に出す自信が無かったと思います。・・五郎には市川さんの人格が彫刻に十分に表れていると思えなかったのでしょう。<br />五郎は何故市川さんの胸像を完成できなかったのでしょう。もし完成していれば、五郎の作品のなかで重要な位置を占めるものになったと思われます。・・五郎は最初、市川さんの大きな人格と溌剌とした姿のなかに、自分を包んでくれる母性があると勘違いしていたのかもしれません。ところが肖像を作っているうちに市川さんは尊敬できる女性であるが、自分の求めるような個人的な幸せに埋没できる人でないことがわかってきます。そして自分の作品が、市川さんの大きな人格や、世間の不条理と戦う市川さんの姿を表現していないことに気付いたのでしょう。自分の未熟を知った五郎は、作品を壊さざるを得なかったと思います。作品を壊して市川さんの前を去るとき「淋しくなります」と言った五郎の胸中は、何時か市川さんに相応しい人間になります、いま近くに居る資格のない自分が淋しいという気持ちで一杯であったと思われます。<br /><br />　・・市川さんの所には、五郎の昭和６年作のレリーフ【聖観音】が一点あったそうです。柱にでも掛けてあったのでしょうか、市川さんの養女が埃を被ったまま掃除をしないで放置しておいたところ、市川さんが珍しく激怒したという逸話が残っています。市川さんは、五郎との親交を振り返って「恋といえるかどうか・・・」と回想しています。・・</span><br /><br />　　　　　　　　<a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/hijiri.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/hijiri.jpg" alt="hijiri.jpg" border="0" width="230" height="350" /></a><br /><br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>彫刻家木村五郎</dc:subject>
<dc:date>2009-07-28T11:49:34+09:00</dc:date>
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<title>市川氏の回想</title>
<description> 『市川房枝自伝・戦前編』　（新宿書房）から再度抜粋　・・この昭和十年は、私の父を含めて親しい人が何人か逝去されたことを書いたが、八月二日夜さらにもうひとり彫刻家木村五郎氏の訃報が届いた。病中を無理して製作していたため、心臓病で急逝されたとある。翌朝早速船橋のお宅にかけつけ、告別式にも列席し、奥さんからいろいろうかがったところ、病死ではなかったらしい。何が原因であったのか、私ではお役に立てなかったの
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<![CDATA[ 『市川房枝自伝・戦前編』　（新宿書房）から再度抜粋<br /><br /><span style="color:#006600">　・・この昭和十年は、私の父を含めて親しい人が何人か逝去されたことを書いたが、八月二日夜さらにもうひとり彫刻家木村五郎氏の訃報が届いた。病中を無理して製作していたため、心臓病で急逝されたとある。翌朝早速船橋のお宅にかけつけ、告別式にも列席し、奥さんからいろいろうかがったところ、病死ではなかったらしい。何が原因であったのか、私ではお役に立てなかったのかと悔やまれた。・・・</span><br /><br />　木村五郎の「突然の永眠」に関しては色々な噂が当時あったようだ、親交のあった彫刻家などの回想を読むとどうやら心臓の病気という事らしい。<br />　しかし、この市川氏の回想では【私ではお役に立てなかったのかと悔やまれた】そうはっきり書かれている。３７才を晩年と呼ぶのは残念なことだが、「晩年にはスランプが続き思うように作品が出来なかったそうだ、奥方との折り合いも悪くなっていたそうだ」<br />　何とかきっかけを掴みたいと取り組んだ渾身の作品が最後となってしまった、昭和１０年の日本美術院展に遺作として「牛」が出品された。その作品はご家族のご好意により　「伊豆大島木村五郎・農民美術資料館」　で展示させていただいている。<br /><br />　　　　　　　　<a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/isakuusishou.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/isakuusishou.jpg" alt="isakuusishou.jpg" border="0" width="350" height="284" /></a><br /><br /><br /><br /><br /> ]]>
