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『あんこ』は目上の女性を親しみを込めて「おとらあんこ」など名前の下につけて呼びました。今では広く島の娘さんのこと、ちなみに私は男。   連絡メール

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あんこ人形誕生記
昭和初期、伊豆大島に生まれた農民美術「あんこ人形」、 島人に彫刻を指導した彫刻家木村五郎、60年彫り続けた職人の父、人形生誕から資料館を開くまでの回想と資料館の今と未来を記す
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父の人形
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初期の人形

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生涯の代表作ではないかと思っています

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あんこ人形情報
大島あんこ人形の写真です 昭和初期から戦前くらいまでに作られた人形だと思われます。

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伊豆大島風俗木彫人形
4月はじめに国会図書館へ行ってきました、こうやってゆっくり調べられるのはこれがきっと最後だと思って目一杯居てきました。
日本の農民美術運動の生みの親である山本鼎が「農業年鑑昭和7年版」に書いた農民美術開拓運動の近況という報告文の中の【 大島の風俗人形が昭和5年に開催された第2回全国農民芸術品展覧会で入賞した 】という記事を頼りに当時の新聞を検索してみました。

富民協会主催で大阪毎日新聞が後援して昭和5年の5月に行われたことが分かったので、当時の大阪毎日新聞を調べてみました。
5月23日から5回に渡って 農民芸術ー三越の展覧会から というタイトルで出品された全国の作品が26点紹介されていました、その中に金賞をもらった「大島風俗木彫人形」が載っていました。
5月26日の新聞には当時の審査委員長(農林省技官見坊兼光)が「郷土の香り高き自然と風俗」という長文を書いていました。

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 大島の人形の写真は上のとおりです、不鮮明ですが間違いなく大島の人形です。
 この形の人形は伊豆大島の当資料館で展示中の人形とほぼ同じです
 水の貴重だった時代には井戸から汲んだ水を水桶に入れて頭に乗せて運んだ、そんな時代の風俗を木彫で表した ものです(女性たちが井戸に集まってみずく。最後のチャンスでようやく巡り会えた私にとっては大変貴重な新 聞記事です。
むこさんの大波小波(完)
番外編をリンクしています

「あんこ人形誕生記」と同じ管理者が「伊豆大島農民美術資料館日記」を公開・更新しています。
浦島太郎のようです、資料館日記ではこの4ヶ月間画像の掲載をしていなかったのですが、この間になにやら制御がかかっているようですが、よく飲み込めません。
とりあえず、今回の画像を添付できれば「大波小波は一応の完結となるので」異質の話題となりますがこのブログに画像を急きょ貼り付けさせていただきます、よろしくお願いいたします。


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電動式ベッドから降り平行棒を使ってその先の車イス(行き過ぎないガードの役目も兼用)まで自力で来れます、車イスに坐ってから180度回転させると食卓前です

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台所からベッドは見えません、昼食の準備(食材のあたため)をしていても母がどこにいるのか、今どうなっているのか気になって仕方有りません、まず第一に信号です、背中がベッドから離れたらピッピとなる離床センサーをレンタルしました。(ベッドから出て畳に足がつくと鳴るタイプもありますが、それでは遅いと思ってこのタイプを選びました)

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ピッピと離床センサーが作動すると台所洗い場の前にあるベッドを映す監視カメラのモニターを見ます(センサーとは連動していません、台所にいる時だけつけています)、どこにいるのか一目で分かります、問題がなければ関与しなくて見守りでスルーです。

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ベッドの頭の先に廊下があって外に出るときには廊下に掛けてあるスロープ(段差30センチを2メートルのスロープ)でで庭に出ます
最初の頃は要領が分からずに庭から畑に向かって急こしらえのロープをコンパネで造りました

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傾斜がかなりあり距離も長いので、しばらくしてから「庭を右に曲がって道に出る最短コースのスロープ」を設置しました。

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外から戻ると廊下に直接車いすで乗り上げるので、泥がつかないようにマットなどをひきました。

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道路に車を停めれば外出も大丈夫です


「伊豆大島に関すること・農民美術運動・全般の資料」
国会図書館通いで新たに入手した「伊豆大島を扱った文章」と「あんこ人形の生みの親にあたる農民美術運動の資料」のリストです。まだ詳しい分類や整理整頓がなされていませんが、すべて国会図書館にて著作権の範囲でコピーできた資料の一覧です、原文と奥付までコピーしてあります。これからどうやって活用したらよいのか、それが課題です。

伊豆大島を扱った文章

伊豆大島 藤川東瑛 歌集音渓 昭和17年 
伊豆大島 蔵田周忠 近代的角度 昭和8年 信友堂書店
事に触れて      
伊豆大島 松川二郎 一泊二日旅行 大正8年
伊豆大島と熱海  星野はな  アメリカの旅 昭和12年 
切支丹伝承・民俗信仰編 三田元鐘 昭和16年 
伊豆大島藻谷六郎 仙人掌(サボテン)歌集 昭和6年 
伊豆大島見聞記 法月俊郎 明治聖徳記念学会報 大正15年 
伊豆大島藤川武男 四月会作品一 昭和11年 
伊豆大島 矢吹弘史 四季の太陽 昭和16
伊豆大島雑記 南賢治 写真紀行記 昭和17年 
伊豆大島雑観 本田正次 植物と生活 昭和16年 
伊豆大島 中村順三 祖国 昭和10年 
春の伊豆大島風物 青山宣紀  玉葱畑春景 昭和16年 
伊豆大島 中野菊雄 歌集丹青 昭和18年 
伊豆大島冬の釣 益田甫 釣ところどころ 昭和17年 
大島と奥伊豆 福田栄一 冬艶曲 昭和5年 
伊豆大島  中村孝0000 昭和18年 
牛乳煎餅 永田牛歩 乳製品製造宝典 昭和8年 
伊豆大島行の船上より寄書を賜ふ 山田百合子 野路 昭和16年 
伊豆大島のとぼけた話 中村清二 物理学周辺  昭和13年 
伊豆の大島で行逢ったハイカー達 茂木慎雄 遍路随筆 昭和18年 
伊豆大島 杉田鶴子 歌集菩提樹 昭和15年 
伊豆大島行 藤田晋一 歌集街の切符 昭和8年 
伊豆大島の民家 富岡丘蔵 民家 昭和11年 
伊豆大島 葉多黙太郎 000 大正13年 
大島あんこ 三宅一三編 吾妹新選集 昭和7年 
伊豆大島 松川二郎 安くて便利な新しい海浜へ 大正11年 
波を馳する想ひ 
大島より伊豆への旅 浦本政三郎 旅心常住 昭和10年 
御神火 川西徳三郎 和露句集 大正4年 
ご神火は招く 中村武羅夫 白蛾の舞 昭和23年 
椿咲く島へ                    
島の便り 白木楓葉 街の哀唱  昭和11年 
濃霧道化御神火 片山博通 幽花亭随筆 昭和9年 