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<dc:date>2009-07-27T11:40:13+09:00</dc:date>
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<title>市川房枝ご一行の「大島紀行」</title>
<description> 　彫刻家木村五郎に関する資料は極端に少ない、現存する作品もわずか、公的機関で所蔵する作品はほとんどない、それは一流に届かずに生涯を終えたという証明になってしまうのであろうか。木村五郎には子どもはなかった、没後夫人は主だった作品を売って処分したのであろうか、ご遺族が所蔵してきた作品は「石膏像」「ブロンズ像」や「未完成の作品」「習作」など１０数点に過ぎない。　足跡をたどる調査はほぼ行き詰まってしまって
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<![CDATA[ 　彫刻家木村五郎に関する資料は極端に少ない、現存する作品もわずか、公的機関で所蔵する作品はほとんどない、それは一流に届かずに生涯を終えたという証明になってしまうのであろうか。<br />木村五郎には子どもはなかった、没後夫人は主だった作品を売って処分したのであろうか、ご遺族が所蔵してきた作品は「石膏像」「ブロンズ像」や「未完成の作品」「習作」など１０数点に過ぎない。　足跡をたどる調査はほぼ行き詰まってしまっているが、１０年も前に手掛かりだけ掴んでいた「市川房枝との接点と大島繋がり」に関する貴重な資料を郷土研究家樋口秀司先生【伊豆大島ふるさと文庫主】に先日見せていただいた。<br /><br />　月刊機関誌「婦選昭和６年６月号」（木村五郎装丁）に関係者が慰安で訪れた伊豆大島の記事が載っている。「大島紀行」といタイトルで市川房枝・武知美与子・児玉勝子・金子しげり・高田まつよ・宮川静枝・鈴木すみ、七名の参加者たちが島の印象を各々綴っている。「機関誌・本部の日誌より」の項に大島行きの旅程が書かれているので転記してみる。<br /><br />昭和６年５月１０日　　事務所の一同、大島へ行ける事になり、午後十時、霊岸島からたちばな丸で出帆する。<br /><br />昭和６年５月１１日　　大島滞在<br /><br />昭和６年５月１２日　　早朝の船で下田に廻り夜帰京の予定のところ、ひどい嵐で、遂に一日島流しになる。東京の事も気になりながら、船が出ないのには手の下し様もなし。これは不可抗力だからと、自らに言いきかせて落ちつく。<br /><br />昭和６年５月１３日　　今日は船は出そうもない。半分は自暴自棄で投げ出してかかっていたが難航を覚悟で、船は下田を出たとの報に、急遽かえり支度をととのえる。大島を出たのが三時、東京迄十時間はかかろうとのこと。それでも案外早く、十一時に霊岸島に無事帰りつくことが出来た。<br /><br />　３泊４日の旅の顛末が「大島紀行」に記されている、一行を案内したのは木村五郎の親戚にあたる大橋清氏であった、標題のカットは木村五郎の「元村小学生」、弁当箱一つ、風呂敷包みでも何でも頭に乗せて運ぶ当時の島の暮らしぶりが描かれている。昭和８年に大島風俗木彫作品に仕上げて第２０回日本美術院展に【「通学の少女」（大島風俗）】として発表している。<br /><br />市川房枝は文の最後をこう結んでいる。<br />　『この旅、天候にはいささか恵まれなかったものの、島の印象は寧ろ雨で優ったともいえよう。とにかく一同声を揃えて「又も行きたやあの大島へー」と唄っている』<br /><br /><br />　　　　　<a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/20090726104254e7a.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/20090726104254e7a.jpg" alt="婦選大島紀行" border="0" width="300" height="442" /></a><br /><br />   　　　　　　　　<a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/200907261419553ad.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/200907261419553ad.jpg" alt="五郎こども版画" border="0" width="182" height="300" /></a> 　　　　<a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/tuu.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/tuu.jpg" alt="tuu.jpg" border="0" width="189" height="300" /></a><br /><br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>彫刻家木村五郎</dc:subject>
<dc:date>2009-07-26T10:52:22+09:00</dc:date>
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<title>彫刻家木村五郎と市川房枝の接点</title>
<description> 『市川房枝自伝・戦前編』　（新宿書房）から抜粋　新団体（婦人参政権獲得期成同盟）の最初の対外的な運動は、大正十四年一月十七日、神田のキリスト教青年会館で開いた、「第一回婦選獲得演説会」で、奥むめお、桜井ちか、坂本真琴、平田のぶ、久布白落実氏らと、私も加わって「婦選運動の婦人運動における地位」について講演した。　ところがこのあと、講演会を聞きに来ていたという若い彫刻家から、モデルになってくれないかと
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<![CDATA[ 『市川房枝自伝・戦前編』　（新宿書房）から抜粋<br /><br /><span style="color:#006600">　新団体（婦人参政権獲得期成同盟）の最初の対外的な運動は、大正十四年一月十七日、神田のキリスト教青年会館で開いた、「第一回婦選獲得演説会」で、奥むめお、桜井ちか、坂本真琴、平田のぶ、久布白落実氏らと、私も加わって「婦選運動の婦人運動における地位」について講演した。<br />　ところがこのあと、講演会を聞きに来ていたという若い彫刻家から、モデルになってくれないかと申し込まれた。その人は美術院会員の木村五郎氏であった。二月のある寒い日の夕方、琴平町の事務所で、黒いマントを着たまだ二十五、六歳と思われるご本人に面会、ストーブにあたりながら話した。日曜ならと承諾。それから毎日曜の午前中、ときには午後まで、兄の家の応接間でモデルになった。しかし、その日曜も講演などでぬけるので、夏近くなってもできあがらなかった。スーツで椅子に掛けているポーズだったが、だんだん暑くなってきた。木村さんはそれに気づいたのか、また作品に不満だったのか、「首だけにしましょう」と、みている前で無造作につぶしてしまった。ところがその首も、一応でき上がったがこれまた気に入らぬとこわしてしまい、ついに作品は何も残らなかった。やめたとき、彼は「淋しくなります」と言った。<br />　このモデルになっている最中、『婦人公論』三月誌上に、山田わか、金子しげり、平塚らいてう、守屋東、石原修、為藤五郎氏らの「人物評論・婦人参政権運動の陣頭に立てる市川房枝女史」が載った。これを木村さんが読んだとみえて「僕なら『市川房枝美人論』を書いたでしょうに」と言った。そのころまで、私は美人だなどといわれたことは一度もなかった。七十歳を越してから、脚がきれいだとか、昔は美人だったでしょう、といってくれる人があるが、「ツー・レート。遅すぎる！」と笑って答える次第である。<br />　木村五郎氏はこうした縁で気安く機関誌の表紙やカットを無料で書いてもらったが、その後結婚して、数年後に亡くなってしまった。</span><br /><br />　彫刻家木村五郎の足跡を調査していた「伊豆大島木村五郎研究会」は自伝にある交流の証しを求めて平成１０年１２月に婦選会館を訪ねた。<br />　当時木村五郎が装丁を担当した雑誌「婦選」を数冊、葉書、寄せ書きなどの資料を見せていただいた、昭和５年から永眠する昭和１０年までずっと関わっていた。<br />　市川房枝の「婦選」発行は昭和２年から１６年まで続いた、　写真は木村五郎が亡くなる直前の昭和１０年１月号表紙とカットの版画切り貼り、市川さんの前に現われた時と同じような五郎黒マント姿がアルバムに残っています。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/2009072512032104d.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/2009072512032104d.jpg" alt="婦選版画" border="0" width="471" height="314" /></a><br /><br />　　　　　　　　<a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/20090725120410e6c.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/a/n/k/ankosan/20090725120410e6c.jpg" alt="五郎黒マント" border="0" width="275" height="400" /></a><br /><br /><br />　　　　 ]]>