石井柏亭 油絵の実技下  昭和14年
洋画実技講義第2巻 昭和12年 アトリエ社

大島の導者 茂山清太郎 桂月文選海へ山へ  昭和2年 日本青年社
三原山風景 大木惇夫 抒情詩集カミツレ之花  昭和9年 鬼工社
三原山の流行 松原寛 生活の哲学 昭和8年 日本公論社
三原山とナチス 板垣鷹穂 観思の玩具 昭和8年 大畑書店
三原山繁昌 雷石楡 詩集沙漠の歌 昭和10年 前奏社
三原山行 木下立安 泰山木の花 昭和11年 
三原山は煙る 田中貢太郎 南薫集 昭和12年 教文社
椿咲く島へ 荻原井泉水 旅窓読本 昭和12年 学芸社
伊豆三原山登山 藤森さと 昭和12年
三原山沙漠踏破の記 東京市児童標準文集高等科用 昭和12年 教文社
三原山 松田常憲 秋風抄 昭和12年 昭和12年 詩と歌謡の社
三原山雑航記 河合辰太郎 閑窓余滴隋流集 昭和13年 
三原山に登りて 横田市治 世紀の黎明 昭和13年 一如書房
三原山紀行 橘外男 ナリン陛下への回想 昭和13年 春秋社
三原山の煙 中村武羅夫 愛する者の道 昭和14年 野島書店
三原山 中村九一 詩集湖辺の桜 昭和15年 
三原山紀行 田中貢太郎 天狗の面 昭和15年 春陽堂書店
三原山 唐戸丑太郎 唐戸丑太郎歌集 昭和16年 一路会
三原山登山元村よりほか 松本豊子 黒松 昭和18年
三原山 加藤かけい 浄瑠璃寺句集 新日本出版 昭和22年
伊豆大島吉谷神社正月祭の芸能 俵木悟 民俗芸能90 平成21年
藤内事件 松本愛子 恵泉アカデミア12号 2007年


農民美術運動全般の資料

本邦農民美術運動の回顧と展望 渡邊進 帝国農会報 昭和2年10月号
黎明期の農民美術 昭和3年
農村及農業の工業化 昭和5年
農村の副業 昭和5年
林業年鑑 大正11年
アトリエ美講座 昭和10年
岩波世界文学 昭和7年から
応用と実際明日の手工芸 昭和7年
潤葉樹材の利用 昭和5年から
潤葉樹材の利用調査書 昭和4年から
工芸美術を語る 昭和5年
今日の農村問題 昭和7年
産業組合宣伝叢書 昭和2年
児童百科辞典 昭和11年
農村副業問題 大正15年
羊ホームスパン 9年年
美 を味わう心 1922年
文化は郷土なり 18年
山梨県山林会三十年史 1936年
林業講習成績概況 12年
世界巨人叢書
水を流るる永遠の愛 大正14年

昭和6年あんこ人形が褒賞に
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大島の古いローカル新聞「島の新聞」(昭和6年5月6日号)の下段(PR欄)にこんなお知らせが載っています。もう10数年に記事を見ていましたが、何のことだかよく知らずにいました。
去年から今年にかけて上京の機会を利用して何度か国会図書館に通って調べてきました。
興味の対象は「伊豆大島を描いた文人墨客の作品」とあんこ人形を生み出した「農民美術運動」の資料探しです。
両方の興味に共通する話題ですが、ラッキーにも見つけることができました。

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全国農民芸術品展覧会入賞者一覧(第二回)の記事です。

金牌 大島風俗人形 

東京都 大島農美生産組合


銅賞まで数えると50団体以上は有りそうだ、そのトップに大島の風俗木彫人形の文字がありました。(画像は不鮮明ながらはっきりと読み取れます)
主催した富民協会とは、入賞した大島の風俗木彫の姿・形とは・・・簡単ではないが「みつけてくれ-」と資料が呼んでいるようで「図書館がよい」はやめられない。










i伊豆大島のあんこ人形
原さん メール送信ありがとうございました また何か見つけたら教えてください

大島のあんこ人形(ユキヲのサイン入り)をお持ちとのことなので、当資料館に展示中のあんこ人形をここで紹介いたします。

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伊豆大島では3回農民美術講習会が行われました、講師は彫刻家の木村五郎です。ユキヲさんは組合員ではありませんが会場が近所であったこと、実兄が組合員だった事もあって一緒に講習会に参加できたのではないかと思われます、昭和4年の「島の新聞」には組合員は18名とあります。
小さい2体にはサインがあります、左の大きな人形は高さ28センチです、サインはありませんが柳瀬幸雄(本名)が彫った人形だと思います。

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原さんへ業務連絡です
原さん(ヤマモミジさん)へ
先日は「あんこ人形誕生記」に書き込みをありがとうございました