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<dc:subject>彫刻家木村五郎</dc:subject>
<dc:date>2009-07-25T12:07:34+09:00</dc:date>
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<title>先駆者藤井シゲ○</title>
<description> 大島の「島の新聞」昭和９年に物故の記事が掲載されているのでそのまま転記する。《藤井重丸君逝く　大島風俗木彫人形創始者》　島の新聞　昭和９年２６６号　大島風俗木彫人形創始者としてその天才的風格をうたはるる岡田村九番地藤井重丸君（三十一）は病遂にいえず十六日朝その仮の住居において石幾組其他近隣の人達の手厚い看護の下に不帰の客となった。同君は福島県会津の産、幼にして父母に離れ不遇の運命の中にも芸術的天分
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<![CDATA[ 大島の「島の新聞」昭和９年に物故の記事が掲載されているのでそのまま転記する。<br /><br /><span style="color:#006600">《藤井重丸君逝く　大島風俗木彫人形創始者》　島の新聞　昭和９年２６６号<br /><br />　大島風俗木彫人形創始者としてその天才的風格をうたはるる岡田村九番地藤井重丸君（三十一）は病遂にいえず十六日朝その仮の住居において石幾組其他近隣の人達の手厚い看護の下に不帰の客となった。<br />同君は福島県会津の産、幼にして父母に離れ不遇の運命の中にも芸術的天分強くようや大く中学三年の頃より益々そのひらめきにして自らも画家として立つべく決心一夏休暇を利用して大島に遊びこの土地の人情厚く住み良きを知りて再び渡島、岡田村柴潔、新角、川島市右衛門、白井蔵太郎、本社潮路故白井吉三郎等諸氏の同情によりて草庵をかまへ一路画道に精進するかたはら木彫りをはじめ生活をたつるに至ったものである。<br />尚君が手によりて創案されしものには、木の実人形、木版画絵ハガキ、挽物彫刻、風俗版画タオル並にハンカチ等枚挙にいとまなくいずれも大島土産として遊覧客をして喜ばしむるものが多かった。然れども同君も亦芸術家多分の通有性にもれず常に物質的には恵まれず一昨年十一月大風害にその仮寓を吹きさらはるるに及んで一時帰郷再び病を得てここを安住の地と決める頃には文字通り懐中無一物にて又しも同村有志の同情によって居を結んだ如き有様であった。<br />今回臨終に際しては特に石幾組の親切は肉親以上にして村内の評判である。</span><br /><br />まだ観光地として無名だっ大島がだんだん知られるようになる大正の終わりから大島のお土産として「木版画絵葉書」、挽物彫刻、人形などを独自に作り続けた藤井重丸は岡田の人々に支えられて昭和９年に短い生涯を終えた。<br />重丸の作った「アンコ人形」は木村五郎が指導に来るまで島で彫られていた原型で型紙など作らずに直接彫って仕上げたと思われる。<br />人形にも絵葉書にも『シゲ○』のサインがしてある、昭和５．６年は大島に居たと思われるが農民美術講習会に関わった形跡はない。絵葉書は当時の作家とは題材も雰囲気も異なってみえる、移り住んだ画家の着眼と感性のようなものか。その後大島で絵葉書制作をはじめた人たちの版画を見ると重丸の画風が大きな影響を与えたことがよくわかる。シゲ○のルーツをたどる手掛かりは見つけられない。<br /><br />　　　　<a href="http://blog-imgs-41.fc2.com/a/n/k/ankosan/20090714121558616.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-41.fc2.com/a/n/k/ankosan/20090714121558616.jpg" alt="画像 006" border="0" width="300" height="461" /></a><br /><br /><a href="http://blog-imgs-41.fc2.com/a/n/k/ankosan/20090714120624385.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-41.fc2.com/a/n/k/ankosan/20090714120624385.jpg" alt="画像 009" border="0" width="400" height="413" /></a><br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>大島の風景</dc:subject>