山口先生が「東北の郷土玩具と農民美術」の文章をまとめられてから

 凹平のこと、短歌を詠んだことなど凹平氏の足跡が大分わかってきました、分かってきたと自分のことのようで

 すが、みんな山口先生がされたことです。

 もし凹平人形をお持ちで、前回写真で示した「アネサ」「スカリ」「白虎隊」以外の人形をお持ちでしたらご教

 示願えませんか

 「東北の郷土玩具と農民美術」に続き、「伴野凹平評伝」を12月までにまとめられる予定です、

 これからもよろしくお願いいたします。 

                       伊豆大島 藤井   メール tora26@fsinet.or.jp
「農美巡礼日記」新聞記事
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大正の中期に長野上田から全国に広まった「農民美術運動」を受け入れた地方の発展の具合を知りたいとずっと思ってきました。案外と活動の趣意書や計画書などは目にする機会がありましたが、受け入れた地方がどう進めたのか、どこまでの水準にたどり着いたのか、そしてどうして衰退してしまったのか、それらを知る資料はあまりありません。
農民美術運動の発祥の地である長野上田の山本鼎記念館に、長野県下の下伊那郡川路村の川路農民美術生産組合で伊那踊人形などを作られた中島繁さんが活字化された全国の農民美術資料を切り抜いた古いスクラップ(昭和6年頃か)があります。何度かの複写を経ているためか私の手元にあるこの資料は半分が判読不能な状態です。
しかしスクラップには各地の農民美術運動で作られた人形や歴史が丹念な取材を基に細かく記述されています。多分当時の新聞だろうと思われますが40数回に分けて連載されたようです。私は先日何とかこの資料掲載された新聞にめぐり合いたい、そう思って国会図書館でマイクロフィルムと戦ってきました、与えられた時間は4時間です、根気との戦い、時間との戦いです。結論から言えばまだ見つけることは出来ていません。
すでに存在は知っていた長野近隣の組合の現況を伝える昭和5年の「農美巡礼日記」11回の連載の記事を確認することができました。自営業なので週一回の休館日以外に休むことは出来ないので次回いつ行けるかわかりませんが、鮮明な資料(膨大)にめぐり合える日が来る事を楽しみに調査を続けたいと思っています。
中島氏のスクラップの記事の最後に・・まだご紹介すべくして、しなかったものが百余種もある 御神火で名高い大島には「大島人形」がある・・・と書かれている、私の父が60年彫り続けた木彫人形はこの【大島人形】なのだ。
農民美術運動と東北の郷土玩具  
「農民美術の運動」は大正の中期に長野上田から全国へ広がってゆきました。昭和2年2月に日本美術院の
彫刻家木村五郎は京都宇治で行われた「宇治茶摘人形農民美術講習会」ではじめて日本農民美術研究所嘱託員として派遣され彫刻の指導をしました。
 昭和2年秋、大島に住む親戚筋にあたる大橋清史氏に誘われて木村五郎は大島にやって来ました。木村五郎ははじめての大島で見た婦人風俗に興味を持って帰京、12月には長野県川路村の農民美術講習会に赴き、「伊那踊」の彫刻指導、昭和3年には秋田大湯で指導しました。彫刻家の誰もが試みる裸体や人物などの芸術作品を作る一方で各地に出向いて農民に教え、その土地土地で見た独特の風俗を自分の芸術作品に仕上げて作品を発表しました。
 大島では昭和4年1月、5月、昭和5年3月に農民美術講習会が木村五郎を講師に迎えておこなわれ、「薪をささぐ女」「水桶をささぐ女」などあんこ人形の彫刻技法が島人に伝授されました。受講者たちは生産組合を作り技術の向上をはかり、次第に観光客が増えつつあった大島の観光土産として「あんこ人形」は注目されるようになりました。
私の父はこの木彫の「あんこ人形」を昭和9年頃から60年彫り続けた職人です、私はあんこ人形が農民美術運動の一環から生まれたということを知ってから、全国規模で展開された「農民美術運動」の全体像を知りたいと思うようになり15年ほど前に熱心な農民美術研究家の山口先生と出会い、今日まで農民美術のいろはを教わってきました。
このたびの東日本大震災に会われた地方の方々をお見舞いすると同時に「東北の郷土玩具」と農民美術人形のつながりを山口先生(教員OB)はまとめられて、東北の美術館や図書館に送られました。




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   農民美術運動と東北の郷土玩具   丹野寅之助著「東北郷土玩具研究」の考察       山口畑一

    この拙文を「東日本大震災」の被害に苦しまれる東北の皆様にお悔やみとお見舞い
    の心をこめて捧げます。
    東北は土人形・張子・こけし・凧・木彫等の郷土玩具の宝庫であります。そして沢
    山の湯宿がある山海の景勝地でもあります。著者丹野寅之助氏は十年間に渡り東北
    各地を行脚し東北の玩具を探求しました。皆様方も東北の旅で東北の「おもちゃ」
    をお求め下さる様切望致します。
  
      父母を津波に亡くす孤児(みなしご)の卒業証書泥にまみ塗れる 爽風


農民美術運動
 画家山本鼎が一九一九年に「日本農民美術建業の趣意書」を長野県神川村(現上田市)に配布し、農村青年の趣味の向上と副業に依る収益をはかることを目的として展開した運動である。一九二三年の農民美術研究所の設立、一九二五年以降の農商務省からの補助金の交付もあり、農民美術生産組合が全国的に組織され、日本各地に農民美術講習会が開催された。生産活動は多面に及んだが木片(こっぱ)人形がその代表的な製品となった。
一九三〇年代に政府の補助金削減による経済的行き詰まりや、戦争による青年労働力の喪失と相俟って一九三五年には農民美術研究所は閉鎖となった。
このように運動は短期間のものであったが山本鼎は日本で芸術をもってして農民生活の改善を唱え、その推進にもっとも成功した人物の一人として「民衆芸術論」の立場から光が当てられている。郷玩家有坂与太郎等の批判家も存在するが、鼎たちが興した生産組合の活動は今なお農美連合会として存続している。
          
まえがき 
農民美術に関わりのある「郷土玩具」について 日本郷土玩具の会高野荘三委員より多数の郷玩本の紹介を頂きましたが、その中の一冊、丹野寅之助著「東北郷土玩具研究」(仙台鉄道局・昭和十三年十一月発行)について考察した。この本は「人形文化資料展」の目録に示された郷玩文献十五件(うなゐの友等)の中に含まれている。尚日本旅行協会から昭和十二年一月に「東北の玩具」が発行されていますので注意を要します。

  次の二つの観点から考察しました。
(一) 農民美術運動から生み出された郷土玩具
(二) 農民美術運動に連動した郷土玩具
         
各論   

(一)農民美術運動から生み出された郷土玩具

①大湯彫(十和田)人形  秋田 大湯

(イ)著書には次の様に記述されている。

 昭和三年の夏八月私は十和田湖の帰りを温泉「大湯」に立ち寄り、俳人小魚を訪うた。
そのとき同氏は、村の青年達といっしょになって木彫人形の製作に餘念なかったが、指導してくれている若い男が大日本農民美術研究所の同人である木村五郎氏だといふことだった。其の時の作品は僅か二種に過ぎなかったと記憶してるが、そののち二種を加へて、牛追ふ人、農夫、雪の童女、雪の娘を完成した。小魚氏の紹介文は「十和田人形は我が国東北に於ける農民美術の第一声であります。そは周圍民俗の表象で隋て又湖山景勝のしたたりともいひましやう。創作者木村五郎先生風俗人形四種ボッチハ秋田の風、毛布、日ごも、腹当、共に湖山円周の、十和田の湖は万古の色をたたえてゐます。土俗所産者に此人形をお薦めいたします」と書いてある。素材は朴の木を用ゐ、木質をきづつけぬ彩料を使ったところに品位が窺はれる。
   