<dc:date>2009-07-14T12:20:37+09:00</dc:date>
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<title>桶と薪をささぐ</title>
<description> 父は「水汲みの姿と薪を頭に乗せた人形」を６０年彫り続けた。その割合は圧倒的に「水汲みの姿」が多かった、元気な時に人形の印象を聞いたことがあった。「薪を乗せた人形」は男性に人気があった、水桶は静かな印象のようで女性が多く求めてくれたそうだ。求めに応じて彫ったようなので「薪を乗せた人形」は少なめでほとんど手許には残っていない。資料館を開設した１０年前に「水汲みの人形」は２０００体あった、今も工房で販売
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<![CDATA[ <a href="http://blog-imgs-41.fc2.com/a/n/k/ankosan/200907101427369c3.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-41.fc2.com/a/n/k/ankosan/200907101427369c3.jpg" alt="画像 044" border="0" width="400" height="230" /></a><br /><br />父は「水汲みの姿と薪を頭に乗せた人形」を６０年彫り続けた。<br />その割合は圧倒的に「水汲みの姿」が多かった、元気な時に人形の印象を聞いたことがあった。<br />「薪を乗せた人形」は男性に人気があった、水桶は静かな印象のようで女性が多く求めてくれたそうだ。<br />求めに応じて彫ったようなので「薪を乗せた人形」は少なめでほとんど手許には残っていない。<br />資料館を開設した１０年前に「水汲みの人形」は２０００体あった、今も工房で販売しているが、薪の人形はもう在庫はなかった。<br />数カ所の売店に置いてもらっていたが、数年前に大きなホテルが廃業したときに従業員をしていた関係で売店にあった人形を記念にもらって来ていた人がいた。<br />その人が数日前に資料館へ来てくれて「記念にするには一体あれば充分だから」といって希少価値の薪を乗せた７体のあんこ人形を寄付してくれました（大きいのは２４センチの高さがあります、大島桜材）。<br />私にとってはすべてが貴重な人形です。 ]]>
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<dc:subject>未分類</dc:subject>
<dc:date>2009-07-10T14:37:12+09:00</dc:date>
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<title>映像で父と再会２</title>
<description> インタビューの中で　『何故あんこ人形なのか』　『跡継ぎについて』　こう答えている。　「水桶を頭に乗せて水を運ぶ５人から１０人くらいの若い娘たちの姿がパチパチビチビチと実にきれいで、若い姿に魅せられた。この姿を人形にして後世に伝えたいと思ってずっと彫り続けている。子供に継げと言っても人形の値段が高くなってしまって話にならない、安くなければ買ってもらえない。一日に６０００円の人形をひとつしか作れない、
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<![CDATA[ インタビューの中で　『何故あんこ人形なのか』　『跡継ぎについて』　こう答えている。<br /><br />　「水桶を頭に乗せて水を運ぶ５人から１０人くらいの若い娘たちの姿がパチパチビチビチと実にきれいで、若い姿に魅せられた。この姿を人形にして後世に伝えたいと思ってずっと彫り続けている。<br />子供に継げと言っても人形の値段が高くなってしまって話にならない、安くなければ買ってもらえない。一日に６０００円の人形をひとつしか作れない、これじゃ後継者になれとは言えない。親の苦労を見ているから子供はやりたいとも言わない、やれとも言わない、どうしてもやりたいというなら別だが。<br />　何人か同じような人形を作る人がいたが、今は自分一人きりだ、後へ仕事を残したいとは思うが、結局は島自体がそういう人を面倒見てやろう、というようにならなければ無理だろう。いつまで出来るか分からないが元気なうちは彫り続けたい・・」<br /><br />　「あんこ人形の彫り方を教える農民美術講習会」は昭和５年から６年にかけて大島で約２週間づつ３回開催された、父はその頃は東京にいたので講師の木村五郎から手ほどきは受けていない、父にとっては誰が教えたとか講習会があったとか、それは関心の外であった。木村五郎から伝授されて島人が作っていた人形の原型を「自分が魅せられた水汲みの姿形」に近づけていったのだと思う。<br />　写真の人形は農民美術講習会で伝授された島人が作った初期の水汲み・薪をささぐ女性の２体（高さ１２センチ）、父が改良を重ねて最終的にたどり着いた４体の「あんこ人形」（高さ２４センチ）。<br /><br />　　　　　　　<a href="http://blog-imgs-41.fc2.com/a/n/k/ankosan/nitai2.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-41.fc2.com/a/n/k/ankosan/nitai2.jpg" alt="nitai2.jpg" border="0" width="300" height="343" /></a><br /><br /><a href="http://blog-imgs-41.fc2.com/a/n/k/ankosan/50.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-41.fc2.com/a/n/k/ankosan/50.jpg" alt="50.jpg" border="0" width="450" height="406" /></a><br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>未分類</dc:subject>
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<title>映像で父と再会１</title>
<description> 私の父は明治４２年に大島生れ昭和９年頃から６０年間あんこ人形を彫り続けた職人で、平成９年に９０才で永眠した。白内障や緑内障が進み、物がダブって見えるようになり８３才で彫刻は引退したが、９０まで隠居家で一人暮らしをしていた。平成７年、父の米寿の記念に「何か残しておきたい」と思い、手許に残っていたビデオテープを繋ぎ合わせテロップを付けて編集、日頃お世話になっている親戚の方々にも配って現役だった頃の勇姿
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<![CDATA[  私の父は明治４２年に大島生れ昭和９年頃から６０年間あんこ人形を彫り続けた職人で、平成９年に９０才で永眠した。<br />白内障や緑内障が進み、物がダブって見えるようになり８３才で彫刻は引退したが、９０まで隠居家で一人暮らしをしていた。<br />平成７年、父の米寿の記念に「何か残しておきたい」と思い、手許に残っていたビデオテープを繋ぎ合わせテロップを付けて編集、日頃お世話になっている親戚の方々にも配って現役だった頃の勇姿を見てもらうことにした。<br />離れ島だが比較的に東京から近くて手軽に取材できることも手伝い、伊豆大島がテレビに取り上げられることが多かった昭和４０年から６０年代に「あんこ人形の作り手」として父は何度も取材を受けていた。<br />この貴重な米寿記念テープを迂闊にも何処かへ紛れ込ませてしまって何年も見つけることが出来なかった。ひょんな事から押し入れの奥に有ったのを見つけることができ、さっそく再生してみたところ、管理が悪かったためテープにはカビが生えて、一度目の再生は鮮明だったが二度目には何本ものスジが入るようになってしまった、テープの表面がはがれてしまったらしい。<br />画像が乱れたテープの話を聞いた親戚が、自宅に保存してあった米寿の記念に配ったビデオテープ（きれいな画像）をタイトルと写真をレイアウトしてＤＶＤに焼いて届けてくれた、これなら原画とまったく遜色がない。写真は昭和３０年のお盆に撮影したもので、祖父母と父母、兄二人、一番前に立っているイガグリ頭の少年が当時５才の私。<br /><br />ビデオテープには、まだ現役で店を開いていた頃にテレビ取材された「レディース４」平成２年（８１才）と「みんなの東京」平成４年（８３才）の二本で、いずれも父があんこ人形を作りながらインタビューを受ける形式の物だった。<br />ビデオには黙々と人形を彫っていたイメージとは違って、彫りながら淡々と質問に答える父が映っていた、元気だった父とは久しぶりの再会だった。<br />　普段はぶっきらぼうで人慣れしない応対をしていた筈の父だが、カメラの前では雄弁で思っていることを自然に話している、ちょっと都会人のような雰囲気も漂っている、そんな風に伝わってきた。<br />観光地伊豆大島の名産品として「あんこ人形彫刻を店頭で実演する姿」はテレビの絵にもなったので結構取材を受けたと記憶しているが、なかなか自分が思うような紹介の仕方をされず嘆いていた姿も思い出す、この二本は良く撮れていると思う、それだからきっと米寿の記念品にしようと思ったのだろう。<br />　米寿のビデオには作業中の粗彫りの人形や彫刻の過程が少し映っている、何より驚いたのはノミの切れだ、木槌でノミを叩いていた記憶があるが鉛筆でも削るようにまだ生乾きの大島桜の原木をサクサクと簡単に人形の面を合わせて彫っていた。