                         秋田県鹿角郡大湯町 製作者 秋田農民美術倶楽部



(ロ)記述内容の考察
 
丹野氏が浅井小魚を訪問したのは昭和三年八月五日の午後であることが小魚日記に書かれている。当日(午前省略)の記録は次の通りである。「旅館に行くと先生は本を読んでおられた。先生と話をしていたら仙台鉄道局の丹野寅之助と言う人の名刺が届いた。二階から降りて行くと東北玩具案内編集者と言う人物である。二階で木村先生と一緒に話をした。人形を見たいと言うので先生と一緒に講習会場である小学校え行った」とある。
 浅井氏は本名末吉、月太と号し改号して小魚。本業は鍛冶屋であるが郷土史家(大湯環状列石発見・十和田湖調査)、歴史資料収集家、俳句、俳画、短歌、漢詩、小説等に多彩な才能を発揮した文化人である。
 木村五郎は日本農民美術研究所から派遣された日本美術院同人の彫刻家で、京都宇治の茶摘人形、長野川路の伊那踊人形、伊豆大島のあんこ人形等の農美講習会の講師で秋田大湯では昭和三年と五年の二回の講習会の指導者である。三十七歳で夭折。
 作品はその時(八月)二種であったがその後二種加えられたと記述しているが昭和三年の講習で四種作成されている。人形の名称は経過的には色々と表現されているが木村五郎が松村秀太郎に宛た絵葉書と上田貞三の出展目録の呼称が正式である。即ち牛追い・農婦・雪の娘・雪の童女の所謂「大湯彫四体」である。
 大湯彫について小魚の紹介文が示されているがこれは人形に添えて箱に入れた解説書の文面で手摺木版和紙横十七糎縦十二糎の大きさで趣味深い。氏の記録した「人形制作控」に依って出展先、販売先、生産量(昭和三、四年が最高)等の詳細が解る。
 製作者を秋田農民美術倶楽部としているがこれは昭和三年六月十三日の大湯土俗生産組合自由研究所会場開きの話から丹野氏が適当に呼称したものと思われる。「大湯村土俗生産組合」から「大湯農美術生産組合」に変更になった以外の製作者名の存在はない。前者の組合長は浅井小魚、後者の組合長は千葉茂(歯科医)。副組合長の花海清人は優れた多くの木彫人形を作成している。また詩人・歌人でもある。

② 凹平(へこへい)人形  福島 廣田

(イ)著書には次の様に記述されている。
 
 凹平といふのは作者のペンネームで、奈良一刀彫の刀法に恒友、芋銭、三郎氏等の絵画的風趣をとりいれた  木彫人形、よく会津地方の風俗を発揮してゐる。名称も地方の方言そのままを用ゐ、アネサ(姉さん)雪靴、角巻、コメラ(子供)の種類があり、会津諸温泉の浴客のため思出の記念になる土産物をと思ったのが制作の動機ですーと作者の話だった。
     
                               福島県河沼郡日橋村 製作者 伴野凹平


(ロ)記述内容の考察

 凹平名には意味はないとした記録(有坂与太郎・郷土玩具号)もある。
 廣田は出生地の大字名であり後に東山温泉に移住している。彼は奈良の本島良宗氏に就き一刀彫の刀法を修め大正十五年末より作り初めた。彩色には日本画の絵具を用いているが小川芋銭、酒井三郎、森田恒友等日本画壇の有名作家を参考に絵画的風趣をとり入れている等彼の美意識の深さが窺える。作品の名称にも地方の方言をそのまま用い、アネサ(姉さん)コメラ(子供)スカリ(藁鞄〈かばん〉写真にある背負い)等とし、雪靴、角巻、白虎隊、登山人形、達磨、彼岸獅子等郷土色豊かなものを数種作成した。
 特に彼岸獅子の彩色、筆致は絵画的で素晴らしい出来栄えである。
 私の所蔵作品の「アネサ」は桐箱入りで凹平人形とアネサの二枚の木版刷の貼票がある。人形台座には凹平の焼押印があり、意匠は鍬を担いだ農婦像で彩色は五色、寸法は台座とも五糎、材料はモウダ(柳の使用例あり)。価格は五十銭で五割の利益が見込まれていた。
 販売先は物産館、飯盛山、猪苗代湖、会津諸温泉で修学旅行団体の土産には無くてはならないものの一つであった。秩父宮勢津子妃殿下、東久邇宮妃殿下、徳川喜久子姫、各宮様から御買上げの光栄に浴している。
 著書では会津諸温泉の浴客のため思出の記念になる土産物をと思ったのが製作の動機であると作者の弁を記述しているが農民美術運動と結びついた覚悟のものであることが昭和四年の報知新聞に記された次の作者自身の告白で明らかである。「会津風土風俗を美術化したもので、農民美術として将来農閑期利用の副業として誰でもやれるよう、ごく簡単な製作法で面白味を出すように考案した」
とある。凹平についての詳細は会津新聞社の「会津」第四年五号の田代杢平氏の紹介を参照されたい。


(二)農民美術運動に連動した郷土玩具
  
①竹駒木馬(木の下駒) 宮城 岩沼

(イ)著書には次の様に記述(文末のみ)されている。

然し年を経るに従って竹駒木馬の昔の俤が次第に消え、現代化するを遺憾とし、昭和二年原始的一体に基き形状彩色とも其の儘に作りあげたのが此の玩具である。

                                製作者 岩沼小学校内・岩沼町青年団



(ロ)記述内容の考察

 農民美術運動に参加した組織体は様々でその一つとして青年団がある。第二回青年創作副業品展覧会は聯合青年団の主催で日本青年館で開催された。この目録には下谷、本郷をはじめ全国で十八の地域の青年団が参加している。目録には名取郡岩沼町字南館七七の勝又頼治氏が一点三十五銭で木馬を二十個出品している記録がある。
 青年団は戦前小卒の一定地域に住む勤労青年に依って組織された自治団体であるが、青年は青年学校に入り、軍事、普通、産業の教育を受けた。副業についての職業教育も行われた。団の本部は小学校や寺院に設置された。
 「木の下駒」の場合は伝統的郷玩の再興運動を通して自力更生の精神を養うという副業活動として行われたものであり、当時の村起し運動の機知と情熱を感じとることができる。

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左 木の下駒(竹駒木馬復元) 製作者・宮城県岩沼町青年団  右 第2回青年創作副業品展覧会出品目録


②農美運動に連動するその他の玩具
 
 別の機会に取り上げここではその対象となるものを列挙するだけに止める。

      岩手  盛岡 桐人形     花巻 鹿踊(ししおどり)
      山形  米沢 笹野彫(再興) 鶴岡 木の実人形
      青森  弘前 松笠人形
      秋田  角館 桜人形
         