<br />　父がもっと若かった昭和６０年代に町役場から「あんこ人形を彫る姿と工程をビデオに納めたい」という話が出たことがあった、そのままでたちぎれになってしまって実現しなかったが、今思えば「もっと執念深く企画の催促をしていれば今の苦労はなかったのに」そう反省する毎日だが、その頃は自分自身がまだ彫刻や後継について眼が向いてはいなかったのでしょうがない。<br />私設の資料館では昭和５年に民俗学者宮本馨太郎が撮影した「伊豆大島」の映像（約１０分）を資料館開館後に入手、島の風俗風物を知ることができる貴重な動く資料として希望者に随時放映しているが、米寿記念の映像も「あんこ人形を６０年作り続けた証し」として希望が有れば約８分間見て貰いたいと思っている、父の人柄や人形に対する意欲も伝わると思うが、何だか自分から「こっちも見ませんか」とは言えそうもない。<br /><a href="http://blog-imgs-41.fc2.com/a/n/k/ankosan/200906291400069bb.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-41.fc2.com/a/n/k/ankosan/200906291400069bb.jpg" alt="ビデオからdvdへ" border="0" width="440" height="445" /></a><br />　<br /><a href="http://blog-imgs-41.fc2.com/a/n/k/ankosan/20090629134824789.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-41.fc2.com/a/n/k/ankosan/20090629134824789.jpg" alt="画像 006" border="0" width="400" height="319" /></a><br />　　元町港待合所前の店舗（建物は残っているが今は総菜の店になっている）<br /><br /><a href="http://blog-imgs-41.fc2.com/a/n/k/ankosan/200906291347163cf.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-41.fc2.com/a/n/k/ankosan/200906291347163cf.jpg" alt="画像 007" border="0" width="400" height="314" /></a><br /><br /> <a href="http://blog-imgs-41.fc2.com/a/n/k/ankosan/20090629141219c09.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-41.fc2.com/a/n/k/ankosan/20090629141219c09.jpg" alt="画像 013" border="0" width="400" height="307" /></a><br /><br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>父・家族</dc:subject>
<dc:date>2009-06-29T14:08:59+09:00</dc:date>
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<title>昭和６年の大島風俗</title>
<description> 昭和初期の「水汲み風俗」の写真を２回続けて載せた。写真を撮った場所と井戸と風呂屋の位置関係は判ったが、はっきりした年代と人物の特定が出来ていなかった。これまでに何度か目にしていた「水汲み場」の一枚の写真と「七人の水運び風景」の写真を照合することできて年代がはっきりとした。今回の写真（二人だけ正面を向いている左から二人目）のひとり、丸顔で目が大きな若い娘さんは階段の７人の写真の人と同じ人（下から三人
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<![CDATA[ <a href="http://blog-imgs-41.fc2.com/a/n/k/ankosan/20090622135914bb6.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-41.fc2.com/a/n/k/ankosan/20090622135914bb6.jpg" alt="ハマンカー写真７人" border="0" width="500" height="331" /></a><br /><br />昭和初期の「水汲み風俗」の写真を２回続けて載せた。<br />写真を撮った場所と井戸と風呂屋の位置関係は判ったが、はっきりした年代と人物の特定が出来ていなかった。<br />これまでに何度か目にしていた「水汲み場」の一枚の写真と「七人の水運び風景」の写真を照合することできて年代がはっきりとした。<br />今回の写真（二人だけ正面を向いている左から二人目）のひとり、丸顔で目が大きな若い娘さんは階段の７人の写真の人と同じ人（下から三人目）に違いない、もう一人も一番上に写っている、おまけに両方とも水汲みの女性は７人だ、今回の写真は「日本地理風俗体系・昭和６年版」（発行所は新光社）に掲載されていたものだ。。<br />当時島の住人がカメラを持つことは稀であったと思われるから、「風俗体系」に写真を載せるために水汲み場と階段ほかで７人を撮影したもので、、その写真を関係者に配ったものではないだろうか、そして何と七人のうちの四人の方のお名前もわかった、縁戚の方に生れ年をお尋ねすれば当時の年齢も判るはずだ、十六才くらいだろうか。<br />たかだか８０年数年前の証拠資料ということだけで大した意味は持たないと思われるかもしれないが、「大島風俗・あんこ人形」の資料館にとってこの写真と年代が特定できる資料は大変貴重な財産だ。<br /> ]]>
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<dc:subject>未分類</dc:subject>
<dc:date>2009-06-22T14:00:28+09:00</dc:date>
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<title>水汲み場</title>
<description> 　水汲みの若い女たちが写る現場は何処だろうと考えた、当然ながら当時の面影の場所に心当たりはない。　「大島の風景」として町の風景や風俗を残す資料を集めているがその中にヒントがあった、偶然にも現場の近くに住んでいた人が写真を見て場所を特定してくれたのだった。今回の写真には「水汲みの井戸」から村道に出てきたか順番待ちをしている島娘たちが写っている、その坂道の奥に７人が並んで記念写真を撮った石の階段がある
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<![CDATA[ <a href="http://blog-imgs-41.fc2.com/a/n/k/ankosan/200905171245537b0.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-41.fc2.com/a/n/k/ankosan/200905171245537b0.jpg" alt="水汲みの娘" border="0" width="600" height="394" /></a><br />　水汲みの若い女たちが写る現場は何処だろうと考えた、当然ながら当時の面影の場所に心当たりはない。<br />　「大島の風景」として町の風景や風俗を残す資料を集めているがその中にヒントがあった、偶然にも現場の近くに住んでいた人が写真を見て場所を特定してくれたのだった。<br />今回の写真には「水汲みの井戸」から村道に出てきたか順番待ちをしている島娘たちが写っている、その坂道の奥に７人が並んで記念写真を撮った石の階段がある、石垣の家は柳瀬家であることも判った。<br />この水汲み井戸が南の浜川（ハマンカー）と呼ばれた場所に間違いない、写真には写っていないが左の角に宿屋があった筈だ、井戸の場所が特定できたことで<a href="http://www.fukuoka-art-museum.jp/jc/html/jc04/02/sakamoto.htm" target="_blank" title="、「大島の一部」を描いた画家坂本繁二郎">、「大島の一部」を描いた画家坂本繁二郎</a>の写生地と写真のハマンカーが一致した。<br />　当時は風呂屋が２軒有った、一軒は「かねこ」、もう一軒はまだ判らないがこの近くだったと聞いたこともある。<br />　文人藤森成吉の「若き日の悩み」（大正元年発表）には【・・・この湯はみんな、あんこ達が井戸から水桶に汲んで運んできた水を温めたものであることや、毎日あんこが、二人で朝から一斗ずつ汲み続けていることや、一杯が五厘五毛ずつで、一人が六十杯即ち六石ずつで・・・】と書かれている。<br />　ちなみに「あんこ」は一般的には島娘のことで、正式には姉子が変化した方言である。<br /> ]]>
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<dc:date>2009-05-17T13:59:27+09:00</dc:date>
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