むすび
 丹野氏は昭和三年四月に「東北土俗玩具案内」を発行しその十年後に本書を発行している。この時期は農美運動の最盛期でもあることからして氏は農美に深い関心を持っていたとは見てとれない。その根據は大湯人形にも凹平人形にも農美の視点からの探究が無い。また特に後年秋田を代表する版画家に大成した勝平得之は大湯農美の講習生で木村五郎の指導を受け勝平木彫と迄評価された秋田風俗人形の作家である。巻末記に得之の名を揚げ行動を共にして居ながら農美に全く触れていないのは誠に心残りである。然し十年間に渡り東北各地を行脚してこの本を発行した業績は高く評価されるべきであり東北への愛郷心の深さが窺える。銘すべき哉。
 私は二回大湯に赴き創型会木彫家福本晴男、書家の浅井汸二、花海旅館の花海邦子、大湯郷土研究会長の斉藤長八、秋田の得之ご系譜の勝平新一、大島農美資料館長藤井虎雄各氏より多大な御教示とご協力を頂き大湯農美の調査に取り組むことが出来ました。
また京都在住の郷玩研究家廣田長三郎氏より勝平得之の秋田風俗木彫二体をはじめ数多くの農美木彫風俗人形の御恵贈に与かりました。
関係の皆様に心より感謝申しあげます。

       付記

一、この資料に掲出の郷土玩具「木の下駒」「鹿踊」「笹野彫」以外は廃絶品となって居ます。
二、見学は次の場所でできます。

① 秋田市立赤れんが館・勝平得之記念館 〒010―0921 秋田市大町3の3の21
  ℡018―864―6851

② 木村五郎・農民美術資料館(藤井工房)木曜定休 〒100―0101 東京都大島町元町2の1の5
  ℡04992―2―1628

③ 宿 花海館  花海清人木彫作品・詩歌集(長谷川清一・大湯こけし)
  〒018―5421 秋田県鹿角市十和田大湯温泉上ノ湯34―1
  ℡0186―37―2―3221

三、木の下駒(竹駒木馬)作者不明・調査中 問い合せ先 岩沼市役所観光課
  〒989―2480 岩沼市桜1―6―20 ℡0223―22―1111 

  鹿踊 製作者 後藤登美雄 〒024―0076 北上市鳩岡町2―34
  ℡0197―77―3294

  笹野民芸館(笹野彫)製作者 笹野彫協同組合〒992―1445 米沢市笹野本町5208―2
  ℡023―38―4288

筆者  山口畑一 郷土玩具の会会員 〒339―0022 ℡048―798―0849 
  埼玉県さいたま市岩槻区高曽根1000
         ※ 資料として掲載した写真の人形は筆者所蔵のものです
                                   (平23・4・11記)




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日本郷土玩具の会第30号(平成23年8月1日号)に写真構成は若干異なりますが、上記本文が掲載されました。

参考  山口畑一(筆者)所蔵の人形(掲載した写真)の作品名と製作者名

     大湯彫 農夫  雪の娘  雪の童女  浅井小魚作 
     大湯彫 牛追い  瀬川善治作 
     大湯彫 秋田犬  浅井小魚作 

     勝平彫 雪の子(2体) 勝平得之作 京都 郷玩研究家広田長三郎氏恵贈品 
     勝平彫 馬方 秋田犬  勝平得之作 

     凹平人形 アネサ(姉)会津ヘコ平人形土産 伴野凹平作
     凹平人形 スカリ(正面像)スカリ(背面像 藁鞄) 伴野凹平作 
     凹平人形 白虎隊 彼岸獅子 伴野凹平作 
     勝平得之 版画 表紙絵

ちい散歩で放映に
2月の終わりにテレビ放映されたのですが再生ができず、あんこ人形誕生記に載せるのが今になってしまいましたが見てください。

テレビ朝日 2月28日「ちい散歩 伊豆大島元町編」 で紹介されました

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 テレビで彫刻家木村五郎の名前が紹介されたのはきっと初めてのことだったと思います。

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 私の作った豆あんこ人形がアップで映りました

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 スケッチから彩色までたっぷり時間をかけて描かれていました

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 地井武男さんの赤と白の椿の作品です、ちいさんの温かい人柄が人気の源だと数時間ご一緒して思いました。

「伊豆大島あんこ人形の歴史」
 代りばえのしない中味と写真ではありますが、再度自分なりに「あんこ人形の歴史」、藤井重丸にはじまり、彫刻家木村五郎・人形職人60年の藤井重治、そして今の資料館責任者の私に繋がる歴史をもう一度整理しておきたいと思います。 

 古くから大島に渡ってくる手段は船頼みでした、本格的な大島航路は明治40年、133トンの豆相丸が月3回の航海ではじまりました。昭和3年までは牛や貨物と人間が同乗する、貨物優先の船舶が週3日ほど通ってきていました。昭和4年に念願の純客船が毎日運行され、2000トン級の船が東京―大島、伊東―大島-下田を毎日往復するようになりました。
 明治の終り頃から多くの画家や文人たちが作品を描きに訪れていますが、定期大型船の就航により一般観光客が来島するようになりました。昭和3年には流行歌「波浮の港」がヒット、昭和6年には三原山に蒙古産の駱駝とロバを放ち、旅客を乗せて砂漠を横断するといった企画が人気を呼び、昭和8年女学生の三原山投身自殺を契機として投身自殺流行の奇妙な現象が起こり、一種の大島ブームが現出しました。このようにして伊豆大島の存在は広く知られるようになりました。
 画家を目指していた福島会津若松生れの藤井重丸は大正14年春頃に大島へやってきて岡田村に住み着きました。当時は「大成したければ大島を描け」を合言葉にして、多くの芸術家たちが大島へやってきました、その理由は何だったのか、大島に何があったのでしょう。
藤井重丸は南国情緒の「大島婦人風俗」のあんこ姿に着目して素朴な「木彫りあんこ人形」や版画絵葉書などを作り、観光みやげとして販売をはじめました。「あんこ」は姉っこが変化した地方言葉で「目上の女性を親しみ込めて呼ぶ」呼称です。

あんこ人形用絵葉書 画像 020
 大島の婦人風俗絵葉書(昭和初期)     婦人風俗を木彫に、あんこ人形創始者藤井重丸作品

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 藤井重丸あんこ(島娘)人形


 昭和4年から5年にかけて版画・洋画家の山本鼎が主宰する「趣味と実益を兼ねた産業の成立を目指した農民美術運動」の一環として、日本美術院所属の彫刻家木村五郎が彫刻講習会を開き島人に「あんこ人形彫刻」を伝授しました。木村五郎は昭和10年37才で亡くなるまでに「伊豆大島風俗木彫作品」を院展に10点ほど出品して注目されました。

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 大島の講習会で伝授された「あんこ人形」左【山帰り】 右【水汲み】

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 大島農民美術講習会(昭和4年)

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 木村五郎の院展出品(昭和5年)作品「水汲みの島娘」

島人人形
 島人が学んで彫り上げた「あんこ人形」


 受講した数人の島民は観光みやげの製作の道を進みましたが、短い講習期間で有ったために専業の仕事に出来た人は少なかったようです、最初は柔らかなエゴやミズキを使い、後には硬い桜や椿材で彫るようになりました。
東京で仕事をしていた藤井重治は昭和9年に島に戻ると、賑やかになっていた元町登山口で土産物店を開きました。その頃は木村五郎から指導を受けた島人数名が「あんこ人形」を彫っていたので見本を見たり先輩から彫り方を学び、店頭で実演販売をはじめました、バスで山頂まで行ける別なルートが出来るまで三原山登山のお客さんで賑わっていました。登山口を観光のお客さんが歩かなくなると店を港近くに移し、生涯60年かけて「島の女性の働く姿・水汲みの姿を伝えるため」に藤井重治は「あんこ人形」を12万体作りました。
平成9年に90才で永眠、この時点で木村五郎から伝授された「あんこ人形」を作る島人は途絶えました。

重治初期あんこ-45
 藤井重治の初期の人形

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 藤井重治代表作
 

椿の原木を刻んで作る素朴な「手彫りコケシ人形」は昭和24年頃から三原山の茶屋を中心に販売されてきました。

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 いろいろな形の手彫り人形


 この歴史ある「あんこ人形」とかつての良き大島の風俗風習を伝え残す「伊豆大島木村五郎・農民美術資料館(藤井工房併設)」を藤井重治の実子藤井虎雄が平成11年に開設させました。あんこ人形作りに加えて大人から子供まで気軽に2時間でチャレンジできる椿の枝で作る「あんこ丸彫り人形体験教室」を随時行なっています。

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 小学4年生の力作です

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 初めて彫られた大人のあんこ人形作品


また「大島を描いた画家や文人たちの資料」を掘り起こして館内で公開しています、あんこ人形の資料館は         【 大島らしさを後世に伝える場所 】 として存在しています。

資料館ポスター
 資料館のポスター

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有森裕子「夢の懸け橋・伊豆大島」であんこ人形映る
泉津の「おくやま荘」を定宿として現役マラソンランナーだった期間の内の15年通い続け、あれこれ面倒を見てもらった宿のご夫妻と4年ぶりの再会、思い出のマラソン練習コースを紹介、当資料館で「あんこ風俗とあんこ人形の紹介」「有森裕子さんと英国青年のJJさんがあんこ人形彫刻にチャレンジ」、それから「島の毒蛇(まむし)捕獲に遭遇してマムシ酒を飲まされる」「三原山展望台にて」という内容の番組です。元々が海外向けNHKワールドの番組なので(10月に海外では放送済み)レポーター役の二人の会話はすべて英語です、その英語に字幕スーパーをつけて放映されました。

私は10数年「伊豆大島を描いた画家や文人の作品や資料」を有志と一緒に掘り起こしてきました。動機ー何で大島に来たのか やったことーどんな作品を描いたのか、何が気に入ったのか、多くの文人墨客を調べることで何か共通する「伊豆大島の魅力」が浮き彫りになるのではないか、そう思ってやって来ました。
有森さんも今回の旅番組のなかできっと「どうして長く通ってきたのか、何が魅力だったのか」そういう事を語ってくれるのでは、そう期待したのですが、どうだったでしょうか。

有森さんは伊豆大島木村五郎・農民美術資料館(藤井工房併設)にこれまで何度かコーヒーを飲みに来ていただきました。有森さんは「おひさしぶりです」そう言って資料館に入ってきてくれました。「あんこ姿の由来や人形の形」などを紹介、昭和初期の女性の姿の絵葉書や古いあんこ人形、父の作った人形、木村五郎の木彫作品(木村五郎先生の作品がテレビに映るのは初めてだと思います)の紹介。
それから椿の枝を彫刻刀で刻んで作る「あんこ人形木彫り体験」にチャレンジです。まったく初めてのぶっつけ本番ですが上手に作られました。
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 農民美術講習会で彫刻を伝授された島人のあんこ人形

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 私の父・藤井重治の一刀彫あんこ人形

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 彫刻家木村五郎のあんこ人形

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 自作のあんこ人形(右が有森さん、左がJJさん(モデルはジュリアロバーツだと言ってました)

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春に企画展をした「あんこ人形創始者の藤井重丸氏」の人形展示ケースと私が真似して彫った「ずんぐりむっくりのあんこ人形」も映りました。
 短い時間でしたがこうして「あんこ人形」を海外や日本の各地に流していただけたことに感謝です。

あんこ人形創始者再検証
 藤井重丸資料展のガイドブックの中で「初めて見る貴重な資料」を分析してみました、確証を持って言い切れるだけの決め手は少ないのですが、藤井重丸氏の項を閉じるにあたり、もう一度「あんこ人形の創始者―藤井重丸」を聞き取り・伝聞、島の新聞、現存する人形の比較により検証して見ようと思います。

1,聞き取り・伝聞

 私は11年前にこの資料館を建てました。夢を実現させるための第一のハードルは「木村五郎とあんこ人形」についての資料を掘り起こし、充実した資料集を作れるかどうか、ということでした。
 調査で出会った重要な人物が大島元町にお住まいだった山藤登志さんです。山藤さんは木村五郎が定宿にしていた「柳川舘」の親戚筋の方で、宿に出入りして木村五郎と親しく話が出来た顔見知りです、登志さんには版画や木彫りなど木工が得意な兄弟が二人いました。兄の山藤忠は木村五郎が講師をした農民美術講習会に出ました、弟の柳瀬幸雄は講習会で習うことは無かったのですが、家から近かったので会場へ出入りしていたそうです。
 登志さんから「大島で講習会をする前から岡田と元町で人形を彫っていた人がいた」とお聞きしました、元町ではこの兄弟が最初だったのでしょう。現存する「あんこ人形(山藤忠作)」を開館から約1年資料館で展示させていただきました。
 版画家の本多保志さんが「木村五郎とあんこ人形と私」という聞き取り調査の文に「観光が盛んになりはじめた大正の終り頃、大島のみやげは月出商店の絵葉書くらいしかなかった。大正14~15年頃に岡田に藤井重丸という絵描きが住んでいた、重丸さんに杖を彫らせた・・何かおもちゃを作ろうと、今のこけしの様な丸い人形を作ったり木炭人形を作ったりした」という岡田在住の白井潮路さんの話が載っています、白井さんは藤井重丸を支援した一人です。
 ここで分かったことは木村五郎が講習会で彫刻を教える前から大島でおみやげとして「あんこ人形」が作られていたということです。

2,島の新聞の記事

 『島の新聞』は大正末頃から戦前くらいまで一貫して「大島の産業に木工を」と紙面で呼びかけました。農民美術講習会の様子を記事にし、彫刻家木村五郎の「大島に農民美術の生まれたこと」ほか数回木村五郎の寄稿文や大島農民美術組合の牽引役だった大橋清史の組合活動報告を積極的に載せました。
 昭和4年6月には農民美術特集号を企画して日本農民美術研究所山本鼎所長の「農民美術について―趣味は米と同じに生活の糧である」や大島を訪れた二科会会員中川紀元画伯の「木彫り人形を見て」の記事を載せました。
 昭和9年7月号の社説「農民美術組合の作品について」で土産物としてのあんこ人形の価値を評価しています。これだけ熱心に島の木工産業育成に力を注いできた島の新聞が藤井重丸没後の訃報記事で「あんこ人形の創始者藤井重丸」と書き、大島カルタでは「きー木彫りの元祖藤井重丸」と詠んでいます、藤井重丸氏が住んでいた岡田村からあんこ人形が最初に生まれたに違いありません。  


3,あんこ人形の比較

【1】初期のあんこ人形(昭和2~3年頃のものか)
 藤井重丸と柳瀬幸雄の人形(人形にシゲ○、ユキ尾のサインがあるので作者を特定できる)写真①、柳瀬さんは講習会に参加してはいないが実兄が講習会に参加、長く人形を作った島人の一人です。
二人の人形の共通点は、髪の毛とてぬぐいを絵の具で塗り分けている②③、前垂れのひもは絵の具で描かれている①、頭に乗せた水桶には魚の姿や水の青など何らかの彩色がしてある④、足は揃っていて前後に開いてはいない。農民美術という運動とは無関係に、日常見られた大島独特の婦人風俗姿⑤を「純粋なお土産品」として作りはじめたものと思われる。

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  ①右の三体がシゲ○作のあんこ人形、左端は柳瀬幸雄さんの人形

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  ②③髪の毛とてぬぐいを彩色

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  ④水桶のなか、魚や水を彩色

あんこ水くみ
  ⑤普段着の女性の水汲み姿

【2】農民美術あんこ人形(昭和4~5年以降)
 彫刻家木村五郎は人形意匠(姿形)を水汲みと山帰り(山から薪を頭に乗せて帰ってくる姿)⑥に決めて講習会で島人に二体の彫刻技法を伝授した。
 特徴は型紙⑦を使って粗彫りをしていること⑧、前垂れのひもと結び目を彫刻し⑨、束ねた髪の毛も立体的に彫刻で表現している⑩、足を前後に開いている人形⑪が多く見られる。

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  ⑥講習会で彫刻指導されたあんこ人形2体(作者不詳)

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  ⑦水汲み(左)と山帰りの型紙

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  ⑧型紙を転写して粗彫り

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  ⑨前垂れのヒモと結び目を彫刻

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  ⑩束ねた髪の毛を彫刻と彩色で表現

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  ⑪島人のあんこ人形

【3】「青衣の女」
 木村五郎が指導したあんこ人形は水桶と薪の二種類であったが、彫刻家として日本美術院展覧会に作品を出品するために試作した「伊豆大島婦人風俗木彫作品」の姿形の人形も教えたと思われる。「青衣の女」というタイトルで島人は商店に卸して売っていた。左端が木村五郎の作品(大島に現存)、右の5体は受講生の「青衣の女」⑫、それぞれ独自の表現方法で彫りあげている。

大島人のあんこ
  ⑫左端木村五郎の作品、右の5体は受講者の作品

 「木彫の元祖・あんこ人形創始者―藤井重丸」の貴重な資料と現存するあんこ人形は今田さんのご好意により引き続きこの伊豆大島木村五郎・農民美術(あんこ人形)資料館で展示させていただけることになりました。島人のあんこ人形や彫刻家木村五郎の作品と一緒に見ていただきます。
 私は岡田港まで時々行くことが有ります、岡田トンネルの手前に生前藤井重丸氏が暮らした場所(畑)が残っています、「80年も前の草庵跡がはっきりと分かる時間が止まったような空間」を初めて今田保さんと見た時に味わった「驚きとこみ上げてくる感動」が通る度に蘇ります。
 今田保さん、大島でシゲ○さんを探している私を見つけ出し連絡してくれ、貴重な資料を見せていただきありがとうございました、これからもあんこ人形創始者として顕彰して行きたいと思います。
 (新しい発見や資料の掘り起こしなどの動きがあればシゲ○さんについて随時掲載いたします)

「藤井重丸」展の御礼
 2010年8月7日

「藤井重丸」展への御礼の言葉

     藤井重丸の従弟「今田二郎」の子  今田 保

    
その昔、NHKのラジオに「尋ね人の時間」という番組がありました。
第2次世界大戦で行方不明になった人を捜すものでした。その戦争とは全く無縁の話であり、その死もはっきりしていたのですが、「藤井重丸」はまさにその「尋ね人」として、ただ一人応えることができる私に投げかけられたのだと思います。
そして、縁者であり、資料類を多数保存しているということで、その発信者、伊豆大島の藤井虎雄様にご連絡申し上げましてから7カ月が経ちます。その間に「藤井重丸」ゆかりの伊豆大島で「資料展」および「七十七回忌法要」を執り行うことができましたことは、いま振り返りますと、まさに夢のようであります。あの時、忙しさにまぎれて動かなければ何もなかったのです。思い切ってご連絡した甲斐がございました。しかし、これもご縁だと思います。その詳しい経緯のすべては「あんこ人形誕生記」にございますので、改めてこれ以上は述べませんが、資料展にお運び下さった方、インターネットでご覧下さった方、「藤井重丸を実際に見たことがある」とご連絡下さった大島の方、野田浜での法要に立ち会って下さった鈴木ご夫妻、寄せ書きをお贈り下さった大島ご出身の洋画家・中出那智子様ほかには厚く御礼申し上げます。さらにこれは当然のことながら、館長の藤井虎雄様および大島郷土史研究家の時得孝良様のご尽力なくしては不可能なことでございました。合わせて厚く御礼申し上げます。
 縁者といたしましては、これからも「藤井重丸」を末永く語り継いでいきたい、それだけです。今後ともなにとぞよろしくお願い申し上げる次第でございます。

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            今田家所蔵の藤井重丸作「あんこ人形」(高さ5センチ)
                      




資料を読んだ感想いただきました
藤井重丸展を記念して今田さんと二人でまとめた小冊子(ブロク6月6日から25日書き込み分を綴じたもの)を親交のある知人送ったところ、手紙をいただけたのでここで紹介させていただきます。


藤井重丸 さんの資料いただきました。
とても感動的な物語です。藤井さん、今田さんの興奮がよく伝わってきます。
互いに捜していた関係者が偶然に見つかり、その成果は衝撃的でした。
それが奇しくも七十七回忌の年であったことは、木村五郎生誕百年の年に藤井工房が開館したことと合わせ、
願力が故人に通じたように思え、御尊父の霊を含め、藤井さんが故人達に支えられているように思えます。
かなり詳細なことが一度に判明し、藤井重丸さんのルーツが明らかになりました。
おめでとうございます。
大島島民史にも、新たなページを付け加えることになるでしょう。
もし大島で新聞が発行されているならば、連載で島全体に知らせたいですね、興味を持って読んでもらえると思います。
「偶然見つかった」と上に書きましたが、正しくは偶然ではなく、それは藤井さんが常時アンテナを張り、情報キャッチに努力しておられたからです。
「祖母今田キヨの肖像」や「おぢいさん」、「ねこのチビスケ」の絵などもいいですね。
「お節ちゃん」の写真が残っていたのも楽しいことです。彼女がどこのどなただったのか、その後どういう運命を辿ったのか、知りたいですね。

藤井重丸展の新聞記事
7月28日付の七島新聞に記者の方が取材してくれた「藤井重丸展」の記事が載りました。
いつも思うことですが、自分たち当事者は「これで良し」と思いながら事を進めているわけですが、まったくの第3者がこうして企画を記事にしていただけると、やっぱりやってよかった、そう思います。


七島新聞偲ぶ記事

シゲ○さんの資料分析
藤井重丸作品・資料展が終ってから、幾つか分かったり推測してみたことがあります。


大島岡田村に移り住んだシゲ○さんのために草庵を村人が作ってくれた、と「島の新聞」に載っています。シゲ○さんの資料を大事に保管されていた今田保さんに見せていただいたアルバムに草庵前で三人で写した写真が貼ってありました。岡田にお住まいの縁者の方に写真を見ていただいたところ、右端のステテコ姿の方が草庵の建つ土地の当時の所有者の川島市右衛門さんであることが判明しました、大工さんをされていたそうです、きっと川島さんが村の衆に呼びかけてご自身の土地に建てられたのでしょう、シゲ○さんの良き人柄がそうさせたのだろうと思います。(写真真ん中にシゲ○さん、右に川島市右衛門さん、左端の人物は不明)
   草庵


大島が観光地として注目されはじめた昭和の初期にシゲ○さんは大島の版画を売り出しています、大正の末期に来島、芸術家の下地があったのできっと直ぐにはじめたのだと思われます。手許に版画絵葉書があります、昭和5年10月17日付のスタンプが押されています、これでどんなに遅くとも昭和5年までには着手したことが分かります。私は昭和2.3年から「版画絵葉書」や「あんこ人形」を手掛けていたのではないか、証拠の品はまだ入手出来ていませんが、そう推測しています。
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草庵で快適に暮らしていた昭和7年の冬の嵐にあって家は吹き飛ばされて住まいを失い、シゲ○さんは古里の会津若松に一度戻りました。しばらくして終の棲家とする覚悟で大島に戻って来ました、その時は既に結核という病を得ていました。
病気の事情を知った岡田村の人は空いていた家をシゲ○さんに貸してくれたのかもしれません。シゲ○さんが祖母宛に描いた手紙には「大きな家で絵を描いたり食事の支度をするシゲ○さんの姿」が描かれています、このスケッチを初めて見たときには、「画家の願望(こうありたいものだ)が描かせたものだろう」そう思ってみたのですが、今は「実際に二度目の来島後はきっとこの家で最後まで暮らしたのではないか」そう思うようになりました、集落に近く通りに面した家です、日当たりのいい部屋で描いているシゲ○さんを村のご婦人や子供が庭から見ています、村からちょっと離れた一軒家の草庵とは違い、快適で恵まれた晩年だったのではないでしょうか。
   手紙家
「ゑはひ(画かき)さんらい、家でごしょうしてんづらと思えばこうして毎日精出して描いてんだぢえ、こんの」と話しかけてくる、と手紙には書いてあります。
   
   手紙台所



4体目のあんこ人形
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藤井重丸作品・資料展に展示した「あんこ人形」を復元しようと試みた4つめの人形が完成しました。4体のなかでは一番出来がいいように思いますがどうでしょうか。なかなか全体がスリムに成らず顔も体も倍近く太めのまま終らせました、顔はいつも書き慣れている表情にしました、しましたというより、これしか出来ないのが現状です。(左シゲ○作あんこ人形、右「とら○【とらおーと読む】作」あんこ人形)
普段のようにして村を歩く女性の姿をはじめて人形に彫ってみようと閃いた感覚はたいしたものだと思います。
一応の完成を見たので遠路長野からお借りしていた「藤井重丸あんこ人形4体」はようやく所蔵者にお戻しすることができました。
型紙にしてあるので、またいつか彫ってみようと思います。
資料館では9月まで特に企画がないので、せっかく整理して貼りつけたシゲ○さんの資料はそのまま壁に掛けて来館者には見てもらっています。
遅れていますが、七島新聞に資料展の記事が来週載るようです。
シゲ○人形の復元に挑戦
資料を展示中はあまり思わなかったのですが、展示が終っていざお借りした人形をお返しする段になって「長野からお借りした人形にはもう会えないかも知れない」その思いが突如よぎりました、シゲ○さんを思い、追悼の気持ちで私なりの「シゲ○あんこ人形」を作ってみることにしました。
こうしてシゲ○さんの人形と並べて見比べてみると、真似してみたつもりでした、しかし残念ながら別物になってしまいましたが思い出の人形になりました。
追悼をしながらと書きましたが、本当のところは「思うように彫れない、もっとすっすっと早く形にできないものか」そういう邪念が頭いっぱいに広がっていたのでした、無心にならなければこのくらいが精々でしょう。型紙を作ったのでまた挑戦してみたいと思います。(写真の両端がシゲ○人形です、本人は似せて作ったつもりでしたが・・・)
藤井重丸氏のサインは「シゲ○」です、私は藤井虎雄といいます、サインを考えました、「とら○」に決めて書き入れました、世に出回ることはないかと思いますが「とらまる」ではなく「とらおー」と読んでいただければ幸いです。

     とらしげ人形
 


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